第47話 目論見
その会話に自分を入れないで欲しい、と百合子は心の中で手を合わせていた。が、この部屋に人間が一人もいないことに気づくと、幸か不幸か、戸惑いと不安は失笑に変わった。
死神、精霊、妖精、加えて魔獣が集合した絵面は、なかなか御目に掛かれるものではない。ファンタジーの住人たちに凝視されていると、何故だか笑いがこみ上げてくる。
一方で、親しい友人たちが集っているようにも見えるものだから、その光景に胸が疼いて鼻の奥がツンとした。
天寿を全うするまでの長い時間、百合子は一人っきりで過ごしてきた。正確には、五十代で店を売り払うまでは、少なくとも社員、お客といった社会と繋がっていたのは確かだ。
心に引っかかる御仁と出会う機会が、全くなかったわけではないが、恋人がいた試しもない。
社会の儀礼に従い行動し、波風が立たないように他者には礼節を尽くしたところで、肝心の心を閉ざしているようでは、恋人はおろか、語り合える友人も出来るはずなかった。
絶世の美女ではないにしても、笑うと目が三日月のようになり、普段のすまし顔とのギャップと相まって、なかなか可愛らしい一面だってある。
人様に迷惑を掛けない生き方を心がけてきた百合子は、誰かに恨まれたり疎まれるような性悪でもなかった。
やりようは、いくらでもあったはずだ。
人生を豊かにするはずの他者との関わりを、ことごとく避けた結果、百合子は臨終のベッドの中で思い知る。社会の輪の真ん中で、たった一人孤立していたことに。
最後の最後に、悲哀とも悔恨ともつかない苦痛が押し寄せ、現世に未練を残したまま、取り返しのつかない痛恨の生涯を閉じてしまう羽目になった。
そこへ、迎えに来た死神のジーンやら何やらが、日々の生活に関わってきて、摩訶不思議かつ賑やかな今に至る。
生前には感じたことのなかった充足感に包まれたり、感じたくもない不安や懐疑心に苛まれたり。緩やかなジェットコースターに乗っているように、苦楽を繰り返し経験した。
だからと言って、落胆しているわけではない。スペースの言葉を借りるなら、自らの意思で舞台に上がることを選んで正解だった、と百合子は信じている。
頭上を照らすスポットライトに、立ちすくんだこともあった。喜びに胸を震わせ、両手を伸ばし、その光を自ら望んだこともあった。
毎日が、満ち足りていた。
同じ時間を分かち合える存在が側にいる奇跡に嘆息し、そして心から感謝した。この得難い時間は、誰でもない、紛れもなくジーンがくれたものだ。
「笑うておるぞ……あの娘」
童女の怯える声に、百合子は瞼を上げた。
幕が下りる間際、主人公が何を演じるのか、固唾を飲んで待つ観客に応える時だ。自然と百合子の口角が、ゆっくりと上がっていく。
スウェットを着こなした死神は、全てを包み込むような笑みを浮かべ、その一瞬を心待ちにしている。
無言を貫いてきた百合子が、迷う様子もなく、頭を深々と下げて言った。結末は、あっさりと終わりを迎えたりする。
「――ご心配をお掛けし、申し訳ありませんでした」
小さな体をソファに沈ませていたカヤノツチが、ゆっくりと身を乗り出し呟いた。
「お、しゃべったぞ」
ソファの傍に立つジーンも呼応するように、朗らかに続いた。
「はい、しゃべりましたね」
イラクサの冠でジーンの延命を図る、という約束を反故にされたパンタシアは、怒り心頭のご様子。自慢の赤い髪をすくい上げながら、きつい目で百合子を睨んでいる。
「やってくれるわねぇ。これじゃあ、王子様を救えないじゃない。ありえないんですけど?」
ついでに言うなら、パンタシアが用意していたイラクサは、魔界では高値で売買される貴重品である。入手困難な代物も、ここにきて全て水の泡となった。
「あのね、謝って済むなら警察はいらないの。それに、あなたがどんなに謝っても、許してあげないんだから。お詫びの品があるなら、それは頂戴しておくけど?」
魔界にも警官がいるのだろうか、と百合子は余計な想像を巡らしてみる。お詫びの品も用意はしていないが、パンタシアの淡々とした口調に、苛立ちが混じっていることは察した。
