ミントの過去(3)〜夫殺し
「施設で育ってるこって、わかりやすくグレちゃうか、ものすごく勉強して世の中見返してやろうってなっちゃうか、どっちかなのよね。中途半端に普通に生きて、普通に幸せになりたいって思ってても、世間の目はそう見てくれない。もう捨て子だってことで、普通ではいられないの。だから悪いか、良いか、どっちかに振り切らないとダメ」
彼女のアイスミントティーは、やはり美味い。口に入れた瞬間は普通のアイスティーなのだが、後からフッとミントの香りが現れる。暫く消えることなく佇む。主張してはいるようではあるが、不快感はない。
「ワタシはグレる根性なんてないから、頑張って勉強するしかなかった。勉強なんて、お金がなかったって、時間があればできるの。友達もいないし、時間はたっぷりあった。勉強して、奨学金で医大にも行けた。そのまま付属の研究所で働いて。気がついたら恋すらしないで30になってたの」
自嘲気味に彼女は笑った。幼い顔のせいで、少女の話を聞いている気分になる。俺なんか「恋」なんて単語、ここ何十年と使ったことがない。
「大学は楽しかったな、同じ志で勉強してる人の集まりで友達も少しだけどできた。菌の研究生には施設育ちとか気にする人いないから。医者を目指している人たちの方には、家柄とかかにする人ばかりだったけど、ほぼ接点がなかったし。ただ1人を除いて。外科を目指している先輩がいて、ワタシ菌の研究生にも普通に接してくれた。その人は大学を卒業して外科医になってからも連絡をくれた。親兄弟を知らないワタシにとって、その人はお兄ちゃんみたいな存在だったの」
そうかぁ、俺は息を吐いた。家族の愛も知らず、恋も楽しめなかった学生生活を過ぎ、優しくてくれる男性が目の前にいたと気付いたら、そしてたった1人の心を許した人を自分の手で殺めなければならない心情を考えると、生温く育ってきた俺には想像もつかず、溜息しか出てこなかった。
「そのお兄ちゃんみたいな人が、旦那さんだったんだね」
芝居掛かった空気を作ってしまった。ただ普通に「その人が、旦那さんだったんだねー」と軽くは言えなかった。俺が全部聞いてあげる、俺がそのお兄ちゃんの代わりになってあげる、とさえ思っていた。
「え、なんで?違うよ」
あまりにも素っ頓狂に即答され、耳が熱くなった。気恥ずかしさで、目を見れない。急かさないで、最後まで話を聞こう。
「旦那は、同じ施設から出た人、一番ワタシこのことを虐めてた男の子。ワタシも勉強しかしてないバカだったから、偶然街で再開して、お互い大人になってて、相手の子も落ち着いてて、少し見た目もカッコよくなってたし、ホント昔のこと覚えてないみたいに普通に接してくれたので、なんか勘違いして結婚しちゃったんですよね。お腹に赤ちゃんができちゃぅたので。
2人とも施設育ちだから、誰も何も言わないし、入籍だけして、最初は優しかったんだけど、やっぱり人って簡単には変わらないもんですね。妊娠中から、だんだんむかしのワタシを虐めてたころの彼に戻ってきて、息子が生まれたら暴力が始まった。赤ん坊が泣くから寝れないって、その頃くらいから変なクスリ始めて。多分覚醒剤だと思う。それでもワタシには家族がいないから、これが家族なんだって耐えてたんだけど、息子が泣きやまないって、まだ生後5ヶ月の赤ちゃんを湯船に沈めて、あのひと笑ってたの。施設の頃、ワタシを虐めてた時と同じ顔して。もう無理だった」
生温く育った俺には想像もつかない不幸のオンパレードで、感情移入ができない。ただ、娘の里穂を思うと、子供に手を出されたら、それが我慢の限界だと理解できる。でも、そうなる前に逃げ出すとか、なんとかできなかったんだろうか。なにも自分で殺さなくても何か方法はなかったのだろうか。
「その頃既に医者になってた先輩に連絡した。先輩はなにも聞かないでボツリヌス菌を調達してくれた」
