第40話 月下氷人
実家へ赴いてからというもの、棘が抜け落ちたというべきか、やさぐれた百合子が影を潜めているのは喜ばしい。
根気よく百合子と付き合ってきた、ジーンの努力が報われたと言えるだろう。良い傾向にあると言っても、二人に残された時間は恐らく二十日ほど。
もし、余命一ヶ月足らず、と医者に宣告されたら、絶望の淵に突き落とされたも同然なのだが。
夕食の後にソファに並んで座り、のんびりとテレビドラマを見ながら、ジーンの淹れたコーヒーを飲み、くつろいでいる二人は、絶望どころか平穏そのものである。
甘いロマンスを見終わったところで、ジーンは「ああ……切ないよねぇ」と呟いた。クッションを抱きしめたままソファに背中を預け、深い溜息を天井に吐き出す。
見計らったように、百合子はソファの上で胡座をかいているジーンの膝に、そっと手を伸ばした。
「ちょっといい?」
「いいよ。どうぞ」
何やら言いずらそうだが、少し間を置いてから、上目遣いでゆっくりと話し始めた。
「私、考えたのだけど……」
話し始めたものの、意図せずジーンの顔に息を飲む。
切れ長の瞳に影を落とす長いまつ毛に、魅入ってしまい、一瞬だけ頭がぼおっとした。ジーンの瞳には、何か魔力でも宿っているのではないか、と百合子は時折、疑いたくなる。
「どうしたの?」
乙女が戸惑うことを承知で、ジーンが穏やかに微笑んでいるのだとしたら、これは罪深いことである。
――心頭滅却。
吸い込まれるように、自然と前のめりになっていた半身を起こすと、百合子は頬を染めたまま、背筋を伸ばして座り直した。
小さく咳払い。
「私は……結婚式はしなくても構わないわ。もともと形だけなんだし……どう思う? やる意味あるのかしら?」
今度はジーンが百合子の手の上に手を重ね、直視できないほど優しい視線を向けてきた。
「あるよ」
「……どんな?」
「まず、僕は君の花嫁姿が見たい、という理由がある。そして、そうすることで君が笑ってくれるのなら、大いに意味がある。これでは、不十分?」
重なる手の重さと温かさが、百合子の首を横に振らせる。
ジーンは重ねる手にギュッと力をこめると、百合子にウインクを投げた。
「じゃあ、これは決定事項ってことで」
このウインクだけは、百合子は受け止めるのが苦手なようで、せめてものお返しに苦笑する。
としても、問題は他にもある。
この世において、二人は身元不明の怪しい人物。
「どこで式を挙げるつもり? お仲人さんもいないのよ」
ワケありの二人は、身分証の提示を求められると非常に困る。だが、ジーンは、その質問を待っていたかのように、したり顔で悠々と答えた。
「心配無用。実はね、ある人にお願いしようと思っているんだ。楽しんでばかりもいられないしね。そろそろ色んな準備を始めなくちゃ」
ジーンの声が明るいから、百合子も同調するように笑顔を作ったが、風船がしぼんでいくように、輝きを失っていった。
それでも百合子は「頼もしいわね」と笑った。
翌日の夜のこと。
時計の針は、ちょうど深夜を回ろうとしていた。
二人が向かったのは、花見に出かけた公園。
暗い夜の闇に閉ざされていると思いきや、百合子の目に映る公園は、ほんのりと明るく温かな光で包まれていた。
人とは言い難い存在になった百合子には、妖の光も捉えることが出来るようになっていたらしい。
感心しきった様子の百合子はジーンの手に引かれ、公園の中をどんどん進んでいく。しばらく行くと、光源と思われる、一本の桜の木の下にやってきた。
百合子はすぐに、そこがどこであるかを理解した。
驚いた顔をジーンに向けると「覚えていたんだね」とジーンは嬉しそうに微笑んだ。
そして、生ぬるい風に前髪を弄ばれながら、ジーンは暗がりになっている上の方を見上げる。
「こんばんわ。いらっしゃるのでしょう?」
ジーンに応えるように、上の方から綿毛のような光の玉が、木々の枝葉を揺らしながら、ゆらゆらと降りてくる。背伸びをすれば手が届きそうな細い枝に、光る玉は弾むように乗っかった。
玉は光の輪となり、その中心には目つきの悪い、着物を着た幼女が二人の前に現れた。
「このような夜夜中に現れおって……しかも、屍人の女連れとは、悪い予感しかせんわ」
まず、ジーンを不機嫌そうに睨んだ後、隣で目を輝かせている百合子を見て、呆れたように溜息をついた。
「こちらが百合子さん」
好意的とは言えない古の精霊に敬意を払い、百合子は丁寧な物腰で頭を下げる。
