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分かれ道

作者: まほろば



「はぁい」

急いで掃除機のスイッチを止めてから習慣で壁の時計を見た。

もう5分で11時になる。

こんな半端な時間に訪ねてくる知り合いは居ないのでピンポンは回覧板か新聞か宗教の勧誘かも、と思いながら掃除機をそのままに玄関へ歩いた。

夫の会社が社宅として数部屋借り受けているこのマンションの3LDKに住んでもうすぐ9年。

築30年で今時のマンションみたいに来客の顔が見えるインターフォンとかは無いけど、駅に徒歩10分の立地だから生活にはとても便利だった。

その代わり郵便受けから溢れるくらいのポスティングや勧誘のピンポンは普段から珍しくない。

居留守を使おうか…でももしピンポンがお隣のおばあちゃまならお昼を食べるのを諦めてパートに出掛ける時間まで話に付き合わないとな、とか考えながら玄関に急いだ。

隣のおばあちゃまは夫の上司のお母様なので対応には気を使った。

正確に書くとマンションの3階の7部屋を会社で借りてそれを社宅として社員に貸している。

本当は新婚社員が入るはずだった部屋を先月移動してきた上司が無理やり借りておばあちゃまと住んでしまった。

職権濫用、と内心では思っていてもやはり上司には逆らえなかった。

「はーい、どちら様ですかぁ」

営業用の笑顔を張り付けてチェーンを掛けたまま玄関を開けた。

開けた隙間から見える範囲には誰も居なくて声もしないから肩をすくめて玄関を閉めた。

出るのに時間が掛かったから待ちきれなくて勧誘の人が次へ行ってしまった感じだった。

気を取り直して掃除機のスイッチを入れたらまた「ピンポーン」とチャイムが鳴った。

「しつこいなぁ」

掃除機のスイッチを止めてもう1度玄関に向かった。

「どちら様ですか?」

今度はドアを開けないで表へ向かって声を掛けた。

この時はしつこい勧誘だと疑わなかった。



暫く待っても何も言わないのでもう1度外に声を掛けた。

「どちら様ですか?」

これで返事がなければもうピンポンに応えないつもりだった。

ため息を付いて部屋へ戻ろうとしたら、気配を感じたのか慌てて私を呼ぶ声が聞こえてきた。

裕子(ゆうこ)、私、私よ」

驚きで一瞬思考と足が止まった。

「…う、そ」

相手が誰なのか脳が理解した瞬間心の中を立っていられないほどの嵐が吹き荒れ、脳裏を信じられない速さで色々な顔がぐるぐる回って最後は夫の顔になった。

「家へ行ったら開かなくて、表札が違う名前になってるの。夫と娘は何処に行っちゃったの?」

相手の信じられない言い種に気付けば声を出して笑っていた。

「裕子開けて、助けてよ」

相手の甘えて震える声に嫌でも過去が甦った。

「今まで何処に居たの?旦那さんも美樹ちゃんも必死に探してたんだよ。可哀想だったよ」

「色々あったのよ…疲れてるの休ませて」

開けてしまったらもう出ていってくれなくなる…グッと両手を握って私も泣きそうな震える声で相手に答えた。

「開けられないよ…入れちゃったら美樹ちゃんに何て言えば良いの。美樹ちゃんを裏切るみたいな事は出来ないよ」

「友達でしょ、助けてよ。会社に電話したら主人は転勤したって言われて、弘之(ひろゆき)は会議だって取り次いで貰えなかったのよ」

相手の言葉の破壊力は金槌で頭を殴られるより強かった。

夫を『弘之』と呼び捨てにする相手に戦う前に負け犬の自分を悟らされた。

「弘之なら絶対私を見棄てないわっ」

決め付けている相手に何かを言う気力が無くなっていく…。

「先月だってお金が無くなって困ってたら直ぐに50万送ってくれたのよ」

泣き叫びたいはずなのに、私は笑っていた。

「今掃除の途中なの、前のカフェで待っていて貰えるかしら。30分で行くわ」

「何で開けてくれないの?」

「掃除中だしこの後用事も有るからカフェで待ってて」

「分かったわよ。30分ね、きっとよ」

責めるような口調の相手の言葉にももう何も感じなかった。

ただ動く前で良かった、と本気で思った。



30分と切った時間の中で私は急いでパート先に連絡を入れた。

急に田舎から親戚が来てしまって数日家へ泊める事になりそうだ、と話して今週一杯お休みを貰えないかとお願いしたら幸か不幸か普段皆勤賞だからとあっさり承諾されてしまった。

