第32話 もう一通の手紙
実家に手紙を送って、かれこれ一週間が過ぎた。まだ返事はない。その代わりに、ジーン宛の手紙が届く。
残り四十五日と言われても、二人の生活は変わらず、いつも通りのなんでもない毎日を過ごしている。その日も、映画にでも行こうか、となり、百合子が遅い支度を済ませた時だった。
めかしこんだ百合子が、裾が邪魔とされる落下傘スカートの新作ワンピースを纏い、寝室から颯爽と現れた。
流し目をジーンに送り、だるそうに言った。
「ご無沙汰じゃない? 早く出たら?」
出かける前の訪問者は、基本的に家人には好まれないもの。このように玄関のチャイムを連打するような輩は、特に好ましくない。
百合子の棘のある視線を浴びて、ジーンは悩ましい声で呟いた。
「なんか……やだな」
三途の川、もとい砂漠の地で別れて以来だ。
百合子は手に持っていた小さな帽子を、近くに寝そべっていたパラディの頭に乗せると、窓の側から離れようとしないジーンに向かって、つかつかと歩み寄る。
「いいから、早く行ってきてちょうだい。毎回毎回、あなたのお兄様はどうなってるの?」
ジーンは肩をすくめて、「はいはい。奥様の仰せのままに」とウインクして、部屋を悠々と出て行った。
大昔、「奥さん」と魚屋とか八百屋のおじさんに声をかけられ、その気になって店先で会話をしたことはあるが、奥様、と言われた経験はない。
あまりの甘い響きに、気恥ずかしさと嬉しさと困惑が入り混じり、百合子の心臓は昇天しそうになっていた。
そんな妻を一人置いて、ジーンは玄関前で作り笑顔を装備してから、兄を迎えた。
「本日はなんの御用で?」
いつものハイテンションからは程遠い、拍子抜けするほど落ち着いたスペースの登場に、ジーンは肩透かしをくらって作り笑顔をやめた。
ジーンに劣らない爽やかな笑顔で、スペースはウインクして言った。
余談だが、相手に好意を示す最良の方法として、ウインクが最も効果的、と代々家訓のように受け継がれているらしく、スペースとジーンはウインクを多用する傾向がある。
「今日はな、お前に、お便りを持ってきてやったぞ」
「誰から?」
「不良神父からだよ」
酒と煙草と女を愛する、ジーンの敬愛する人物こそが、その不良神父。
元は人間らしいが、死んでからも冥府に居座り続け、挙句に起こした事業が成功し、結局、冥府の住人として暮らしているという特異な男。
名前は冥府の上の人に取り上げられ、呼び名を神父とされた。冥府には、生死に関わる神々やその使徒がいても、神父は彼しかいないので、これと言って問題にはなっていない。
死神は黒髪、というのが常識な世界で、銀髪に生まれたジーンは、何かと面倒が起こりやすい子供時代を過ごした。
氷のように冷たく尖ってしまったジーンの心を溶かしたのは、二人の存在があった。一人は、最初の理解者となった神父。そして、もう一人は若き日の百合子だった。
スペースは「ほら」と、ジーンの胸に封筒を突き付ける。
「よーく読んで、反省しろ。そして、さっさと引き上げるぞ」
スーツの内ポケットからハサミを取り出すと、「これ、使えよ」とジーンに手渡した。
ハサミまで用意していたことに、ジーンはクスっと笑いがもれる。渡されたハサミを使って、封筒の上を切りながら、
「冥府に戻ったとしても、僕の寿命が短命であることに変わりない。結果は同じであれば、僕はこっちで悠々自適な日々を過ごし、生涯を終える方を選びます」
満面の笑みでハサミをスペースに戻し、ジーンが封筒を開けようとした時、スペースはジーンの耳元に顔を近づけて、こう囁いた。
「それ、なんだけどな……向こうで、アモルと話し合ってだな」
ジーンは、封筒から手紙を取り出す手を止めた。
溜息混じりに、恨めしそうに呟く。
「また良からぬことを、たくらんでいますね」
「声がでかい!」
一人で慌てふためく兄を尻目に、そろそろ帰れコールをやんわりと送るジーン。
「用事が終わったのなら、どうぞお引き取りを。僕らは今から映画を観に行くんですから」
「あ、俺も行きたいかも」
スペースの「それいいね」という二人の計画に相乗りし兼ねない雰囲気に、ジーンはあからさまに嫌な顔を向ける。
「冗談だよ。ちょっと本気だったけど。ホント、冷たいよな」
「で、どんな話をしたんですか?」
自信あり気に、スペースは鬱陶しいほどジーンに攻め寄る。
「聞いて驚くなよ。俺たち、お前のために、フランマを行使しようと思うんだわ。どう、これどう?」
「ほら、やっぱり余計なことだ」
折角の兄たちからの救済措置を、末っ子は無下にも却下した。
「なんてこと言うんだよ、このバカっ!」
「声、大きいですよ」
ジーンの肩越しに、百合子がいるであろう廊下の先を覗き込むスペース。聞かれていないことを確認して、スペースはジーンの肩に腕を掛け、もたれ掛かると、再び小声になった。
「俺もアモルも、お前になら分けていいと思ってる。当然だ。それで可愛い末っ子と共に暮らせるのであれば、安いもんだ」
「じゃあ、百合子にも慈悲をみせてくださいよ」
スペースはジーンの肩から腕を外すと、体ごとジーンから離れた。
「――そりゃお前……ないでしょ」
真顔というか無表情のジーンは、より美が際立ち形相が怖い。
「なんで」
淡々とした末っ子をなだめるように、スペースは言い訳を並べ始める。
「なんで、って、お前。俺からすれば赤の他人だし? それに、あいつ、もう死んでるんだぞ? あるべき場所に導くことが、死神の役目だろうが」
「全部分かった上で、僕らは決めたんです」
「いつから、お前そんなに頑固になったわけ? 前はもっと何でも言うこと聞く、いい子だったじゃないの」
スペースの言う通りで、ジーンは神父以外では兄たちくらいしか、慕える人がいなかった。この三人に見放されることを、ジーンは極端に怖がっていた。
「以前はね。友達いなかったし、仕方なく」
肩をすくめて舌でもペロッと出しそうなジーンに、スペースは眠そうな目を更に細くする。
「うわ……可愛くないわぁ。とりあえず、神父の手紙でも読んで改心しろ」
ジーンは手紙を開いて文面を見るや否や、ものの数秒で笑った。その反応は、スペースが期待していたものと違った。
「――神父、なんだって?」
「端的に言えば、お幸せに。です」
スペースは面目丸つぶれである。忙しい長兄、アモルと二人で末っ子を救うのだ、と冥府のバーで互いに誓ったばかりなのに、思惑が大きく外れた。
いつもの席に座ってワインを嗜んでいた神父も、兄たち二人の想いを頷きながら聞いてくれた。しかも、二つ返事で、ジーンを説得する有難い手紙を書いてくれたものと、スペースは完全に信じていた。
「あんにゃろう……話が全然違うじゃないかよ」
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