「ふん」
ジーンはカヤノツチが座る枝に向かって、百合子と繋いだ手を高く上げた。
「僕ら結婚することになりました!」
「な、何故そんなことに……」
「ええ? あなたが、嫁に貰え、と言ったんじゃないですか」
カヤノツチは「言っておらん!」と憤慨し、両足をバタバタさせながら、ジーンに向かって金切り声を上げた。
「阿呆! 貰うのか? と皮肉で聞いただけじゃ! わしを勝手に巻き込むなー!」
ジーンはすっとぼけた顔で、呪いの言葉でも吐きそうな幼女に、肩をすくめてみせた。
「そうでしたっけ? 僕の勘違いでしたか」
暖簾に腕押し、という言葉が百合子の頭に浮んで、口から笑いが漏れた。
カヤノツチは、呑気に笑っている百合子をチラリと睨んだ。
「相変わらず、口の減らん死神じゃのう……して、わしに何の用じゃ」
「僕らの仲人をお願いできないかと思いまして」
カヤノツチは絶句。
あれだけ忠告してやったのに、結果がこれ。世の理を逸脱した二人を叱責することはあっても、仲を取り持ち、ましてや祝福するなど言語道断。と思った。
ジーンの朗らかな笑みに、戦慄を覚えるカヤノツチ。
「……」
頬を膨らませ、口を尖らせたカヤノツチに、ジーンは「言葉が足りませんでした」と続ける。
「つまりは、月下氷人になっていただきたい、ということです」
「ちがーう! そのようなことは聞いておらん! 他に頼め! わしは、死神と屍人の間を取り持ってやるほど、暇でも寛容でもなーい!」
その時、ジーンと百合子の背後で何かが動いた。敏感に察知したカヤノツチは、着物の両袖を震えながら、口元に持ってくると、怯えるように黒い影を目で追った。
「お、おい……お主らの背後におるのは……魔獣ではないのか?……わしを食わせるつもりか? 脅すつもりなのか?!」
なんのことやら、と振り返ってみると、パラディがゆったりとした足取りで、二人の間に入ってきた。
ジーンは甘えるように額をすり寄せるパラディを撫でながら、
「何をおしゃっているのやら。ご覧のとおり、パラディは優しい魔獣です。今夜は、散歩がてら連れて参りました」
飼い犬のように二人に撫でられるパラディを見て、カヤノツチは警戒態勢を解除した。
そして、急に威勢良く罵倒し始めるという。
「かあぁ! 冥府の魔獣も地に落ちたものよ。散歩なんぞで尻尾を振っておるとは、その辺の犬っころと変わらんわ!」
カヤオノツチは仁王立ちになり、大きく見開いた目だけでパラディを見下ろしている。パラディは面倒だと感じたのか、ジーンの後ろに隠れてしまった。
勝ち誇ったように高笑いするカヤノツチに、ジーンはクスっと笑った。
「そんなに踏ん反り返っていると、枝から落ちてしまいますよ」
すると、カヤノツチは枝から綿毛のように、軽やかに音もなく、ふわりと地に降り立った。ジーンを見上げると、囁くように言った。
「宣告の申し出じゃが……受けてやろう」
思わぬ返事に、二人は歓喜の声を上げる。
ジーンは百合子とアイコンタクトすると、二人はしゃがみこみ、ツンとそっぽを向くカヤノツチに礼を言った。
しかし、話はそう簡単なことでもなかった。
「ただし――」
「お代ですね」
ジーンは羽織っていたロングコートのポケットから何か出そうとした時、カヤノツチが先にお代を指定した。
「そこの犬っころを貰い受ける」
「――パラディ、をですか?」
驚くジーンの横から、百合子がジーンの肩を揺する。
「それは駄目。パラディは私たちの大切な家族なのよ?」
「では、この話は終わりじゃ。さっさと帰れ」
さすがのジーンの顔からも笑顔は消え、幼女と百合子が見守る中、しばらく目を閉じて考え始めた。
しきりと百合子は「駄目よ」と訴えているが、ジーンは思いつめた表情で深い溜息を吐き出すと、決心を口にする。
「――分かりました。ただし、式を無事に終えてからでお願いします」
「ならん。今、置いていけ」
「ジーン! 待って! 考え直して!」
百合子は我が子を手放す母のような心境で、泣きながらジーンを止めようとするが、ジーンはうつむいたまま、それに応えようとはしない。
悲しそうな瞳でジーンと百合子を見つめるパラディは、この成り行きと、その意味を理解しているのか、主人の言葉をじっと待っている。
「仕方ありません。ここで、あなたにお譲りします――」
「盟約成立じゃな」
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