第四章 ケーキを運べ!~パティスリー ララメル 1
お姉ちゃんが中学二年の春の夜、泣きそうな顔で、私に打ち明けてきた。
「私もう、裏山に行くのやめるね」
その時にはもう自室にしていた離れで、私と向き合って立ったお姉ちゃんは、ひどく痩せて見えた。
「どうして。先週も、その前も行かなかったじゃん。このまま、犬若と会うのやめちゃうの?」
「だって私、もう味が分からなくて、まともなご飯が作れないもの」
「そんな。食べ物なんて、どこかで買っていこうよ。ううん、私が作るよ。そうしたら――」
お姉ちゃんがかぶりを振る。
「別に、お姉ちゃんは料理ができなかったらだめってわけじゃないじゃん! 犬若、絶対寂しがるよ」
「そんなことないよ。小花が行ってあげれば……」
お姉ちゃんは、以前と別人のように憔悴していた。体は昔から丈夫ではなかったけど、今は心も体も疲れ切ってしまっているように見えた。まだ中学生なのに。
なんて言えばいいんだろう。
どうすれば、元気を出してくれるんだろう。
なにも思いつかなくて、途方に暮れかけたその時。
庭先から、聞き慣れた小さな声がした。うんと抑えた、妖怪らしく妖しい、でも落ち着いた声。
私たちは、二人で同時に窓を開けて、その名前を呼んだ。
「犬若!?」
「このところ、さちと無沙汰だったのでな。出向いた。女の三人暮らしと聞いていたし、ちと心配でな。む……」
犬若が、視線をお姉ちゃんに向ける。
「これまでと様子が変わってきたとは思っていたが。患ったのは、舌か」
お姉ちゃんが、さっと口元を両手で押さえた。目が涙ぐんでいる。
「気を遣わせたな。済まなかった」
「そんな。犬若はなんにも……」
「兼ねてよりお前たちも知ってのことではあるが、おれは食い物に釣られて人間にほだされるような小物ではない。従って、食い物を与えられないからといってお前たちと疎遠になるのは心外だ。また、女性だけの住まいを知ってほかすほど冷たい犬妖でもない。そこで、己の意志で、ここに棲んでやってもいいぞ。番犬もおらんようだしな」
私は窓のさんを掴んで、つい大きな声で言った。
「え! 犬若、うちに住めるの?」
「うむ。お前たちも、おれに用向きがある時にわざわざあの山まで出向かんでよかろう。ああ、ご母堂にはおれが見えんだろうから内緒にしておいてくれ」
「お姉ちゃん、聞いた? やったじゃん」
お姉ちゃんは、犬若を見つめたまま微動だにせずにいた。その口だけが、かすかに動く。
「でも、私、……もう、料理が」
「さち。お前の作る食い物はうまい。だがそれがなくても、おれはお前たちと共にありたい。おれの願いを聞いてはくれんか」
「願いなんて、そんな」
「気が合うというのはな、それだけ尊いことだ。ここの軒先を貸してくれるだけで構わん」
「だめだよ、そんな……ここに来て。私たちと、この部屋に」
「む。そうか?」
犬若は全く遠慮なく、窓から首を突っ込んできた。壁をすり抜けることもできるらしいけど、なぜかこの妖怪は扉や窓をくぐろうとする。
それでもサイズ的にはこの窓からはとても入れない……はずなのに、どうやっているのか、地面から頭まで二メートルはあろうかという犬若が、全身を離れの部屋の中にあっさり入れた。
「おおー……うちに犬若がいる」
呑気にそう言う私と対照的に、お姉ちゃんは、震える声で、犬若を見つめながらつぶやいた。
「犬若。小花。私、……なんていうか、すねてたみたい」
そんなに簡単なものではなかったことは、分かっている。でもお姉ちゃんがそう言うのなら、それでいい。
お姉ちゃんが、左腕を犬若の首に回し、右腕で私の肩を抱いた。
「本当に大事なものは、失くしてなんかなかったのに」
「うん」
犬若は、喉をころころと鳴らしていた。
そしてお姉ちゃんはこの日から、相変わらず体は弱かったけど、確かに元気になった。




