第二章 定番品を増やしたい~切石豆腐店 3
「さち……さん」
「そ、そうだよ。気をしっかり持って。お姉ちゃんだって、響一郎くんになにかあったら悲しむよ!」
響一郎君の長い前髪の奥の目に、光が灯った。
「そうだ。さちさん……小花さん。あなたたちには、……危害を加えたくないんだよ。早く出て行ってくれ」
「できるわけないでしょう」
私は響一郎くんに向かって足を踏み出した。
「おい、小花――」
「話して、響一郎くん。私のせい? 私が会社で、ここのことを」
「違う。違うよ。ずっと前から、だめだったんだ、僕は」
どうにも、要領を得ない。
「犬若、この虫妖って追い払えないの? 私たちの時みたいに」
「こうまでしっかり、宿主に根を張っているとな。できんことはないが、そいつ自身の気力も必要だ」
私は響一郎くんに向きなおる。
そして、彼の肩を掴んだ。虫妖がびくりと反応して、私の手の甲にべたりと貼りつく。
「小花さん――?」
「うっ――」
おぞましい感触が伝わってきた。振り払いたいのを我慢して、私は口を開いた。
「心配してくれるんだよね。それなら少しでいいから、なにがあったのかを教えて。私は響一郎くんが、好きでこんな風になってるとは思えない」
「小花、離れろ。お前にも影響が出るぞ」
二匹目の虫妖が、私の手首に乗った。全身に鳥肌が立つ。体温が下がっていくのが分かった。歯を食いしばって、耐える。
「犬若、響一郎くんを、助けてあげて」
ちっ、と犬若の舌うちが聞こえた。
「小僧ッ! 目を閉じて、小花とさちのことを考えろ!」
「えっ。だ、誰だ?」
そうだ、響一郎くんには犬若が見えていない。
「この声の言う通りにして、響一郎くん。信じて!」
私の方も、余裕はなかった。肌の上の虫妖から浸食されているような感覚がある。凄まじい不快感だった。こんなものを何匹もまとった響一郎くんがどんな思いをしているのかと思うと、ぞっとする。
「わ――分かった。ええと……」
納得したというよりは私の勢いに押されて、響一郎くんが目を閉じた。
「よし。お前は、小花とさちと、幼少からの知り合いだな? その記憶で思考を満たせ」
「は、はい」
数秒、場が沈黙する。
そして、こころなしか、虫妖たちがわずかに、私や響一郎くんから浮いたように感じた。
「今だ、動くなよ小花!」
「え?」
振り向く間もなく、轟音が響く。
後ろにいた犬若の咆哮だと気づいたのは、慌てて耳を押さえた後だった。
「な、なにこれっ!?」
「ぐううっ!?」
響一郎くんも驚き、たじろいでいる。
その体から、虫妖がぼとぼとと剥がれて落ちた。
「や、やった! 犬若、今の!?」
「咆術という。言っておくが、虫妖どもを殲滅したわけではないからな。響一郎とやら、お前もおれの傍に来い」
「傍って言われても……」
「これで見えるか?」
犬若が身震いすると、響一郎くんが「うわっ!」と叫んだ。彼の目線がしっかりと犬若の顔を捉えている。
「小花さん……これは一体……」
「犬若っていって、うちに半居候のでっかい犬の妖怪。私とお姉ちゃんとも仲良し」
私の説明に、犬若がじっとりとした目でこっちを見てくる。でも、的確だったはずなので気にしない。
犬若も気を取り直して、響一郎くんに話し出した。
「お前にあれだけの虫妖が、通りすがりでなくとり憑いていたとなると、相当に懊悩を抱えていたんじゃないのか。その原因を取り除かんと、また戻って来るぞ」
「そう、そうだよ。私のせい……ぽいよね」
「いや、違うんです。すみません小花さん、久し振りに会うのに、こんな。僕は……父さんの跡を継いでこの店をやることに、子供の頃から決まっていました。それが嫌だと思ったこともなかった」
確かに、小さい頃からそんなことを言っていた。最近は会っていなかったので、もう切石豆腐店で勤めていることも知らなかったけど。
「店に出るようになってから、僕なりに一生懸命に接客したつもりです。でも、どうしても愛想よく商売ができないんです。顔が引きつって、挨拶やお礼もまともに言えない。学生の頃から人付き合いは苦手でしたが、働き出したらよくなるんじゃないかと期待してました。でも、全然だめで」
「それで、塞ぎこんじゃった、っていう……こと?」
「そんなことくらいでって、自分でも思います。でも、僕以外の人たちには当たり前にできることが、僕にはできないと思ったら……。そしてこれが一生続いたらどうしようって。商店街の他の同世代や、企業に就職した知り合いは、みんなもう顔なじみのお客を作っています。笑顔で、楽しそうに人脈を築いてる。これからどんどん差が開いていく」
響一郎君はお腹の辺りを右手で押さえた。涙声になっている。
「早く一人前にならなくちゃいけないのに。そんな時、ヨシツネさんからの電話をもらって。町の豆腐屋には、チャンスだと思いました。でも、実は今、父は体調を崩して入院しているんです。店は僕と母で切り回している状態で」
「そうなんだ……。別のタイミングの方が、よかったかな……。ごめんね、響――」
その時、それまで俯いていた響一郎くんが、がばりと顔を上げた。
「いえ、やらせてください。僕はどこかで変わらなきゃいけない。小花さんはそのきっかけをくれました。それに――犬若も」
犬若がうむうむとうなずく。
「さっき、思い出したんです。友達もろくに作れなかった僕に、学年も性別も違うさちさんと小花さんが、小さい頃ゲームで遊んでくれたことを」
家が近所だったこともあり、確かに小学生時代、そんなこともあった。実のところ、お姉ちゃんが男子のゲーム友達を欲しがったいたのが大きかったんだけど、でも、楽しかった。
「僕は、全く人と人間関係が持てないわけじゃなかった。たとえ子供の時の、ほんの限られた経験でも。そう思えば、頑張れます。何より――」
響一郎くんは、豆腐用の水槽に目をやった。
「接客は下手でも、品質には、絶対の自信がありますから」
その時、私は初めて気づいた。
周囲から、虫妖が、跡形もなく消えていた。