「…何を着て行こうか…」

クローゼットの前で悩んだものの直ぐに無意味だと気が付いて止めた。

どう着飾っても夫の目には彼女しか映らない。

買い物に出掛ける時の普段着に礼儀だけの化粧をしてから、美樹ちゃん親子が引っ越して行った美樹ちゃんのお祖父さん宅へ本当は掛けたくない電話を入れた。

もし彼女が戻ってきたら、とマンションを引き払う時連絡先を交換していたから。

形だけ時候の挨拶をして、彼女が来た事を短く話した。

「会社に電話をして美樹ちゃんのお父様が転勤したと言われたそうです」

「会社へだとっ」

お祖父さんの声が怒りで高くなった。

「もしや隣でこの話を聞いておるのか」

お祖父さんが探るように声を抑えて聞いてきた。

「いえ。私も動揺していて玄関を開けられなかったんです。掃除していた所だったので人を上げられる部屋では無いので今は前のカフェで待って貰ってます」

「そうか、怒鳴って悪かった」

「ドアごしに美樹ちゃんたちの居場所を探してるような口振りでしたのでどう話せば良いのか分からなくて、それでそちらにご連絡してしまって…」

意識して語尾を濁してお祖父さんの返事を待った。

「ここに居ると教えてやって下さい。ここには住んでおらんが言ってやりたい事が山ほどある。幼い孫を置き去りにして男と駆け落ちした母親など地獄に堕ちれば良いんだ」

「…申し訳御座いません。私達夫婦の結婚式で2人を引き合わせなければこんな事にはならなかったのに…」

声を詰めらせてお祖父さんに謝罪した。

「自分を責めんで下され。あんたらに罪は無いのですからな」

「…はい」

電話を終えた後に素早く部屋を見回して、少し考えてから昔仕事で使っていたICレコーダーを寝室のクローゼットから出してきて鞄に入れた。

もう時間がない。

掃除機はそのままにしてカフェへと急いだ。



もしかしたら…こんな日が来るかもしれない。

その覚悟は大学で夫と彼女を引き合わせた時から付いていた。

危ない綱渡りで今日まで来たけど…夫の気持ちはあの時彼女に傾いたままだったのだろう。

私が夫の弘之と出会ったのは高校の入学式。

互いにこんな人が同学年に居るんだ、って感じだった。

2年になって同じクラスになって話すようになった。

付き合うきっかけは夏休みの花火大会。

雰囲気に流されてキスしたのが初め。

それから弘之のお宅に招かれるまで3ヶ月もなかった。

弘之のご両親は会社員で弘之の下に妹と弟がいた。

両親が共働きなので同居してお琴を教えているお婆さんが弘之たち3人を育てていた。

おばあちゃん子の弘之のためにお婆さんと仲良くなりたくてお琴を教えて貰うようになって、いつの間にかお琴が好きになってて今も続けている。

お婆さんから弘之の両親へ紹介されて、その流れで私の両親とも顔合わせをしていたので自然に2人の仲は両家公認の空気だった。

きっとサラリーマン同士なのも両家を近付けたんだと思う。

そんな高3の梅雨のある日。

「裕子ちゃんが家にお嫁に来てくれれば嬉しいわ」

「まだ分からないだろ。勝手に決めるなよ」

お婆さんに言い返した弘之の言葉は弘之を好きになっていた私を酷く傷付けた。

それまでは信じて無かったけど、弘之と別のクラスの女子の噂がその時私の中で現実に変わっていた。

照れて言ってるんじゃない、弘之の中に私との未来は無いのかもしれない、そう思うと凄くショックだった。

それでも弘之を諦める事は出来なくて、このままでは一方的な好きの気持ちに潰されてしまいそうで、冷静になりたくて進路を決めるギリギリで弘之とは違う大学を受ける事にした。

私が距離を置いた事で弘之は私との交際を真剣に考えてくれるようになった。

このまま未来も弘之と暮らして行けたら…。

そんな淡い期待が裏切られたのは大学2年の時の文化祭。

それまでも他の子に目移りしたりあったけど直ぐに飽きてまた普通に隣を歩いてた。

私の大学の文化祭が見たい、と弘之は友人数人を誘って来てくれた。

その時…大学で友達になった彼女に弘之と弘之の友人たちを紹介した。

後から泣きすぎて声が出なくなるほど泣いて2人を会わせたのを後悔してももう会わせる前には戻せなかった。



道路を渡った先のカフェは表にテーブルを出していて、そこに居るはずの彼女の姿は無かった。

私の知っている彼女なら人目を引く表の席で待っているはずだったから不思議に思ってカフェの中へ入ると、店の隅に小さくなって電話を掛けている彼女が見えた。

約7年振りに見る彼女はあの頃と同じで綺麗だった。

駆け落ちから7年近く経った今も彼女は変わらずに美しくて夫が50万も援助した現実に息が苦しかった。

ゆっくりカウンターへ行って冷たいアイスティーを頼んだ後、鞄に忍ばせてきたICレコーダーをオンにして鞄の表ポケットに差した。

大学を卒業して入社した商社はハードだった。

社会人の洗礼に何度挙げ足を取られて何回悔しい思いをしたか分からない。

あの頃、弘之との結婚を半ば諦めていた私に残っていたのは仕事だけだったから会社で生き残る事に必死になった。

だから、必然的にICレコーダーは私の大切な相棒だった。

その相棒をこんな目的で手にするなんて自分が情けなくなる。

カウンターに居る私を見付けて彼女は手を振ってきて、私は上手く答える事が出来なかった。

彼女の前に座った私は無表情だったと思う。

「遅かったじゃない。裕子が早く来てくれないから不安で不安で、また弘之に電話したけどまだ会議中とか言って取り次いでくれないのよ」

「そう…」

彼女の錐のように刺さる言葉も覚悟を決めれば痛みも感じなかった。

「掃除なんて嘘でしょ。弘之に電話して私からの電話には出ないように言ったんでしょ」

意地の悪い彼女の言い方も聞き流す。

「電話はしてたけど夫じゃないわ」

「じゃあ誰よっ」

ヒステリックに叫ぶ所も昔と変わらないんだ…同じ女性には見せるこんな顔も昔と同じで異性には見せないんだろう。

「パートが1時からだから今日はお休みしたい、と電話していたの。急な話だから代わりの人が見付からなくて、もし代わってくれる人が居なかったら仕事が終わるまであなたに此処で待ってて貰う様だったわ」

「嫌よ見世物になんてならないわ」

彼女は表の椅子に座っていて知り合いに見付けられそうになったらしい。

中に居た理由を知って彼女でも隠れる事が有るんだと思ったら可笑しくなった。

「何年も経ってるに何でまだ住んでるのかしらっ」

八つ当たりにもつい笑いが漏れた。

社宅に借りている階以外は普通に賃貸なのだから住人の変動も多いけど住み続けてる人も多い。

全部で35世帯も入っていれば同じマンションの住人と駆け落ちした彼女を覚えている人が居るのは当然だと思う。

「家だってまだ住んでるわよ」

無意識に口から出た軽口にまだこうして返せる自分が居るんだと自覚出来た。

「掃除は終わったのよね、速く行きましょ」

「何処へ?電話しながら掃除機は無理よ。貴女だってそんな非常識しないでしょ」

当然の態度で彼女に笑い掛けた。

「じゃあ掃除が終わるまで何処に居ろって言うのよ」

不機嫌な彼女に前触れも無く言った。

「美樹ちゃんたちは実家に戻ったのよ。女手が無くて1才の子を育てるのは大変だもの。貴方が居なくなって半年くらいしてからだったわ。行ってみなさいよ。きっと会えるから」

