第一章 小花 さち 犬若 1
濃いブルーの制服に身を包んだ私は、息を切らして、それから逃げていた。
容赦なく襲い掛かってくる、恐ろしい敵。それも毎日。
逃げるといっても、せわしなく動かしているのは、足ではなく両手だった。
場所は密林でも荒野でもなく、千葉県の某市にある社屋の事務所である。
キーボードを叩く指は、入社した頃とは比べ物にならないスピードを身に着けたはずなのに、敵の速度もまた、なぜか同じように速くなったように感じる。
その敵の名前は、「午前十一時四十五分」という。今の時刻は十一時三十六分。
まずい。まずいまずいと毎日言っているけど、今日もまずい。
でも、乗り切るしかないのだ。全身全霊で。
胸中で唱えるだけではなく、
「ひゃああ……まずい。で、でも、これでなんとかっ」などとうめきながら、必死で運指する。
正直に言えば、一般事務というのは、もう少し余裕のある仕事というイメージだった。
まさか、毎日のようにデスクワークで(座りながらだというのに)呼吸を荒れさせ、冷や汗を流し続ける日々が待っているとは、思っていなかった。甘い。甘いよ、昔の私。
私、輪道小花は、今年二十二歳の事務職員だ。短大を卒業して、このヨシツネフードソリューションに入社した。食品の総合卸売業では割合名前を知られた会社で、特にデイリー食品と呼ばれるカテゴリーが強い。
そして社会人二年目になる今年、この時間帯の私は、そのデイリー食品課で、会社の主な顧客であるスーパーマーケットからの受発注データを処理する作業に忙殺されている。
「小花ちゃん! そっちどう!?」
受発注チームのリーダー、私より一回り年上の鬼無里芽衣子さんが張りのある声を上げる。私のハーフアップの髪もそうだけど、鬼無里さんのダウンヘアも、この作業の時は至極適当に頭の後ろで縛られている。それがせわしなく揺れて、「とてもまずい感じ」を効果的に表現していた。
「いけそうです! あと、メガカシワストアーさんとニューマツドールさんの発注データが来れば!」
「いつもその二社だよねえ、もー」
私たちを含めて、受発注チームは四人の女性職員からなっている。
広い事務所の一角、ものものしいワークステーションが並ぶ五メートル四方くらいの部屋。
昼前の一時、受発注ルームと呼ばれるこの中は、激しい言葉とキーボードのタイピング音が乱れ飛ぶ修羅場と化す。
私たち以外の二人からも、悲鳴じみた声が上がった。四人をさらに二人ずつに分けた組での分業には慣れたけど、それで楽になるわけでもない。
十一時四十二分。そろそろ、非常事態宣言を管理職にしなければならないかも……と思った時。
「データ来たわ、小花ちゃん! 二社とも大丈夫! エラーチェックして、四十五分に間に合わせるよ!」
鬼無里さんの指示が飛ぶ。
大手スーパーからの受注はほぼデータ化されている。昔はFAXや電話で受け付け、手作業で処理していたらしいけれど、今は電子データを受注すると品目や数量が受発注ルームのモニターに表示される。
ヨシツネは中間流通業者なので、自分の会社で食品を製造はしていない。この受注データを各メーカーに送信し、商品をうちの物流センターへ発送してもらう。それを各顧客に配送するのが、うちの会社の主な業務だ。
いろいろなことが自動化されているといっても、そこは人間相手の客商売で、様々なエラーや例外が起きる。わずかな時間で、私たちはそれに対処しなくてはならない。
「あ! 鬼無里さん、カシワさんがまた古い商品コードで発注してきてます! 開運乳業のアロエヨーグルト、エラー起きてます!」
「もう何度も注意してるんだけどね……エラーのせいで商品が届かなければ、困るのはお店でしょうに。新しいコードに打ち換えて発注してあげて」
「お店に、確認取らなくていいでしょうか」
「もう電話してる暇はない。あそこなかなかつながらないし。カシワの担当の飯田くんから、この対応でいいって聞いてるから、これでいくわ。そもそも、時間通りに発注してくれれば確認もできるんだけどね」
せわしなくキーボードを叩きながら、やり取りする。しゃべりながらもお互いの目はそれぞれが向かっている画面に釘付けだった。
「うわ、鬼無里さん、もう一個! サンラズエルのシュークリーム、いつもカシワさん二三ケースの注文なのに、百六十ケース注文来てます。……これ、特売とかですかね」
「飯田君からそんな連絡来てないし、特売なら別に注文してくるはずだから、入力数ミスかも。いいわ、サンラズエルなら十二時半くらいまで間に合うから、メーカーに発注飛ばさずに保留しておいて。後で飯田君に確認する」
そして、十一時四十五分。
鬼無里さんが他の三人に声をかけ、エラーがもうないか確認してから、
「発注します」と宣言した。
スーパーからヨシツネに送られてきた商品の注文が、うちからメーカーへの発注データに変換され、一気に送信されていく。やや古びたワークステーションから鳴り響く電子音が、私たちの安堵のため息を誘った。
「これでひとまず、今日も山場が終わりましたね……モンスターから逃げ切った感じです」
「声が疲れてるわよ、小花ちゃん……。あとは私が見てるから、机戻っていいよ」
私は呼吸を整えながら受発注ルームを出て、事務所の自分の机に戻った。席を離れるまでは置かれていなかった、乱雑に書きなぐられた伝票や、課内の連絡文書が、雑多に積まれている。
たいてい、受発注ルームに入って当日の受注にかかりきりになるのは、毎日十一時頃から。
スーパーからの注文はデータ送信によるものだけではなく、特に中小規模の店舗は昔ながらのFAXも多い。それをひたすらにキーボードを叩いてデータ化し、大手のデータ受注を待つ。
ある程度めどがつくと、お昼前にとりあえず急ぎの仕事だけ片付けて、必ず一時間休憩をとる。これは鬼無里さんから、新入社員の時に厳命されたことだ。
改めて、事務所の中を見回した。営業チームがほとんど出払っているので、空席が目立つ。
デイリーの他には、冷凍食品チームと水産物チーム。
この事務所のすぐ隣の敷地にある物流センターを取り仕切る物流チーム。
それに総務と受付。
これらが私のいる支社のほぼ全容だった。
他の支社では、一般食品や畜産品を扱うところもある。
事務所の中の従業員は、全員入れると、約八十人。
そこそこの大所帯で、それぞれ修羅場となる場所と時間が決まっている……けれど、基本的にはみんながみんな、丸一日忙しい。
椅子に座って脱力しながら、私は胸中でつぶやいた。
大変だ。
大変だぞ、一般事務……!