第五章 キムチと餃子は裏切らない~東信漬物と夢見亭 1
いいかい、お前に、ちょっと不思議な話をしてやろう。
昔話じゃないぞ。お伽噺でもない。
だってあいつは――……
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「輪道。よかったら、これをもらってくれないか」
顔立ちの整った眼鏡男子にそう言われれば、私だって悪い気はしないどころか、嬉しい。
ただ、場所が昼間の事務所で、差し出されたものがキムチのパックだったため、私の返答は
「え。どうも。もらっていいの?」
という味もそっけもないものだった。
同僚の桐林くんは、フレームのない眼鏡を右手の人差指で細かくつつくように持ち上げながら、
「この間の出張は、僕が勝手な真似をしたせいで、輪道にも迷惑がかかっていたと思う。それが翌朝、にこやかに工場見学へ同行してくれて、どんなに心が軽くなったことか」
確かにあの朝は、メーカーの手伝いに行った桐林くんが寝不足に見えたので、それなりにいたわった覚えがある。
前の晩に高速道路の渋滞を解消させたのが私が会いに行った妖怪たちだったため、私にとっても他人事ではなかったので、勝手に桐林くんと共闘したような感覚があったものの、彼にしてみれば独断専行を私が許容したように見えているのかもしれない。私は上司でもなんでもないので、彼が気にすることはないのだけど。
「何かお詫びがしたかったが、あまり値段の張るものや堅苦しいものもかえってどうかと思っていた。そこで、最近僕が大注目している漬物メーカーの新商品、『東信漬物 刻みキムチ徳用パック 四五〇グラム』を贈らせてもらいたいというわけだ」
「というわけなんだ……」
商品名にブランド名や量目をつけ足して呼ばわるのはいかにも食品業界らしいなあ、と思いつつ、受け取る。
「贈り物として風変りであることは、自分でも分かってる。でも僕なりに、悩んで選んだんだ」
桐林くんがふっと眼を伏せてそう言った。
「い、いやいや嬉しいよもちろん! ありがとう! キムチ好きだし! そもそも、迷惑なんて思ってないから! 色々新鮮で楽しかったよ」
慌てて私がそう言うと、桐林くんはぱあっと表情を明るくする。
「よかった。お陰さまでララメルの導入も順調だし、僕にとってもいい出張だった」
「うんうん。ところでこれ、刻みキムチってことは刻んであるの?」
ほどよく辛そうな濃い赤色の調味液の中では、中の白菜がどういう状態なのか判然としない。
「そう。一口大に刻んである。それにこれは、いわゆるぶっかけキムチと呼ばれるような、野菜に調味液をかけただけのキムチじゃないんだ。イカやアミエビはもちろんその他海産物をたっぷり注ぎ込んで熟成させた、本格キムチなんだよ。本場韓国のものも、ただ辛いだけじゃなく複雑玄妙な旨味が魅力なんだけど、それとは別に日本人の食卓に合うキムチが、最近はたくさん作られてる。これはそのひとつだ」
「そう言えば、蟻ヶ崎さんが、キムチは漬物売り場の救世主って言ってた気がする」
デイリー課の女傑である蟻ヶ崎さんの商品評は、いつも端的で分かりやすい。
「ああ。買い上げ点数が増やせるし、商品ラインナップも豊富で、定期的に新商品も出るからね。漬物カテゴリの売り上げが伸びない時は、キムチのスポット販売はよく仕掛けられるな。とにかく、これも素晴らしい新商品だ。……だから特に他意はないからな」
「? それは、キムチに他意はないだろうね……?」
私は首をかしげながらもありがたく刻みキムチを給湯室の冷蔵庫にしまい、向こう何日かはおかずに困らないなと喜びながら、午後の営業に出かけていく桐林くんを見送った。
席に戻ると、先輩の鬼無里さんがすすっと耳打ちしてきた。
「小花ちゃん……桐林くんったら、キムチで小花ちゃんを口説こうとしたの?」
「ぜんっぜんしてませんよ……。今のはただこの間の、」
「あり得ない……キムチで……」
鬼無里さんが眉間にしわを寄せて、頭を横に振る。
「いや、だから、違いますって……鬼無里さん?」
「誰と誰と誰に言いふらそうかしら……」
「だーかーらー! 口笑ってるじゃないですか!?」
鬼無里さんは両手をで口元を塞ぎながら、くぐもった声でしゃべり続ける。
「憎いッ! 我ながら心底しょうもないと自覚しながら、のべつまくなしに誰かれ構わず適当な噂を言いふらしたくてたまらない、この業が憎い!」
「相当ストレスが溜まってるんですね……何が業ですか……」
「うっうっ。もうじき七月も終わりでしょ、迫りくるお盆のデータと伝票処理を考えただけで、今から胃が……!」
「あ、確かに……。私、社会人になると、こんなに連休っていうものが恐ろしくなるなんて思いませんでした」
「社会人にもよるし、なるようにしかならないって分かってるんだけどね……。できる限りの下準備と、後処理に向けてくくる腹と、あとは休日中の対応に立ち向かう精神力。それだけが頼りよ」
後半に行くに連れて精神論になるんですね、とは言わないでおく。
「ま、イレギュラーに対応できるのは、日頃の積み重ねだけね。健康に気をつけて、なんとか元気に乗り切りましょ」
空元気を振るって、鬼無里さんはガッツポーズを作った。