どうしても家に上げるのは嫌だった。

駆け落ち前は大学の友人としてよりも同じ社宅に住む者として付き合って居たから家へも上げたけど今は違う。

彼女はグッと怯んで動かなくなった。

「家も居るけど貴方が駆け落ちした(たかし)さんの奥様も息子さんもまだあそこに住んでるのよ」

驚いている彼女に畳み掛けるように言ってから『会えるの?』と声を落として聞いた。

「あ、会えるわよっ。私を道連れにしたのは隆なの、悪いのは私じゃなくて隆だもの、会えるわよっ」

ヒステリックに叫ぶ彼女の目はマンションの出入口に釘付けだった。

彼女が駆け落ちした隆さんは夫とは大学の同期だった。

私たちの結婚式には呼ばなかったから大学時代はそれほど親しく無かったと思う。

それがマンションの違う階に家族で引っ越してきて偶然の再開をした。

彼女に隆さんを紹介したのは夫だった。

2人が駆け落ちしたと知った夫の顔は憎悪と嫉妬で歪んでいた。



「悪い事は言わないわ。美樹ちゃんに会いたいなら旦那さんやあれから先美樹ちゃんを育ててくれた人たちに謝って会わせて貰いなさいよ」

親身になっている振りをしてる自分を嘲笑いながら、彼女の美樹ちゃんに会いたいは口実だって分かっていた。

お祖父さんは許さなくても旦那さんならちょっと反省してる顔を見せれば許してくれると彼女は知ってる。

彼女が会って話したいと電話で言っても旦那さんは頑なに拒むだろう。

だから直に話すきっかけを掴みたくて美樹ちゃんを利用しようと思っているだけ。

初めは頑なで話も聞かない旦那さんでも自分の顔を見れば昔に戻って、また言いなりに出来る。

悔しいけれど、彼女の考えている事は本当だと思った。

旦那さんだけじゃない夫も、夫の大学時代の友人の隆さんも…きっと彼女には抗えない。

それは大学で嫌と言うほど見てきている。

あの頃彼女を好きな男子は両手で足りなかった。

大学を卒業しても彼女の回りは男性が群れた。

その中から彼女は旦那さんを撰んだはずのに…。

「裕子があの人を呼んできてよ。私あっちの里の人苦手なのよ」

「嫌よ。引っ越しの時に1度会っただけなのに。私と夫とあちらのお祖父さんに凄い顔で睨まれたのよ。『お前たちが居なければ』って怖かったんだから、そんな私が行ったら不審がられるわよ」

「でも困るのよ」

彼女は私が『うん』と言うまで諦めない積もりだろう。

「私には聞く理由が無いから貴女に頼まれた、と言っても良いのよね?」

「困るわよ。私の名前は出さないで旦那だけ呼び出して。去年の年末まで御飾りでも会社員してたんですものお手の物でしょ」

「どうして私が辞めたの知ってるの?」

気味悪くて思わず聞き返してしまう。

7年弱この町に居なかった彼女に情報をリークする誰かが私の身近に居る事が気持ち悪かった。

「弘之に決まってるじゃない。仕事辞めて退職金出たのに弘之に臨時のおこずかいもあげなかったんですってね。事務員の退職金何てたかが知れてるけど弘之『鬼嫁』だってぼやいてたわよ」

夫が…。

ショックだけれど覚悟していた程の衝撃は受けなかった。

短時間でいくつも地雷踏んだ気分だから感情が麻痺したのかもしれなかった。

それか…開き直ったのかもしれない。

その意味も分からない開き直りがオブラートにくるまず彼女に直球を投げさせた。

「所で、あれから何処に居たの?みんな必死に探したのよ」

「初めは隆の友達を頼ってあちこち行ったわ。でも直ぐに駆け落ちして来たのがばれたりして、友達を頼るのを止めて誰も知らない町に長く住むようになったのは3年前かしら」

駆け落ちして逃げた身だから住民票も移せないし病気になっても保険証も無いからお金が掛かった、と彼女は今までの愚痴を吐き出した。

駆け落ちした隆さんは専門職だからアルバイトでも生活には困らない収入があったそうだ。

ペラペラ言う彼女に小さく頷きながら知りたい事を聞く。

「そう、今も隆さんと一緒なの?」

もし一緒なら夫との関わりも一時的で終る可能性が残っていた。

「先月の途中まではね。隆の奥さん興信所頼んで隆を探したの。行方が分からなくなって7年経ったら『失踪宣告』が出来るらしくて」

「…そう」

言葉は知っていたのに今まで思い浮かばなかった自分に呆れる。

端から見れば私は巻き添えを食った傍観者の第3者だけど、本当は第3者じゃなくて当事者。

夫が彼女を選ぶ間は夫も彼女も私の敵だった。

「…ねぇ、隆さんがそうなら貴女もじゃないの?」

「そうなの。だから旦那とやり直したのよ。私が『蒸発』と同じ扱いなんて絶対許せないわ」

自分の置かれてる立場も分からないのか彼女は酷く怒っていて、氷の溶けたアイスコーヒーを乱暴にストローで掻き回した。

その動作が引き金だと思う。

急に喉の渇きを覚えて目の前のアイスティーにもどかしくストローを差すと一気に飲んだ。

ガムシロップも入れてないアイスティーは紅茶の苦味が舌にきたけど、自分に『冷静になれ』と戒めるにはとても効果があった。

だから隆さんの奥様はマンションに居続けて居るのかも…これは勝手な推測だけど、奥様には7年が気持ちに区切りを付ける節目に思えた。

奥様は駆け落ちした夫への気持ちを断ち切るために興信所を使って隆さんの居場所を突き止めた。

奥様は強いと思う。

もし自分が同じ立場に立たされたら…思うだけで身震いした。

「頭にくるんだけど、隆は家に帰りたくないってパニックになってあったお金を全部持って逃げちゃったのよ」

「…え?逃げた?貴女、から?」

思わず笑いそうになって下を向いた。

「違うわよっ!見付けた興信所からよ」

般若の面の顔で言ってくる彼女は今にも射殺そうな殺意を私に向けてきた。

「貴方を連れに戻って来なかったの?」

「来てたら此処に居ないわよっ!」

何日待っても隆さんは戻らなくて食料を買うお金も無かったから夫に泣き付いたらしい。

「夫とは何時から連絡を取っていたの?」

テーブルの下で握り締めている手のひらが汗で気持ち悪い。

緊張しているのを彼女に悟られませんように。

心の中で願いながらグラスに残った氷をストローで突っついた。

「ずっと取ってたわよ。裕子知らなかったの?」

さも呆れた仕種で覗き込んでくる彼女に殺意を覚えた。

私に何より大切な息子が居なければこの場で彼女を刺し殺していると思う。

息子だけじゃない。

私はまだ夫の弘之を好きなんだ、と彼女に自覚させられた気がして堪らなかった。

「知らなかったわ。目の前であんなに隆さんの奥様や貴女の旦那さんが泣いてるの見てたのに…夫は何も言わなかったのね」

「言ったら私が連れ戻されちゃうじゃないの」

彼女はムッとして頬を膨らませた。

「あ、…」

彼女が急に慌てた声を出したと思ったら出入口から顔を背けて下を向いた。

反射的に出入口を見たらマンションの役員をしている世話焼きの女性が店に入って来た所だった。

「また後で電話するわ。それまでに掃除を終わらせておいて」

彼女はそそくさとバックを掴むとお手洗いへ逃げて行った。

女性はカウンターで飲み物を買うと窓側のテーブルに落ち着いて通りを行き交う人を見ていた。

感じから誰かと待ち合わせをしている雰囲気だった。



こそこそと彼女が店を出て行ったのが見えて…気付いたら大きなため息を付いてた。

夫は初めから知っていた…知りたくなかった事実が耐えられないほどズンと心に重い。

彼女には言わなかったけど30万の手取りの中から毎月10万を夫のこずかいとして渡している。

ボーナスからも夏冬2回10万を渡していた。

…それでも『鬼嫁』と言われる自分が惨めだった。

25で弘之と結婚して11年、翌年には息子も産まれて小さい波はいくつもあったけどそれなりに幸せな夫婦生活を築けてた積もりで居たから知らされた現実に心が砕け散りそうだった。