「それでも、私はあなたに謝らなくてはね。折角、ジーンのために考えてくれたんだもの。途中で断念してしまって、本当にごめんなさい」
またしても丁寧なお辞儀をする相手に、パンタシアはなんとも複雑な表情で唸った。叩頭されたこともなければ、したこともない妖精からすれば、理解しがたい行動なのだろう。
自分なりに本気でジーンの延命を願って始めたことを、こうもあっさりと降参した自分が気恥ずかしくて堪らない。
一歩一歩、ジーンに近くごとに、顔を上げることができない。まともにジーンの目を見るのは憚られる。
「ずっと黙ったまま避けたりして、感じ悪かったわよね……ごめんなさい」
「終わりよければ全て良し、ってことで良しとしよう。それにしても良かった、また君の声が聞けて」
この見慣れた慈しみにあふれる笑顔は、いつだってどうしようもなく百合子の心を踊らせる。
「イラクサのこと……知ってたの?」
「まあね。すぐには気づかなかったけど。箱が違ったんだ」
「箱?」
「そう。パンタシアの住処の入り口となっている箱は、本来、魔界で採れた石で装飾されていて、それはそれはご大層な宝石箱なんだ」
アモルが大事にしているパンタシアを、単独で現世に送り込んでくるとはジーンも思っていなかった。
「君が無言でイラクサを編み始めた時、ああ、これはパンタシアとアモルだな、って。やっと気づいたんだけど、君は話を聞いてくれないし。ホント困ったよ」
ジーンはそう言うと、今度は医者が患者の傷の具合を見るように、うつむく百合子の両手を取って持ち上げた。
指先には、血が滲んだ絆創膏が巻かれている。
傷を刺激してしまったのか、百合子は顔を歪めた。
「痛い?」
「……大丈夫。でもこれでは、しばらくの間、お料理を作るのは難しそうだわ」
苦笑する百合子に、ジーンは肩をすくめて、
「それはちょっと困るね」
そう言って、ジーンは百合子に傅くように頭を下げ、傷だらけの両手のひらに唇を寄せた。上目遣いのジーンと息を飲む百合子の視線が、いっときの間、無言で絡み合う。
カヤノツチは見てはならない物を目撃したように、恐る恐る二人を見上げながら、思わず声を漏らした。
「おお……」
ジーンの真剣な眼差しを見れば、意識を集中させているのが分かる。皿からスープを飲み干すように、ジーンは時折、休息を挟みながら、勢いよく息を吸い込んでいる。
「あ……」
百合子の声に、ジーンが顔を上げた。
「どう、もう痛くないだろ?」
「ええ……不思議だわ」
興味本位に見ていたカヤノツチとパンタシアだったが、死神の技というべきか、傷を癒していく様を見て、感嘆の吐息を漏らした。
「お主、やるのう。しかし、それでは――」
嬉々として、癒えた指を曲げたり伸ばしたりしている百合子を横目に、ジーンはカヤノツチに向かって、人差し指をそっと唇に当てた。
「んー、お主がそれで良いならば、わしが口を出すわけにもいかぬが。のう……」
にっこりと笑って頷くジーンを見ていられなくて、カヤノツチは目をふと逸らした。
先ほどまで、全ての指先に小さな心臓があるのかと思うほど、脈打っていた痛みはすっかり消えている。百合子は両手を高く掲げ、目を輝かせた。
「リアンノン」
ふいに名を呼ばれ、ジーンが振り返る。
「何?」
「盛り上がってるとこ悪いんだけど、私はもう帰るわ」
「目論見が外れて残念だったね。ま、そういうことで、アモル兄さんによろしく伝えてよ」
怪訝な目つきでパンタシアはジーンを見上げたものの、用意していた嫌味が口から出てこない。
「言っておくわ。その……あなたとはもう、会うこともなさそうだけど」
「兄のこと、頼んだよ」
パンタシアが食いたかったパッションは、ジーンと百合子の間に確かに存在し、その美味そうな匂いに脳をくすぐられたはずだ。
ただ、それは火傷するような熱さはなく、冬の日の陽だまりを感じさせる温かさだった。
しくしく痛む胸に右手を押し当てながら、パンタシアは不機嫌そうに別れを告げる。
「言われなくとも、アモルは私が支える――あんたなんかいなくても平気なくらいにね。では、ご機嫌よう」
読んでいただきありがとうございます。投稿が遅れがちで申し訳ありませんが、引き続きよろしくお願いいたします。




