第五章 キムチと餃子は裏切らない~東信漬物と夢見亭 4
現状が確認できたらしいかまいたちはがばりと起き上がり、私たちを威嚇するようにねめつけてくる。
「おい。お前、兄弟はどうした」
犬若が問いかけても、かまいたちは警戒する姿勢のまま動かない。
「お前たちは、多少人に近しいとはいえ、もっと山深い地域に生息しているはずだ。この林はもちろん、そこの裏山でもお前らには浅かろう。何かわけありか?」
答える気配のないかまいたちの様子に、私はぽつりと言った。
「しゃべれないのかな」
犬若といい天狗といい普通に話せていたので忘れていたけど、そういえば言葉を交わせない妖怪も何匹か見たことがある。
思案顔になった犬若。その後ろから、唐突に声が響いた。
「ああ! なんだあんたたち! ううわ犬でっか妖怪かよ! ていうか見えてるのか、ジライヤが!? そいつに何するつもりだ!」
驚いて振り返ると、そこには、小学校高学年くらいに見える男の子が立っていた。アスファルトの上で仁王立ちになり、肩をいからせている。やや痩せていて、短い髪が柔らかそうだ。動きやすそうなTシャツとジーンズ姿から覗く、腕と足首の細さが、少年らしい。
お姉ちゃんが、
「ジライヤ? このかまいたちのこと?」
と、少年と妖怪を見比べながら言う。
駆け寄ってきた少年は私たちを押しのけ、ジライヤ――というらしい――を抱え上げると、裏山の方へ走っていく。
「そのでっかい犬、あんたたたちのか!? でも残念だったな、ジライヤの方が断然かっこいいだろう! なんたってかまいたちだからな! 図体だけのワン公なんか目じゃないぜ!」
器用に後ろに向かって叫びながら、少年は茂った森の中に消えていった。
「ワン公とは、また古い……」
「お姉ちゃん、そこ?」
「でも、いるものなんだね。こんな住宅地に、犬若以外にも妖怪が」
お姉ちゃんが犬若に向き直る。
「ん。まあ、時にはな」
犬若が、山の方を気にしている。私は下から犬妖の顔を覗き込むようにして、聞いた。
「犬若、どうかした?」
「いや。あのかまいたち、人里に棲みついているようには見えなんだな。普段は山暮しなのだろう。そんなものと共に山になんぞ入ったら、多少浅い山とはいえ、人間の方が妖怪に感化されるかもしれん」
「感化って?」
犬若は冷めた目で答えた。
「人里に降りる気をなくすということだ。知られた言葉で言うと、神隠しというやつだな」
「大変じゃない!? なんでそれを知ってて、静かにお見送りしてるの!?」
「いや。あのガキ、一度少々痛い目を見るのもいい勉強になるのではないかと」
「罵倒を根に持ってる……! だめだって、追いかけないと!」
私たちのやりとりを聞いて、お姉ちゃんが、苦笑しながら歩き出す。裏山に向かって。
「まあ、とにかく、三十分の散歩じゃ済まなくなったみたいだね」
盛夏の裏山は鬱蒼としていたけど、まだ日が高いおかげで、気味が悪い感じはしない。
整備された道を通ってさえいればあまり危険のない山ではあるけれど、さすがにそこから外れてしまうと、危ない個所というのはそれなりにあるはずだった。
私は首を伸ばして藪の向こうを見ながら、
「道から出ちゃってるのかなあ。あのくらいの男の子って、探検とか言ってどんどん危ないところに行きそう」
とつぶやく。
お姉ちゃんが「犬若、匂いとかでたどれない?」と聞くと、犬若は「もう嗅いでいる。もう少し先までは舗道を行ったようだな」と言ってのしのしと進んだ。
そうして上り坂を歩いていると、犬若が急に道から出て、下草を踏み分けながら木々の間に入り込んでいった。
「犬若?」
と私が呼びかけると、間を置かずに、
「うわっ! 何すんだ、離せ! いやでっか、口とかでっか! こっわ!」
と騒々しい声が聞こえてくる。
そして私たちのところに戻ってきた犬若は、顎に少年の襟をくわえて、半ば宙づりにしていた。
ジライヤもその足元で、くるくると走り回りながら、ぺしぺしと間断なく犬若の前足に蹴りを入れている。かまいたちの短い足なので、効いているようには見えなかったけれど。