駄目よ、諦めては駄目。

私だけの問題じゃない、息子のためにも今諦める訳にはいかない。

そう自分に言い聞かせながらもっと大きくため息を付いた。

彼女が隆さんと別れた事で夫が私との『離婚』を考えているのならこのまま夫婦で居るのは無理だと思う。

それでも息子の(しゅん)の未来を思ったら、せめて隼が大学に入るまで離婚は避けたかった。

何故離婚から思い浮かんだのか不思議だけど、美樹ちゃんのお父さんには再婚を視野に入れて交際してる人がいる事を彼女に話せず終いだった。

言えば何故知っているのかと彼女の理屈で責められるのが分かりきってるから言うのが嫌だったのもある。

それに、私が言わなくても夫も美樹ちゃんのお父さんの話は知っているから私が言いにくい事は夫から聞いて欲しい気持ちもあった。

家に帰る気力も無くボーッと考えていたらさっきの女性がグラスを持って彼女が座っていた椅子に座ってきた。

「珍しいわね。貴方がこの店に居るのを初めて見るわ。誰かと一緒だったの?」

女性は彼女が下げていかなかったアイスコーヒーのグラスを見て聞いてきた。

「はい。大学の時の知り合いと偶然会ってしまって、少し話そうとここへ」

嘘は言ってない。

「家が目の前なんだから寄って貰えば良かったじゃない。あ、上げるほど親しくなかったのね」

「ええ、まぁ…」

相手の空気に飲まれて片言で返すのがやっとだった。

「そうそう、お宅の隼くん中学受験する予定なんですってね」

「え?それを何処で?」

思わず詰問するように聞き返していた。

女性はその話が聞きたくて席を移動して来たんだとようやく気が付いた。

「本当なのねぇ。知ったのは偶然なのよ」

女性の話だと息子と同じマンションに住む息子の同級生とが学校帰りの道でその話しをしていてたと教えてくれた。

「わざとじゃないのよ。丁度買い物帰りで前を歩いてる2人の話が偶然聞こえたのよ。2人で同じ中学を受けるんですって?張り切ってたわよ」

「ええ」

知られてしまえば頷くしかなかった。

「月謝お高いんじゃないの?」

「大変ですけど本人が行きたがって居るので出来るだけ応援するつもりです」

「隼くんは今4年生?」

「いえ5年です」

「あら、それなら急いで塾へ行かせなきゃね」

「ええ…」

その入学金を夫は彼女に送ったのだ。

「夕方友人から会社に電話が来て支払いするはずの金を落として困ってると言って来た」

夫はそう言って翌日払うと言っていた入学金の50万を友人に貸すから、と強引に持って行ってしまった。

そんな事は結婚してから初めてで、後から返して貰えるのか聞いたら『困ってる友人を見捨てろと言いたいのか』と怒鳴られた。

あの時相手が彼女だと知っていれば…その先は言葉にならなかった。

知っていても…夫が持って行くのを止められなかっただろう。

あの時の夫は子供より彼女が大切だったのだから。

翌日急いで家を買う時の頭金にするために貯めていた定期を1度崩して入学金を払ったのだった。



悪い事が起きる予感を抱えて家へ戻る。

止め忘れていたICレコーダーをオフにして中の音声を寝室にある私用のノートパソコンへ移してからレコーダーの録音を消した。

普段は操作が苦手だからとノートパソコンに触らない夫だけど見付ける可能性はゼロじゃない。

だからマイクロチップに音声を移してノートパソコンの記録は削除しておいた。

この録音が必要になりませんように…すがる気持ちでチップを財布にしまう。

まだ必要な予感がしてICレコーダーは財布と一緒にキッチンへ置いた。

何かしていなければ居られなくて惰性で掃除の続きを始める。

何年も繰り返してきた動作だからか上の空でも掃除を終える事が出来た。

「次は何をしよう…」

彼女の電話を待つ今の時間が苦痛だった。

また勝手な事を言ってくるのかと思ったら怒りで手だけじゃなくて体まで震える。

怒りには夫として父親として不実な弘之への怒りも混じっていた。

頭の芯の更にもっと奥で、弘之の中の男の部分の本能が私ではなく彼女を欲しがっていると分かっている。

それでもこの家庭を守るためには彼女と夫を引き離すしか方法が無いし、弘之の夫として父親としての義務と人間としての理性に掛けるしかないのだけれど。

不安が大きいのは弘之だから…。

「どうしたら…」

混乱するばかりでどうすべきかなんて何も浮かばない。

「冷静にならなきゃ…冷静に…夕飯の仕度をしよう…」

今じゃなくて良いのに現実から逃避したくて台所に立った。

息子が好きな肉巻きとジャーマンポテトを作った。

サラダのレタスを千切りながら今か今かと彼女の電話を待つ。

彼女の事だから直ぐに掛かってくると思ったのに、時計の針が3時近くなっても電話は鳴らなかった。

もうすぐ息子が帰って着てしまう。

まさかと思うけど美樹ちゃんのお父さんの里に行ったのかも…思う途中で彼女には有り得ないと思い直した。

なら何で電話を掛けて来ないの?

掛けてきたらやはりそれで困るけどこんな宙ぶらりんな気持ちで待たされるのは辛かった。

苛々とダイニングテーブルの周りを回っていたら急に頭の中に電話してる彼女が浮かび上がった。

電話の相手は…夫しか有り得なかった。

それなら彼女からの電話が無いのも納得できた。

電話でもう1つ頭に浮かんだ。

何故彼女は夫の携帯に電話をしないんだろう。

会社に掛けるより楽なはずなのに。

ぐだぐだと考えている所に隼が帰って来てしまった。

「ただいま」

「お帰りなさい」

家の鍵をランドセルの横に戻しながら台所に来た息子が私が居るので驚いた顔をした。

ランドセルをソファーに置いてこっちを見てくる隼は何処か変だった。

もしや彼女が?

