報告
帰りの電車の中、俺はミントに今日の会社の出来事を話した。彼女の生い立ちを聞いたらら、あまりにも自分が呑気で平和に生きてきたんだろうと逆に落ち込んだ。いや、俺だってこんなに辛いことが、と話し始めたのだが、話せば話すほど小さい話で、女々しい会社の愚痴で終わってしまう。
こんな小さいことでグチグチ言って、情けないです、と言うと、
「嫌なことに大きいも小さいもありませんよ。嫌なことは嫌です」
そう言って、彼女は魔法瓶の蓋を開けた。蓋のコップに注ごうとするが、1滴も出てこない。無いものは無いです、小さな声でそう言って、俯き加減で笑った。
「お帰りー」
事務所に戻ると、澤村とマックが2人でテレビゲームをしていた。かなり古い機種で、画像もドットが荒く、角ばっているキャラクターがカクカク動いている。この人たち、特に澤村はこうして一日中事務所で遊んでいるのか。
対戦ゲームで澤村の扱うキャラクターの方が優勢だったが、腕時計をチラッと見たマックが対戦途中でコントローラーを置き、「定時なんで帰ります」と席を立った。
澤村は舌打ちし、こちらに顔を向けた。
「どうだった、藤原景子」
「事実確認は取れました。対象者の火村誠ですが、今日息子は保育園7時まで預かってもらえるので、この後偵知してこようと思うのですが」
彼女はオンオフがはっきりしている。オフの時は小さな声で俯いたままで、こんなんで子供なんて育てられるのかなと心配になる程だが、仕事の話をする時は鋭く無駄がない。育ち盛りの男の子を育てている母親なんだなぁ、と偉そうに感心してしまう。夢も希望も目的も持たない俺なんかよりも、「お母さん」という生き物は、強い。
「ああ、そう。それじゃあ、また『アサシン』と行ってきなよ」
「いや、今日はもう、そろそろ」
「え、なんで。まだ4時間くらいしか働いてないよ。これじゃ日給出せないよ」
「俺、やるとは言ってないんですけど」
「え、やんないの。なんで」
この押し問答は終わる気がしない、と思っていたら、ミントが助け舟を出してくれた。
「浅野さん、娘さんの迎えとかありますし。あまり遅くになってしまうと迷惑なんじゃないでしょうか」
彼女が目配せしてきた。仕事モードの時のミントは機転がきく。さすが「お母さん」頭を下げるしかない。
「でもなあ、内偵女の子が1人だと危ないし」
澤村はおもむろにに、ゲーム機からカセットを抜き、そのカセットをデスクの方に向かって放り投げた。
カセットは壁沿いのスチール棚に当たり、下に落ちると、デスクの向こうから「痛っ!」とくぐもった声が聞こえた。
「『ダンゴムシ』!お前、一緒に行ってやれ」
デスクの向こうから、ニョキッと手だけでてきて椅子の背もたれを掴んだ。「ふぬっ」と声がしたと同時に椅子が倒れガシャンと大きな音を立て、また「痛っ」と声がした。
そこから起き上がってきたのは、ダボダボの大きな黒いTシャツに、同じくダボダボの太いスラックスを履いた中肉中背の男。髪は寝癖がついて、右半分が逆立っている。額には冗談のような正方形の大きな絆創膏が貼ってあった。頭や背中を掻きながら、目が半分開かない状態でフラフラしていた。
彼はあくびをすると、スマホを見ると、
「あ、定時。お疲れっス」
と言ってフラフラ歩き出した。寝ぼけているのか、出口ではなく、窓の方に向かっている。
「おい!帰るな。お前、全然仕事してねーだろ!」
そういうお前は仕事してるのか、という目をこの場にいる社員全員が澤村に向けるが、悪びれる素振りは1ミリもない。
ミントに袖を引っ張られ、ダンゴムシは渋々ついていった。
「じゃあ、僕たちも帰りましょうか」
マックから声をかけられた。
俺は身支度を整え、澤村に一礼をし、事務所のドアを開けた。
また明日ぁー、と惚けた澤村の声が飛んできたが、その言葉はマックに向けられた言葉なのか、俺に向けられた言葉なのかはわからなかった。




