第四章 ケーキを運べ!~パティスリー ララメル 12
犬若の背中に乗るのは、久し振りだった。
雨が降る夜の街を、私の姿も消してくれたまま、巨大な犬妖は軽快に駆けていく。
「雨風は不愉快だが、お前の姿を人目から隠すのにはちょうどいい。化かしやすくなる」
大雨の中、レインコートはすぐびしょ濡れになったけど、私の体は犬若から滑り落ちたりしない。そういえば昔から、どんなにスピードを上げても犬若から落ちることはなかった。これも犬若の能力のうちなのかもしれない。
凄まじい風が体に吹き寄せ、レインコートの裾が破れそうなほどはためいた。
「犬若、どこに向かってるの!?」
風音に耳を塞がれているので、大声で訊く。
「奥三河だ!」
「どこそこ!?」
「乗っていれば分かる! 飛ばすぞ!」
犬若が更にスピードを上げた。こんな速度は初めてだった。街明かりが、流星のように後ろに吹き飛んでいく。
足音もなく屋根を飛び、電線をまたぎ、荒れ狂う風をついて驀進した。
新幹線並みとは言わないまでも、高速道路の車よりずっと速い。
「こ、これが犬若の全速力!? 初めてだよね!?」
「ふ。真の力はこんなものではないぞ!」
「そうなの!? じゃあ出してよ、真の力!」
私は不謹慎にも、わくわくしつつ言った。
けれど。
「……そのうち、いつかな」
「……盛ったな」
そうこうして、気が付けば。
私たちは、暗い山の中腹に到着していた。
名古屋よりは多少風が収まっていたけど、雨はしたたかに降り続いている。
犬若は私を乗せたまま獣道を歩きながら、辺りを見回していた。
「ここが、奥三河?」
「そうだ、碁盤石山だ。おおい、継の翁よ。いるのだろう」
犬若がそう吠えると、急に雨が弱まった。
獣道の奥――上方から、別の声が降ってくる。
「久方ぶりに聞くな、犬妖の吠え声など。人間も一緒か」
暗闇から人影が現れた。
山伏姿に、白く豊かな髪。手には奇数の羽のうちわ。背中に羽。何より、赤ら顔の真ん中で高く伸びた鼻。
「ええ! ……凄く有名どころの……!」
天狗だ。間違いなく天狗だ。
うろたえる私に構わず、犬若が「へ」と息をついてから、言った。
「継の翁よ、頼みがあってきた。この雨を止めたい。助力を請う」
「妖怪なんぞの頼みを、なぜわしが聞かねばならん」
「確か一度、貸しがあったな。ここで返してもらいたい。新八郎がいなければ、どこぞの山神に、賭け碁でこの山の一部を奪われていただろうが」
「ち……何百年前の話を……」
「試しの椀で、試すだけでもいいのだ。それくらいは構うまい?」
私は、天狗が逡巡している間に、犬若の背を上って耳打ちした。
「ね、新八郎とかお椀とかって何のこと?」
「新八郎は江戸に住んでいた、おれが犬だった頃の飼い主だ。商いの途中でここへ寄って、縁を作ったことがあってな。それで試しの椀というのは……」
カン、と音がした。天狗がうちわを振り、そこについた鈴が鳴ったのだ。
「よかろう。試すのはその人間でよいのだな?」
「え?」
「むろん」
「え? 犬若?」
天狗が右手で懐を探り、黒い茶碗を取り出した。やや小振りで、陶器製のようだ。
「娘。この椀は、なぜ黒い? 正しく答えたなら、貴様らの頼みを聞こう」
「なぜって……あの、答えが間違っていたら……?」
天狗の代わりに犬若が答える。
「それまでだ」
「き、聞いてない! 犬若は答知ってるの!?」
「おれは知っている。だが、知っている者は答えることができない。教えることもできない。頑張れ小花」
「がんば……いやちょっと待っ……」
天狗が、すいっと左手を掲げ、手のひらを開いた。
「十秒」
「俗っぽい!」