思い切り心臓が跳ねた。

私が煮え切らないから隼に話し掛けたのかもしれない。

だくだくする胸を押さえて隼を見た。

「お母さん?どうしたの?」

隼が変な顔で私を見てきた。

「パートに行かなかったの?美味しそうな臭いするしどうしたの?」

隼の疑問に答える余裕が無くて、隼の二の腕を震える手で弱く掴んだ。

「帰りに女の人に声を掛けられ無かった?綺麗なお母さんくらいの歳の人に」

「誰も話し掛けて来なかったよ。女の人って誰?」

「え?あ、…」

慌てた顔の前で両手を振った。

どう誤魔化そうって気持ちとなら何処に行ったの?って気持ちが焦りでごちゃ混ぜになる。

彼女を助けてくれる誰かがこの町に居るとは思えなくて、夫に電話してるんだ、って想像だけが急激に膨らんだ。

「お母さん?」

「隼…隼…」

しゃがみ込んで我が子を抱き締めた。

溢れて来そうな涙を懸命に堪えて、どんな結果になってもこの子だけは私が守る。

そう硬く決心した。

「お母さん苦しい」

隼が身を捩って逃げようとするのでやっと現実が戻ってきた。

「…ごめんね」

「お母さん泣いてるの?」

離した隼に顔を覗き込まれて思わず避けた。

泣かないはずだったのに、情けない自分にまた涙が出そうになった。



「おやつ出しましょうね」

「何か変だからお母さんは座ってなよ」

立ち上がろうとしたら息子が身軽に冷蔵庫へと移動して中からプリンを2つ出してきた。

「一緒に食べようよ」

息子なりの優しさに頷いてプリンを受け取った。

隼は夫に良く似ている。

今年のバレンタインも夫より多いチョコを貰ってきてた。

お婆さんはお世辞で私の方に似てると言ってくれるけど、どう贔屓目に見ても彼女に劣る私より夫の方に似ていた。

「ねぇお母さん。塾へ行く時お母さんのスマホ貸してよ。そしたら帰る時連絡できるし」

「じぃじが買ってくれるって。帰りが暗くて心配だから、って」

じぃじは私の父でばぁばは私の母。

夫の両親はじー、ばーと息子は呼んでいた。

お婆さんを婆ちゃんと呼んでいるので息子は幼い子供なりに両方の両親の呼び名を考えたらしかった。

「じぃじ動いちゃ駄目じゃん。また血圧上がるよ」

「隼と買い物に行きたいんですって、じぃじの気分転換になるし私も付いていくわ」

「それなら良いかな」

父は去年定年退職した。

10年前支店を1つ任されて、支店長のまま本来の定年から更に5年勤めさせて貰ってからの退職だったので老後の資金は充分だと私たち子供を安心させてくれた。

それなのに退職したらそれまで張り詰めていた緊張の糸が切れたかのように体の不調を訴えるようになった。

高血圧もその1つで兄はこれを機に自分達のマンションを手放して家族で実家に戻る事にしたらしい。

義姉は承知しているのか聞いたら自分達に家を継がせてくれるなら、と条件付きで承知してくれたそうだ。

義姉が勝ち気だから家の両親の方が負けそうで心配だけど、守る自分の家庭がある私には口は出せなかった。

父の事がきっかけのように回りに受け取られたのが申し訳無いのだけれど、彼女に言われた様に私は去年の末で15年勤めた会社を退職した。

本当の理由は父ではなく上からの管理職への圧力に耐えきれなかったから。

給料でさえ私の方が少し多くなったら不機嫌になって大変だった。

経理に頼んで基本と諸手当の給料明細を別々に出して貰い基本の方だけ夫に見せて、経理には申し訳無いけど先月のは経理の計算間違いでしたで通した。

初めは疑っていたけど3ヶ月目には見たいと言わなくなった。

そんな夫より先に管理職へなんかなったら…知った夫が不貞腐れて会社を辞めて来そうで怖かった。

幸い彼女が言ったように夫は私が事務員だと思ってて私の年収には興味が無かったので決まった額を家計の通帳に入れる他は通帳を別にして息子の将来のために貯めている。

去年の末にそろそろ近場のパートに変えたい、と夫に言ったら快諾された。

夫は内心で『俺の給料だけで食わせられるのに』と正社員で働く私を良く思ってなかったから辞めると言ったら機嫌が良くなった。

夫は自分のこづかいを取った残りのお金で家族3人が十分暮らしていけると思っている。

それは確かに倹約すれば生活していけるけど、夫のあれが欲しいあそこに家族旅行に行きたいとかは叶えられない。

家庭を円満に回すには私の給料が必要だった。

退職を決めた時1番に困ったのは保険証と年金だった。

夫の扶養に入って去年の年収が表に出るのは困る。

だから会社の孫会社で保険と年金のある支店へパートとして配属して貰った。

上司には便宜を計る条件に『現役復帰する時は他社ではなく古巣に戻る』と約束させられてしまったけれど復帰する気持ちはないから話を受けた。

今思うと退職したタイミングも良かったんだと思う。

夫は父のためにパートへ変えたと思っていて移るのもスムーズだった。

来年は義理の両親も定年を控えていて、定年したら退職金を使って夫婦で南の島に移住したいそうだ。

家はお婆さんの名義だから義両親は今から移住の土地を物色してるらしい。

残されたお婆さんは義両親が南の島に行ったら家を売ってそのお金で老人ホームに入ると決めていた。

それで万事片付くと思っていたら、夫が遺産が無いと騒ぎ出した。

義両親から親の金を宛にするな、と言われても遺産は子供の権利だと今でも言っている。

夫の下の兄妹は義両親とお婆さんの意思を応援していて足りなければ助けると今から言っていた。

父が退職を機に1人300万づつ子供たちに生前贈与したいと言い出したのは義実家の話と夫の言動が原因な気がしたが、それを確かめる勇気はさすがに無かった。

「お金は貴女方夫婦に遺すんじゃなくて私たちの子供の貴女に遺すのよ。貴女の大切な夫でも内緒になさいね」

母の言葉は今日を予測して言った言葉に思えて不安を増長させた。



夫からこれから帰るとき連絡が来たのは定時上がりの5時を数分過ぎた時だった。

何時もならそんな電話して来ないのに、と思っていたら夫から『彼女』と言う爆弾を投げられた。

春香(はるか)を連れて帰るから」

覚悟はしていてもいざ現実になってみるとやはり受け止められなかった。

返事も出来ずに電話を切ってその場にしゃがみ込んでしまう。

信じたくない気持ちと絶望が私を立ち上がらせてくれなかった。

「お母さん?どうしたの?誰から電話?」

テレビのゲーム画面から目を離さないで息子が聞いてきた。

