第26話 丘を越えて その1
握る手は胸の奥まで染み渡るほど温かく、浮ついた足取りで砂丘を下り終わった。すると、急にウルサが立ち止まる。
「どうしたの?」
星を探すように、ウルサは空を見上げた。
何かを確信したのか、コクリと頷く。すぐに踵を返し、百合子が来た道の方角へ、行き先を変えた。
ウルサは瞬きもせずに、今下りてきたばかりの砂丘を登り始める。思わぬ方向転換に、百合子は足をよろめかせながら、無心に歩き出したウルサに声を掛けた。
「ねえ、ウルサ」
「なんです?」
「また戻るの? 途中でジーン、あ、いえ。リアンノンとは会っていないのだけど」
スペースに放り出された地点から、とりあえず歩いてきた道のりに、彼がいなかったのは確かである。でも、ウルサは迷うことなく、その道に戻ろうとしている。
「ウルサが勘違いしている、ということないかしら?」
ケーキを手づかみで食べていた砂丘のてっぺんまで戻ってくると、ウルサは百合子の問いに立ち止まった。
百合子を見上げ、「ありません」と言い切ったウルサの表情から、真意は読み取れない。
ウルサは百合子から視線を外し、顔を真っ直ぐ向き直すと、砂丘の上からずっと遠くを指差して言った。
「いますよ、リアンノン様は。あの小さな砂丘の向こう側で、あなたをお待ちになっています」
ウルサの指す方に、百合子は目を凝らしてみる。
「あの砂丘の向こうに?」
「そうです。僕を信じて、あの砂丘までお行きなさい」
百合子はびっくりして、捉えどころのないウルサの顔を覗き込む。
人間同士であれば躊躇するような沈黙や否定、突然の行動変更に慣れるのは容易ではない。彼らの行動基本は、自分自身が軸であり、自分で決めたことに、他者を介入させないからだ。
「一緒に行ってくれるんじゃないの?」
ウルサは百合子の手をスッと離すと、その場に膝を抱えて座り込んでしまった。訳が分からない百合子は、ウルサの機嫌を確かめようと隣に腰を下ろしかけたが、ウルサがそれを許さなかった。
ただ真っ直ぐ、ジーンがいるであろう遠くの丘を見つめたまま、ウルサは予言書でも読むように粛々と話し始めた。
「座っている暇はありませんよ。早くお行きなさい。しばらくの間、リアンノン様は、あの丘の向こうで休まれていることでしょう。しかし、星は時間と共に動くものです。あなたがもたついている間に、出会う機会を失いかねません。あなたが探しているものは、すぐそこにあるのです。僕のご機嫌とりをしている時間など、どこにもないのです」
百合子は中腰の姿勢から立ち上がり、ウルサが見ている方角に目を据えた。何かを言い掛けたが思い留まり、百合子は座り込むウルサの横から斜面を下り始めた。
砂丘を下り元来た道へ歩き始めたところで、百合子は別れを惜しむように、ゆっくりと振り返った。愛らしい案内人へ感謝の意を込め、出来る限りの笑顔を送る。
ウルサは飛び上がるように立ち上がり、先ほどまでの無表情とは打って変わり、破顔して両手を振っているのが見える。
最後に元気なウルサを見て、心の底からホッとする。あとは迎えにいくだけ。
目標に向かって歩き出した百合子は、もう前しか見ていない。
夜空いっぱいに響くウルサのエールを背中で受けながら、湧き上がる思いと一緒に、一歩一歩進んでいく。
「大丈夫です! あなたならきっと会えます!」
明確な目的と到達すべき場所が分かった今、誰もいない箱庭を歩くことも喜びに変わっていく。負荷でしかなかった足元の砂でさえ、急げと言わんばかりに軽く感じる。
裸足で歩く道のりは痛みを伴い、疲労から歩みはもつれる。肉体から聞こえる悲鳴も、ウルサがいた砂丘も遥か遠くに存在し、内にある歓喜を力に変えながら行くべき道を歩いた。
自然の摂理が存在しない、この砂漠の世界はどこまで行っても明けることはないのだろう。大きな満月も地平線に落ちることなく、百合子の行方を見定めているようだ。
遠くに見えた目標の砂丘が遂に眼前に現れ、それはなだらかに横たわっていた。
