第三章 風を裂いた日、光明の夜 2
裏山には、家から歩いて十分ほどで着く。
そこから更に二三分の道を登れば、周囲は下草と木々に囲まれ、辺りに広がっているはずの家々は全く見えなくなる。
それなりに鬱蒼とはしているけれど、この日はよく晴れていて、周囲の緑も鮮やかだった。樹木の匂いが濃い。
「そういえば、お姉ちゃんあの犬の名前知ってるの?」
裏山の中腹で、柔らかい腐葉土の上に立ち、ぐるりと見回す。あの巨大な犬の気配はない。
「聞いてない。名前呼ばないと出て来ないかな」
「そんなこともないが」
「うわあ!?」
背後にいきなり現れた妖怪に、私たちは揃って悲鳴を上げた。
「名は犬若という。お前らの文字で、犬の妖怪と書いて犬妖と分類した者もいたな。ここに住みついているわけではないが、しばらくは腰を落ちつけるつもりだ。この山で名を呼べば、まあ、いれば出てくる」
「い、犬若さん。私はさち、こっちは妹の小花です。この間は、私たちを助けてくれてありがとう」
見上げるほど巨大な犬に、若干腰を引かせながらお姉ちゃんが言った。
「いいや。で、今日はどうした」
「あの、これ。お礼に、食べてください」
お姉ちゃんは、持って来ていたお弁当用ナプキンを広げた。
プラスチックのお弁当箱の中には、プレーンオムレツが入っていた。さっき作ったばかりなので、まだ湯気をまとっている。
「本当は冷まして詰めるんですけど、今日はラップだけ乗せて来ました。前は冷たいおにぎりだったので……」
「む。これを。おれに」
「はい。……あの、卵って食べても大丈夫ですか?」
「鶏卵か。案ずるな。普通の犬と違い、おれに食えないものはない」
得意げ(多分)に鼻を鳴らした犬若を見て安心したように、お姉ちゃんはオムレツを取り出して、手のひらに乗せた。
犬若が鼻をそこへ寄せ、特に躊躇もなくぺろりと一口でオムレツを口に入れた。
そしてもぐもぐと咀嚼する。三人とも、いっとき静かになった。
「……むう。温い。うまい」
「本当!?」
固唾を飲んでいたお姉ちゃんの顔が、ぱっと華やぐ。
「独特の柔さが何とも言えん。ただ柔いのではなく、なるほど、何層にも重ねて焼いているからこそなのだな。ひと噛みごとに甘い香りがおれの口中で広がり続け、終りなく滋養が溢れてくるようだ。僅かな塩に多めの砂糖の塩梅もいい、味の引き締まりと甘やかさが何度も繰り返されて、顎が止まらん」
生まれて初めて聞く妖怪の食レポに、私は少しだけ困惑しながら、お姉ちゃんは喜びながら、耳を傾けた。
「あ、あの、量が少なすぎたりしませんか?」
「腹いっぱい食わなくてはならないわけでもないのでな。そもそも、妖怪なんてものは食わんでもいいのだ。こんな結構なものを馳走になり、不満などあるわけがあるまい」
お姉ちゃんの顔が更にほころんだ。
自分の作った料理を褒められるというのは、そんなに嬉しいことなのだろうか……と私は少し驚いた。