「…お父さんから…人を連れてくるって…」

答える声が震えて息子の顔を見られなかった。

「ふーん、珍しいね。お父さんが誰か連れてくるの初めてだよね」

「…そうかもね」

やっと立ち上がって息子に答える。

「隼、ゲームは5時半までね」

流しに向かいながら息子に言った。

3人の会話を美樹ちゃんを知ってる息子に聞かせたくなかった。

美樹ちゃんのお父さんは再婚予定の方と真剣に交際していてギリギリ同じ学区に住んでいる。

予定と言いながら交際しているのは『失踪宣告』で彼女と離婚するつもりだからだ、と知った今だから思えた。

偶然学校の参観日に美樹ちゃんのお父さんと再開して近況の話をしたのは2年前。

駆け落ちの時まだ1歳だった美樹ちゃんは入学したばかりだった。

それ以来息子は学年が違う美樹ちゃんを妹のように可愛がっていてお互いの誕生日にはプレゼントを送りあっているらしい。

彼女の娘と…息子が将来を考えませんように、と願うのは私が夫と彼女を憎んでいるから、だとは思いたくない。

「分かったー」

口をへの字にしながらも息子はゲームを片付け始めた。

お客は会社の人だと思ってる息子に、お客が美樹ちゃんのお母さんだとは言えなかった。

何時来ても良いようにお茶の支度をして待っていたけど夕飯の時間になっても夫は帰って来なかった。

「お父さん帰ってこないね」

「先に食べましょ。きっと何処かで飲んで来るつもりなんでしょ」

出来るなら息子が寝てから帰ってきて貰いたい。

息子と春香を会わせずに済むならそれが1番だから。

勘の鋭い息子ならもしかしたら知られたくない事にも気付くかもしれない。

それが心配だからか胃がきりきりと痙攣しているのが自分でも分かった。

「何時ものお母さんならお父さんに電話してるのに今日はしないの?やっぱり変」

「会社の人と一緒なんだから邪魔は出来ないでしょ」

苦しい言い訳を口にすると息子は怪しげな目で見返してきた。

「お母さん今日は変だよ。パート休んだり誰かに話し掛けられなかったか、とか聞いたり。お父さんも急に人を連れて来るとか何かあったんだったら教えてよ」

「…隼…」

隼がもっと大きかったら…隼に話せるのかも知れないけど今は…まだ無理…。

上手に笑えてるか分からないけど『大丈夫』と笑って見せた。

「お風呂に入ってしまいなさい。お客様と洗面所で鉢合わせは嫌でしょ」

「うん。お父さんは頼りないから本当に困ったら僕に言って。お母さんは僕が守るからね」

「…隼ったら、その時は守ってね…」

息子を思い切り抱き締めたい衝動を懸命に堪えてお風呂を促した。

居間で独りになって、泣きそうになるのを意地でも堪える。

春香に泣いていた顔を見せるのだけは最後のプライドが許さなかった。

息子がお風呂に入ってる間に寝室の引き出しから母から貰った貴金属や、洋服タンスに隠していた父から貰った通帳と結婚前の通帳と会社を退職するまでの通帳を全部小さいバックに入れた。

これだけあれば息子を大学まで行かせられる。

中には夫に隠して貯めたお金もあるけれど子供の未来には変えられなかった。

家計の通帳は、迷ったけど寝室の引出しに入れたままにした。

通帳のバックをキッチンに掛けてある買い物用のエコバッグに財布と一緒に入れた。

夜逃げの準備をしてるようで卑屈な気持ちになるけれど2人との話の方向次第では息子とこの家を出るようになるかもしれない。

そうなってから準備するのでは遅すぎる。

財布と一緒にあったICレコーダーは念のためポケットに入れてから居間へと戻った。

どちらも使わずに…それはもう思わなかった。



夫が春香を連れて来たのは10時を回ってからだった。

春香と会って舞い上がってる夫が息子の寝る時間を気遣うとは思えない。

なら電話から今までの5時間何をしていたのか、もう今更聞きたいとも思わなかった。

救いだったのは夫から春香の香水の匂いはしたけど知らない石鹸の匂いがしなかった事だけ。

気まずそうに帰ってきた夫は視線を泳がせ『ただいま』も言わないで春香を居間に促した。

春香も『お邪魔します』すら言わず私の聖域へ土足で踏み込んできた。

今まで私が懸命に守ってきた家族だけの居場所に夫は何でも無いように春香招き入れる。

居間に向かう2人の後ろ姿を玄関で見送りながら両の拳を痛いくらい握り締めた。

その拳にポケットに入れてあったICレコーダーが触れた。

録音しよう。

私は迷わずスイッチを入れてポケットに戻した。

遅れて居間に行くと、当然の顔でソファーに座る春香の隣に夫が座っていた。

覚悟してたつもりなのにやはり胸が苦しい。

苦しい胸を抱えて、私はダイニングの椅子を引いて2人から離れて座った。

「飯は済ませてきた。暫く彼女を家に置くから」

夫は私の顔を見ないでそう言い捨てた。

暫く…その言葉が私に与えた痛みを2人は一生分からないだろう。

「暫く、って何時まで」

夫の返事次第では息子と里へ帰ろう、と『暫く』の衝撃が私に決断させていた。

「春香が旦那と和解するまでだ」

吐き捨てる夫に一瞬言葉を失った。

美樹ちゃんのお父さんの再婚の話は夫も直に聞いている。

なのに『和解するまで』なんて有り得ない。

どんなつもりなのか聞こうとしたら夫に睨まれた。

ああそうか、夫はわざと言ってない。

可能ならこのまま一緒に居たいんだろう。

「泊める部屋は無いけど」

「俺がソファーで寝れば済むだろ。冷たい女だな親友を助けてやろうとは思わないのか」

「弘之ったら言い過ぎよ。裕子は私に焼きもち焼いているのよ。心配しないで貴女の旦那は取らないわ」

春香の言葉に夫の顔が歪んだ。

やはり夫は春香との未来を描いてたんだ…。

「俺じゃ相手にならないのか」

夫の硬い声が居間に流れる。

春香は一瞬焦った顔になって直ぐに立ち直った。

「親友の旦那を取ったら悪いじゃないの」

「俺が裕子の旦那じゃなければ良いんだな」

何て残酷な言葉だろう。

夫の目には春香しか見えていない。

夫にとっての今の私は妻ではなく春香との間を邪魔するただの障害物に成り下がったのだ。

「やめてよ。私のせいで離婚とかなったら裕子に一生恨まれちゃう。そんなの嫌だから」

春香は私の事を思って言ってる、と誤魔化してるけど本当は夫を相手にするつもりは無い。

他に誰も居なくなったら夫を選ぶ可能性もあるけど、今は甘えれば言いなりなる都合の良い(しもべ)

