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第一章 小花 さち 犬若 2

 少々の残業などをこなしつつ、一日の業務を終えた私は、私服に着替えて会社から出た。退社時間は社員によってかなりバラバラなので、たいてい一人で帰ることになる。

 六月の空は、まだ少し明るい。今日は木曜日。明日頑張れば、とりあえず週末だ。

「ああ、今日もつっかれたー」

 私は電車通勤なので、最寄りの駅へ向かって歩き出した。少し湿った風が頬に触れる。

 そして、その声は背後から響いた。

「ご苦労だった」

「……犬若さあ、なんでいつも後ろから声かけるの。びっくりするじゃない」

 振り向いた私の目の前にいたのは、身長百六十cmの私が少し見上げなくてはならないほど大きな、真っ白い犬だった。

 犬というよりは狼に近いフォルムで、人間の言葉をしゃべれるけど、小さなうなり声が喉の奥で鳴っている。

 道行く人が見たら、悲鳴を上げるだけでは済まないだろう。でも、犬若は限られた人間にしか見えない。私の知る限りは、私を含めてたった二人にしか。

「正面から堂々と現れる妖怪というのもどうかと思ってな」

「充分堂々としてるよ、それだけ大きければ」

「もう少し暗くなれば、人目につかないよう背に乗せてやってもいいのだが。明るいうちは、お前の姿も人目につかぬようくらませるのは骨なのでな」

「うん、私も犬若に乗せてもらうの好きだよ。ところで……今日は、お姉ちゃんは?」

「いつも通りといったところだな。さち(・・)にとっては良くも悪くもない……つまり、健常者から見れば少々悪い」

 それを聞いて、夕日に伸びる自分の影が、少し寂しく感じられた。妖怪である犬若には影ができないので、一人分だけだ。早く帰らなくては、という気持ちになる。

「小花。さちは、『今日の夕飯は何?』とは、決して小花に訊かないようにしているらしい」

「突然なによ……でも、確かに言われたことないな。なんでだろう」

「お前に重圧をかけたくないからだそうだ。ただ、お前の作る食事を何よりの楽しみにしている。見ているだけで分かる、さちのあの、何と言うんだ、メラメラ、ではなく、ワケワケ、ではなく」

「……うきうき?」

「それだ。明らかに、小花が台所に立つとそんな顔になる」

「そんな大層なもの作ってるわけじゃないのに」

 これは謙遜でもなんでもない。

「大層なのだろう。さちにとってはな」

「本当は、……元々、お姉ちゃんの方が料理が上手なんだけど。私は簡便商材に時短調理だし、めんつゆ万歳だし」

「結構だろうが。それも技術だ。あの材料がないとだめだとか、この道具がないと作れないとか言い出して逐電するより、よほどいい」

 ふうん。思わず、足取りが軽くなる。

「なんで犬若、わざわざそんなこと言いだしたの?」

「少しでもお前の励みになったらと思ってな。俺は……さちに対して、無力だ」

 そんなことはない。犬若がいるおかげで、どんなにお姉ちゃんがたすけられたことか。

 家の裏山で初めて犬若と出会ったのは、私が小学三年生、お姉ちゃんが五年生の時だった。それからもう十二年も経つ。まさかこんなに長い付き合いになるとは。

 今ではすっかり、この巨大犬がいつも傍らにいるのが、私とお姉ちゃんの日常になっていた。

「しかし、この辺りもそうだが、お前たちの家の周りも近頃は物騒になってきたな」

「え、そう? そんなに事件とか起きてたっけ」

「いや、いい。こちらの話だ」

 宙をにらんだ犬若が、そう言ったきり黙ったので、私はそれ以上は気にせずに、家路を急いだ。

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