第二章 定番品を増やしたい~切石豆腐店 4
「偉い」
「はい?」
褒めたのは蟻ヶ崎さん。驚いているのが、響一郎くんだ。
切石豆腐店の、一階の奥。小さめの応接室のソファで私たちは向かい合っていた。
ヨシツネからは蟻ヶ崎さんと、飯田くんと、なぜか私も商談に同席している。
切石からは、響一郎君と一緒に彼のお母さんも加わってくれていた。響一郎君は、心機一転のため昨日のうちに髪を切ってきたらしく、短髪になっている。
怪訝な顔をしている恭一郎君に向かって、蟻ヶ崎さんが続けた。
「つまり、積極的な接客に自分は向かないと感じながら、それでもこの豆腐店を背負って立つ覚悟のもと、努力されていたわけですね。己の殻を破り、更なる高みへ――と」
「え、いえ、そんな立派なものじゃ。ただ、僕としては豆腐屋をやっていく上で、乗り越えなくてはならない壁でして……」
蟻ヶ崎さんは、黒いパンツスタイルの膝をぽんと手のひらで叩いた。
「確かに、コミュニケーション能力は現代社会で重要な要素です。場合によってはそれだけで世の中を渡っていけることもありますね。しかしあれはあれで、技術、あるいは天性。身につかない人間には、そうそう身につかないものです。切石さん、あなたのように、むしろ負担に思う方も珍しくありません。それを、そのように敢然と挑まれるとは……」
蟻ヶ崎さんが感心してかぶりを振る。シニヨンにまとめた髪は乱れもしないけれど。
飯田くんが、私に耳打ちした。
「輪道、戸惑ってるだろ」
「うん。凄く」
「商談の時、頑張ってる若者見ると蟻ヶ崎さんああなるんだよ」
事務所では、あまり見られない姿だ。少なくとも、蟻ヶ崎さんが商談のためにお芝居をしているようには見えなかった。
恐縮した飯田くんが、頬をかいて答える。
「僕は、ただの甘ったれです。他の人たちにはできていることですし」
「甘ったれに、このお豆腐は作れません! 他の人など関係ありませんね!」
蟻ヶ崎さんが、テーブルに乗った試食用の商品――絹、木綿、生揚げ、油揚げなど――を、びしっときれいに揃えた指先で示した。
一通り試食を終えた後、ひょんなことから響一郎君の対人コミュニケーションの話になったのだった。
「昨今、湯豆腐にすれば溶けてなくなってしまいそうな頼りない豆腐もはびこる時代において、このコク! 添加物の副作用ではない濃い甘み! 豆そのものの味を、しかし豆くささを消して旨味だけ抽出したかのような味わい! これは温豆乳を使って!?」
「ええ。うちは、父の若い頃からずっと温豆乳で。でも何より、豆ですね。豆腐の味は豆と水で決まってしまいますから。それともうひとつ大事なのは――」
蟻ヶ崎さんの目が鋭く光った。
「時間。ですね、切石さん」
恭一郎君がうなずく。
「そうです。工場で作るメーカーの豆腐は、どうしても見込みである程度の量を作った後、物流センターに運び込んで、翌朝出荷することがほとんどです。もちろんそれによるメリットは、値段を含めていくつもあります。けれどうちの豆腐は、その日の朝作ったものを届けられます。これは明らかな優位性です」
響一郎君が、すらすらとしゃべっている。まるで蟻ヶ崎さんと、かねてからの知り合いだったかのように。
飯田くんがまた耳打ちしてきた。
「なあ。本当にあの人、人とうまく話せないって悩んでたのかよ?」
「うん。でも……今、蟻ヶ崎さんと普通に話せているのは、おかしいことじゃないよ。人に愛想よく話しかけることは苦手でも、響一郎くんは、お豆腐作りには一番自信があるんだもの。それに――」
響一郎くんは生き生きとしているし、横に座ったお母さんも楽しそうにしている。
「自分たちの作った製品のよさを、蟻ヶ崎さんがまともに分かってくれたんだから」
蟻ヶ崎さんは書類を取り出し、納品の仕方や契約についての話を始めている。まだいくつかの手続きを経るだろうけど、切石豆腐店とヨシツネの契約締結はきっと問題ない。
「飯田くん、どう? メガカシワさんとの商談に使えそう?」
「地域性の強みもあるし、商品もいいし、結構強力なんじゃないか。水物での有力な新商品は、おれも助かる」
「水物?」
「豆腐、こんにゃく、漬物なんかの商材の総称だよ。メーカーの多いカテゴリだからな、差別化できると売りやすいんだ。つまり――」
蟻ヶ崎さんの方は、商談の要点はもう話し終えたようで、今度はお豆腐に使う消泡剤について響一郎くんと意見を戦わせていた。
「――これは、いい商談だと思う。ありがとうな、輪道」