夫の憎しみのこもった目に耐えられなくてキッチンに逃げようとしたら、居間の入口から黙って部屋を見ている息子に息が止まった。

パジャマに着替えてたはずなのに服を着てて、不吉な予感が沸き上がった。

「隼っ」

何時から聞いていたんだろう。

何処まで聞かれてしまったのか。

動揺でよろけながら息子の元へと走った。

「部屋へ戻って寝なさい。明日も学校が有るでしょ」

とてもじゃないけど息子に聞かせられる話じゃ無い。

必死に部屋へ戻そうとしても息子は頑として動かなかった。



「お父さんが連れてくるお客って女の人だったんだ」

息子の非難してる目と言葉に夫がぎょっとする。

「子供は早く寝ろっ、今何時だと思っているんだ」

怒るしかこの場を誤魔化せ無い夫に息子は言い返した。

「僕を寝せて2人でお母さんを責めるの?お母さんの友達でもない女の人を連れてきて家に泊めるなんてお母さんがうんと言えるはずないだろ」

「私はお母さんの友達だわ。大学の同期なの」

息子は春香の言葉に疑う顔をした。

「同期じゃ分からないわよね。私は大学でお母さんと同級生だったのよ」

「お母さんの友達なら何でお父さんが連れてきたの?お母さんからお父さんを取るとか言ってて友達なわけないよ」

「ホントに友達なのよ。お母さんに聞いてみれば分かるわ」

春香の必死な言い訳に息子は私を見た。

「本当なの?」

「…本当よ。同じ大学に通ってたわ」

必死に言葉を選んで息子に言う。

父親の不倫未遂を息子に言うわけにはいかなかった。

「何でお父さんが連れてきたの?お母さんの友達なのにお父さんの方が仲が良いみたいだよ」

「…それは」

どうしても答える言葉が見付からなくて息子から目を背けたら、息子が聞いてきた。

「綺麗な女の人ってこのおばさんの事だったの?」

「おばさんなんて呼ばないでっ」

春香が息子を睨みながら立ち上がった。

「同級生ならお母さんと同じ年だよね」

春香に言い返す息子を春香から庇うように抱き締めた。

息子に『おばさん』と呼ばれた後の春香は異様だった。

「私は裕子とは違うわ。化粧もしなくなった、女を捨てた人と一緒にしないでっ!」

春香の叫びには年齢に逆らえない焦りが見えていた。

私は知らなかったけれど、年齢を重ねる度に春香の信者は1人、2人と減ってこの頃は片手も居なくて夫を頼ったのだった。

「春香。止してくれ」

夫は立ち上がって宥めるように春香の肩を抱いた。

「子供なんか産むんじゃなかったっ!美樹を産んだから『おばさん』何て呼ばれるのよっ!」

思わず『聴かないで』って息子の耳を塞ごうとしたけど暴れる息子の力には敵わなかった。

息子が大事で、夫が暴れる春香を抱き寄せたのを私は見てなかった。

「おばさん美樹ちゃんを捨てたお母さんなのっ!」

息子が驚いた顔で大きな声で言った。

「隼っ!」

夫は咎める口調で息子の名前を怒鳴った。

「だからお父さんが連れてきたんだ」

息子は怒りに燃える顔で夫と春香を見た。

視界の隅に夫が春香に腕を回しているのが見えてももう心はぐらつかなかった。

それより息子の様子が尋常じゃなくて、止めようと抱き締める腕に力を込めた。

「親に向かってその非難する目はなんだっ」

夫が怒ろうと息子は言い続けていて、私は何時夫の手が息子に飛んでくるかとそればかりに気を取られていた。

「僕は婆ちゃんが言ってたの聞いたんだから。お父さんそのおばさんと結婚したい、って言って勘当されそうになったんだよね」

夫が驚いた顔で固まった。

「婆ちゃんそのおばさんの事調べたって言ってた。お父さんだけじゃなくて何人もボーイフレンドがいたって」

「…ばあちゃんがお前に言ったのか?」

夫は力が抜けたようになって息子をぼーっと見ていた。

「婆ちゃんとじーばーが今年の正月居間で話してたのを台所で聞いてた」

「正月…だって?」

間抜けな顔で息子に聞き返す夫は酷く頼りなく見えた。

「じーの移住の話とか色々話しててお父さんの昔の話になって、美樹ちゃんのお母さんとお父さんが結婚したいって言って婆ちゃんが『食い潰す女は』何とかって言って反対した。だから婆ちゃんが気に入ってるお母さんと結婚した。お母さんとなら結婚資金を婆ちゃんが出すって言ったから」

息子の口から出てくる話は私の知らない話ばかりで、知らずに夫と結婚した自分を夫と春香で嘲笑っていたのかと思ったら憎しみと怒りで体の中にマグマを詰められた気がした。



「違う。春香と俺は友人だ。お母さんの友人だから結婚式にも呼んだんだ」

「お父さんたちの結婚式で美樹ちゃんのお父さんとおばさんが知り合ったんだよね。おばさんがお父さんの同僚と結婚した時婆ちゃんそれ知ってすっごく安心したって言ってた」

夫の言い訳も息子には関係無かった。

「婆ちゃんは僕が産まれてこれで大丈夫だと思ったんだって。なのに美樹ちゃんのおばさんはお父さんが大学で友達だった隆おじさんと駈け落ちしたんだ」

誰も声が出ない。

春香は怒りすぎて真っ赤な顔で口をぱくぱく酸欠みたいだった。

「婆ちゃんが同じマンションに越してくる偶然が無ければって怒ってた」

息子は話すのを止めて夫をじっと見た。

「婆ちゃんね、お父さんが時々お金貰いに来なかったらお父さんとお母さんに婆ちゃんの家あげるつもりだったんだって」

「…え?」

「どう言う意味だ」

驚く私と怒った夫が同時に息子を見た。

「お父さん浮気してたでしょ。美樹ちゃんのおばさんだけじゃなくて今までもずっと。相手が変わる度に婆ちゃんにこづかい貰いに行ってたんだよね」

薄々は夫の気配で知っていたけど、今を壊したくなくてあえて見ない振りで目を瞑ってた。

学生時代みたいに長続きする人は居ない感じだったし熱が冷めたら夫は戻ってくると静観していた。

「お父さんたちから見れば僕は子供だけど、もう何も分からない子供じゃない」

息子は真剣な顔で夫を見た。

部屋に沈黙が落ちたと思ったら春香がさも可笑しそうに笑いだした。

「馬っ鹿じゃないの。子供が何でも分かってるような口をきかないでよっ」

夫が春香の二の腕を掴んで揺すった。

「あなたのお父さんはね、お母さんより私が好きなの。旦那と隆と3人でずーっと私を取り合って来たのよ。ふふ、知らないでしょ。あなたの塾の入学金、お父さんが私に送ってくれたのよ。お父さんにはあなたより私が大切なの。分かった?分かったら黙りなさいよ」