「これを超えれば」
砂丘を見上げてみると、思ったよりも高いことに気づいた。
「……少し、休憩しましょう。歩き続けたんだもの。そう、少しだけね」
有り得ないほどの大きな満月に見守られ、よろよろと腰を下ろした。疲れた体を支えるように両手を砂地につき、足を投げ出してみる。
肉体は正直である。体の中に意識を傾けてみれば、水も油も何もかもが足りないと感じた。「少しだけ」と呟き、目を閉じようとした時、背後から叫ぶ声がした。
「おい! お前! ウチを壊す気か! どけ!」
少し甲高い老人の声にびっくりして、百合子は辺りを見回してみるが、それらしき人物はいない。
「馬鹿者! ワシはここじゃ! お前が座っている場所はウチの玄関である! いいから! どけと言っておる!」
百合子は小さき者の住処の軒先に、偶然座り込んでしまったということだ。急いで腰を上げ、少し前に移動したところで大きく振り返った。
砂の中から顔を出していたのは、声からは想像できない、耳が大きく縦に伸びた、小さな狐のような小動物だった。
怒っているのだろうか。目をとんがらせて百合子を威嚇しているようだが、むしろ、その姿は愛らしい。
外見は可愛くとも、声から察するに年長者である。百合子は彼の尊厳を傷つけないよう、敬う気持ちを心に留めて、まず謝罪することにした。
「ごめんなさい。あなたの家だったのですね。知らずに座り込んでしまいました」
「……まあ、いいわ。お前は他所者だな。どっから来た」
「東京です」
小さき者は大きな耳に掛かった砂を振り払おうと、頭を激しく振っている。スッキリしてから、百合子の答えに耳をピンと立てた。
「トウキョウ? なんじゃそれは……知らんな」
ウルサと違って、百合子のことは全く知らないようだ。
百合子はフサフサの毛皮に触れてみたくて、少しずつ老人に近づいていく。相手も警戒している様子だが、逃げる風でもないので、座ったまま足をずらしながら、手の届く位置まで近づくことに成功した。
「私は百合子と言います。あなたのお名前を聞いても?」
老人は上目遣いで睨みを利かせ、相変わらず不機嫌そうだ。
「ワシの名前? そんなもの聞いてどうする? お前にはやるべきことがあるから、ここにいるのではないのか?」
何も知らないようで、要点をつかれた百合子は目を丸くした。確かに、そのために休むことなく歩き続け、ここまで戻ってきた。この丘を越えた向こう側には、ジーンがいるのだから。
「ええ、おっしゃる通りです。でも、少しくらい、お話をする時間はあります」
まだ百合子を不審そうに見ているものの、ここまでの彼女の言動は及第点に値したらしい。
「アウローラ」
「素敵なお名前ですね。よろしく、アウローラ」
何やら立派な名前を持つ、この大きな耳のモフモフは名前を褒められ、ぱっちりと黒目がちな愛らしい目を開き、嬉しそうだ。
「お前さん、ずいぶん遠くから来た様子じゃが、他に誰かに会ったかね?」
「ええ、このずっと向こうの砂丘で、ウルサという名前の可愛い男の子に会いましたよ」
「ああ、あのこまっしゃくれた坊主か」
「ご存知で?」
「もちろん。あやつは夜の道案内が役割だからな。ワシもたまに世話になる」
この世界は、スペースが作った箱庭だと思っていた。しかし、ウルサには役割があるし、アウローラが長いこと住んでいるということは、この砂漠はスペースの私物ではないらしい。
では、どこなのか。
「ウルサは北斗七星じゃ。他に六人の仲間がおるようじゃが、ワシは他の奴には会ったことがない」
「北斗七星……なるほど、そうでしたか。ウルサは星の子だったのですね」
アウローラの話に耳を傾けながら、「僕を信じて」と言ったウルサの言葉を思い出し、この丘の向こう側にはジーンがいるのだ、と改めて胸が熱くなる。
関心しながら聞いている百合子を前に、老人は機嫌が良くなったのだろう。この世界のことを話し始めた。興味深い話題ではあるが、少し長くなりそうなので、百合子は苦笑しながら頷いた。




