第三章 風を裂いた日、光明の夜 9
私はベットの上で前のめりになった。重心が前にかかり過ぎ、危うく床に落ちそうになる。
「き、今日!? なんで?」
「あの小僧の豆腐やら生揚げやらを食った時だ。あれらには、小花。お前の陽の気が乗り移っていた。結果、それを厭うた蛇妖に苦痛を与えた」
「あれに…? でも、いつも通り普通に料理しただけだよ。……ってほど手間かけてないけど。あ、響一郎くんのお豆腐が凄いってこと?」
「いや。質はいいが、それ以上特別なものではない。あくまで、お前の気があってこそだ。考えられることはいくつかあるが。ひとつには、おれの揺さぶりがようやく効いてきていたこと――今日まで、何度も心が折れかけたぞ。もうひとつは、今日の夕餉には、小花の格別な思いが籠っていたことだ」
「思い、って言われても……」
顎に手を当て、思案する。お豆腐自体は切石豆腐店のものだし、私は特になにも……。
「あの豆腐店、それに小僧に対して思い入れがあっただろう。だが、それだけではないな」
「そう言えば、今回切石豆腐店に行ったのは……新しい仕事のためで、それが上手くいって気持ちが乗ってたかも。それに、鬼無里さんからちょっと気合いが入る話も聞いたし。事務ってルーチンワークばかりで地味に思われがちだけど、本当は凄い、みたいな。だからその成果として響一郎くんが商品をくれた時は、思うところがあったかな」
「それなら、これまでの食材には、今日ほどの思い入れがなかっただろうな。そうすると、これはさちから蛇妖を追い出す突破口になるぞ。小花、今後はその新しい仕事とやらを務めていくのだな?」
犬若が、爛とした目で私を見た。
「今後も営業の会議に参加してってことだから、そうなると思う」
「毎回ごとに波はあるだろうし、条件も漠然としているが。お前が気炎万丈で成し遂げた仕事の成果として持ち帰った食材であれば、今日と同じことが起きる可能性は高い。お前の上司もやるものだな、小花の力を引き出すとは」
「き、気炎万丈かは分からないけど。……うん。上司とか先輩には恵まれてると思う。でもそっか、……私次第で」
私は思わず、両手を胸の高さまで上げて握り拳を作った。
「必要以上に気負うことはないが、光明は見えたということだ」
「あんな感じの、簡単な料理でも」
「手間数と想いは、単純には比例するまい。つまり小花よ、これは言っておくぞ」
犬若が、ずいと鼻先で私に迫ってきた。
「お前がいなくても、さちは舌を病んだ。だがお前とおれがいなければ、それを治すことは不可能だった」
鼓動が早まる。頬が熱くなった。
治せる、かもしれない。
私たちで、お姉ちゃんを。
「犬若。お姉ちゃんね、味が分からなくなっても、食感とか匂いとか、他の全部で食べ物を感じるでしょ」
「ああ」
「あんなになにかを味わうことに一生懸命な人が、報われないなんて、私は嫌だ。頑張るよ、犬若」
ふ。と、犬若が笑った。
階下から、お姉ちゃんがお風呂から上がる物音がした。
お姉ちゃん。
辛かったよね。
でも、私と犬若がいるよ。