「知ってるよ。婆ちゃんから母さんがパートで居ない時に電話来たし」

「え?」

「え…」

驚きの声が私と春香から出て、夫はテストで赤点を取った時と同じ顔をした。

「婆ちゃん変わった事は無かったかって、お父さんたちお金の話してないか?って。だから僕の塾の入学金をお父さんが友達に貸した話をした。心配してたからお母さんが何処からか用意してくれた話をしたんだ」

夫の顔が醜く歪んで横を向いた。

その顔で分かってしまった。

夫は私に言う前にお婆さんに金の無心をしたんだ。

それが駄目で息子の入学金を…。

そこまで頭が理解したら可笑しくなってきて気付けば笑っていた。

「何が可笑しいのよっ!こんなエリートから脱落した男を夫にしてる裕子になんか笑われたくないわっ」

「春香っ!」

夫は怒鳴って春香の両方の二の腕をきつく掴んでいた。

「あなたを振らなかったのは裕子の苦しむ顔が見たかったからよ。じゃなかったら会社で失敗ばかりして出世の望めない男と私が居るわけ無いでしょ」

「俺だって懸命に働いているんだぞっ」

「働いてたって給料は家の旦那の半分じゃない。隆と比べたら3倍違うから」

春香は夫を蔑むように向き直ると力付くで腕を取り返していた。

春香の本音だと本能で思った。

思ったらなお可笑しかった。

私の欲しい物はみんな持ってる春香が何で私なんか苦しめたいんだろう。

もしかしたら…私が気付かないだけで大学時代に春香に嫌な思いさせた?

何時も私が春香を羨むだけで逆なんて1つも無かったのに、何が春香の気に触ったんだろう。

思い出しても何も思い当たらなかった。

「何時も春香を羨んでたのは私なのに、何で?」

「馬鹿にしてきたのは裕子でしょ。私が取りたかった優秀賞も入りたかった会社も裕子が入っちゃったじゃないの」

「…え…」

私と春香は2年までの一般は一緒だけど3年から専攻が別れたから成績を争う事は無かったのに何で?

就職だって春香の希望は受付か秘書だっだけど私は統計とかの地味な分野を希望した。

内定は貰えたけど希望と違う営業に回されて最初の2年は何時辞めようか、何時辞表を出そうかとずっと思ってて何時も鞄の中に辞表が入ってた。

そんな私は春香にどう見えていたんだろう。

「弘之から裕子が去年仕事を辞めたって聞いた時『ざまあみろ』って思ったわ。裕子も挫折を味わえば良いのよ」

「…そんなに私を憎んでたの?私は貴女の持ってる物は何も持ってないのに…夫の気持ちだって女性としての美しさだって勝ってるのは全部春香じゃない。なのに…」

堪えても堪えても涙が溢れた。

どんなに努力しても私は夫を振り向かせる事さえ出来なかったのに…。

虚しくて切なくて両手で口を押さえて泣いた。



「お母さん、もう良いよ。僕のためにお父さんと別れないんでしょ」

「…そうじゃないの」

息子に下から覗き込まれたら言葉が言葉にならなくて、夫をまだ『愛している』と春香の前で口にする勇気の無い私はくたくたと膝から床に崩れ落ちたら動けなくなってしまった。

「今日はじぃじの所へ行こうよ。お母さんこのままだったらお父さん刺しちゃいそうだから」

そんな事絶対しないっ!

思ってもそれは言葉になってくれなかった。

「隼っ、早くお母さんを連れて行け」

夫はぎょっとしてぶるぶる震えながらズボンの後ろポケットから財布を出して息子に投げた。

「それだけあったら夜中でも足りるだろ」

違うと首を振っても夫は刺される恐怖に飲まれて春香の後ろに逃げてしまっていた。

春香は私と夫を交互に見て満足そうに笑うと出ていけと私に向かって追い出す動作をした。

その動作を見た屈辱と怒りは一生忘れられない。

「お母さん。お父さんから出して貰わなくてもタクシー代くらいじぃじは出してくれるよ」

息子の言葉で現実に引き戻された。

…もう取り返しが付かない。

春香の後ろへ情けなく隠れる夫。

もしこれが見納めなら…私のこれまでは…。

「お母さん」

納得出来ないけど…息子のために、息子を犯罪者の子供にしないために…夫か、息子か…後戻り出来ない選択をする時なのだ。

「隼」

究極の選択は母としての思いが勝った。

息子に手を引かれて立ち上がって、夫も春香も振り返らずに玄関に向かった。

息子は夫の財布を拾わなかった。

子供にその決意をさせてしまったのが両親だと思うと申し訳なくて息子の顔が見られない。

多分このまま離婚になるのだろう。

子供を選んだ時にその選択を自分が選んだ。

「隼、ランドセルを持ってきて。明日はお休みかじぃじの家から学校になるから」

「分かった」

息子が荷物を持ちに行ってる間にポケットのICレコーダーを止めた。

この録音は離婚に有利な証拠になる気がした。

急いで台所からエコバッグを持って息子の部屋の前で待つ。

…きっと…この荷物を用意してた時からこの結果を予測していた気がした。

頭の中に上司との約束が浮かんで背中を押す。

「持ってきたよ」

息子に小さく頷いて、私は大きく深呼吸をした。

「行きましょう」

「うん」






ーその後ー



それから半年後、私は弁護士の助けを借りて夫と離婚した。

夫は息子の親権を手離さないと言ったけど、育児に参加していなかったのをお婆さんや周りから指摘されて最後は取り下げた。

息子が私を選んでくれたのも大きいと思う。

協議離婚の形で通帳に入っている生活費を半分貰っただけで、息子の養育費も春香との不倫疑惑の慰謝料も請求しなかった。

夫は残った金額を見て私が家計を食い潰した、と逆に私に慰謝料を請求してきた。

それも長年付けていた家計簿が夫を黙らせる結果になった。



春香の方は旦那さんが春香の育児放棄を盾に離婚と美樹ちゃんの親権を勝ち取った。

慰謝料を請求しなかったのは隆さんの奥様が春香に慰謝料請求をしたからだと聞いた。

それまで知らなかったけど、春香は駆け落ちした事で直後に両親から絶縁されていたそうだ。

隆さんの奥様から請求された慰謝料は夫が春香と返していく事になったらしい。



驚きだけど、自分から戻ってきた隆さんと奥様は再構築を選んで私たちがのろのろしてる間にマンションから引っ越して行きました。



最後に…私の事を書くには数行で足ります。

離婚の手続きが終わる前に、私は古巣へ復職し薦められていた管理職を引き受けました。

そして…息子の中学入試に合わせて中学のある町へ家族で引っ越す計画は結局私と息子だけで実行する事になりました。

自分の選んだ道の未来はまだ分からないけれど息子と暮らす今を大切にしたいと思います。



叶うなら、夫だった人と春香の結婚は知りたくない…。





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