そのナントカヌス菌というのが分からなかったが、話の腰を折ってまた恥をかくので、急かさず聞き続けた。
「警察が来て、不審死だということで調べられて、結局司法解剖とか面倒なことにはならなかった。彼、クスリやってたから死因は中毒死ってことになった。ワタシが殺したってバレなかったんだけど、後悔したよ。
旦那を殺したことではなくて、この子の父親を殺してしまったの。ワタシはこの子の父親を奪ってしまったの。もう育てる資格なんかないって思った。だから死のうって思った。
でもまだ赤ちゃんの息子を1人残してとかは考えられなかった。自分が施設ですごく嫌な思いをしてきて、同じ思いをこの子にはさせられなかった。勝手ですよね、自分で殺しておいて、自分で育てら資格ないなんて言って、それでも一人で残すことはできないって。もう、この子と一緒に死ぬことしか思いつかなかった。自分勝手すぎて、最低な母親だった。気づけば息子を抱いたまま、ビルの屋上に立ってたの。
そこへ所長がきて、止めてくれたの。なんか英語の台詞みたいなこと言って」
あ、それ俺が言われたのと一緒だと思う、と言いたいのを堪えて頷いた。
「ワタシその時に初めて気がついたんだけど、ワンワン泣いたの、小さい子みたいに。そうやって泣いたのがその時生まれて初めてだった。施設で虐められてたときも、旦那に暴力振るわれていたときも、泣いたことなんかなかった。多分、泣くということがわからなかったんだと思う。だからワタシはワンワン泣いているのが、なぜだかわからなかったんです。ワタシは人を殺してしまった、この子の父親を殺してしまった、そんな汚れた人殺しの手でワタシはこの子を育てられないって、それ以外の今までの辛かったこと、今まで自分の中で堰き止めていたもの全部が涙と一緒に全部出てきちゃったんだと思います。
それを所長は、君は人殺しじゃない、この子を守ったんだ、だから君の手は汚れてなんかいないって。
そうしてあの台詞を言われた。自殺なんかしちゃいけない、一緒にこの子を守ろう。自殺なんかするくらいなら、君の旦那みたいな奴を殺す『殺し屋』になろうって」
いい話なんだろうが、どうしてもこの「殺し屋」っていうところで現実味が急に薄れてしまう。可哀想すぎて、もうちょっとで目から涙が溢れそうになっていたところ、最後の台詞で涙がスッと引いてしまう。感動のクライマックス手前まで来て「はぁ?」ってなってしまうB級映画を見せられているみたいだ。
「先輩も気にしてくれた。あれは致死量にも満たないから君が殺したんじゃないって。こっちは菌の専門なのにね、そんな嘘すぐわかっちゃうのに」
彼女はちょっと嬉しそうな顔をした。
「ミントさんは、その先輩のことが好きだったんじゃないかな」
「ミーちゃん」と呼ぶには馴れ馴れしすぎるし、「堀内さん」と彼女が好きじゃない名前で呼ぶのも違う気がして、「ミントさん」という変な呼び方になってしまった。
「それはないなあ。だって先輩、ブサイクだし。でも今でも、ずっといいお兄ちゃんだよ。それが『ドクター』」
またしてもこちらの感動をぶった切ってくる。そしてなんだ、「ドクター」って。医者をわざわざドクターと呼ぶあたりが、なんとも間抜けに感じた。が、すぐに気づいた。彼女と目が合った。彼女も、俺が気づいたことに、気づいた。
「そうだよ、先輩もうちの社員」
彼女が周りをキョロキョロと見渡す。彼女の話にのめり込み過ぎて、途中で電車やバスに乗ったのか全く記憶にない。あたりは、人影が少なく、目の前にはお世辞にも綺麗だとは言えない川が流れている。どうやら荒川河川敷のようだ。河川敷にはブルーシートやダンボールの手作りの「お屋敷」が所々建てられていた。最近は警察署と管理人と福祉会の合同巡視によって一頃よりは減ってはいるが、まだ多くのホームレスが住んでいる。
「この辺なんだけどなぁ」
彼女は河川敷の「住宅街」にどんどん入っていった。
女性というのは、赤ん坊を産むと、男よりもたくましい。




