第18話 いつか来る日
時折、百合子が雑誌のページをめくる音がするだけで、振り子時計のカチコチと規則正しく、優しく時を刻む音が聞こえる静かな時間。
ジーンはクッションを抱きしめたまま、瞑想するように目を閉じて、ソファの上で胡座をかいていた。
隣で百合子は買ってきた雑誌を読みふけっている。表参道の一件から、服装を少し気にしているようだ。
ジーンからすれば、百合子の作るドレスは十分すぎるほどの出来栄えであり、わざわざ自分のスタイルを崩してまで、他人と融合する必要性を感じないと言う。
なんなら、自分も現世に来た時の死神装束、つまり白い燕尾服で一緒に歩いてもいい、と言い出したが、百合子は苦慮するまでもなく即座に却下。
ファッション誌に夢中になったのは、なにも流行を知りたかっただけではない。
自分には無縁だと断定し、若い頃からおざなりしてきた娘らしさを取り戻そうとするかのように、誌面に描かれる、きらきらしたもの、可愛いもの、美しいもの、優しいもの全てに目を奪われていたからだ。
雑誌に釘付けとなっている百合子に、ジーンが声を掛ける。
「百合子」
「なあに?」
ちょうどその時、『一週間着まわしコーデ』というOLの様々なシチュエーションに合わせ、定番アイテムを活用した着こなしを紹介するページを見ているところだった。
「若いお嬢さんは毎日、大変ねぇ」
ジーンがポツリと言う。
「この家さ」
雑誌のページを見ながら、百合子は「ええ」と空返事すると、ジーンが笑いを含んで続けた。
「誰も来ないね。電話もかかってこないし」
百合子は目をカッと開き顔を上げると、ニヤっと笑うジーンを横目で見ながら、
「そう……気づかなかったわ」
手に入れられなかったものへの執着が孤独を呼び、堪え難い寂しさと侘しさに苛まれたのは遠い昔のお話。
ジーンが静かに尋ねた。
「今も寂しい、と感じる?」
そのような感傷的な感情を感じることがないように、胸中の奥深くに沈めておいた。
心に張った水面を決して揺らさないように、他者と距離をとりながら、雑音を耳にいれずに九十年。
最後の最後に水面に一石を投じ、水底で錆びついていたセンチメンタルで柔らかいものを、図らずも浮上させたのは、隣に座って微笑している死神だった。
百合子は眺めていた雑誌を自分の膝の上にパサっと置いた。
『寂しい』という言葉が、頭の中でこだましている。
「いいえ、寂しくないわ。寂しいっていうのは、誰かを待っていたり、期待している人が感じるものだもの……」
「つまり、求める対象や望んだ結果が得られない、もしくは失った時に、人は孤独になり寂しさを感じるわけだ」
百合子は真意が読めず、曖昧に返事する。
「そう……ね」
歯切れの悪い百合子の答えを気にする様子もなく、ジーンは持っていたクッションを脇に追いやり、百合子に近づいた。
「孤独になることは悪いことじゃない。寂しい、という感覚も大切だ。でも、君には寂しいと感じて欲しくない、と思う僕がいる」
至近距離にいるジーンを遠ざけようと、百合子は体を仰け反らせた。
「……あなたは何が言いたいのかしら」
ジーンは一拍置いてから、柔らかに笑む。
「僕が消えたら、君は寂しいと感じるだろうか? それとも自由になるんだろうか?」
考えたことがないわけではない。期間限定の暮らしであることは承知している。
これまで失うものを何も持たずに生きてきた彼女が、ある意味、初めて手に入れたもの。それがジーンとのなんでもない日常、そして、誰かと分かち合う時間という幸せ。
求めても得られずに孤独に苛まれた経験はあっても、手にした大事なものを失った後にやってくる、また別の責め苦を味わったことはない。
一人この世に残されたとしたら、かつてないほどの喪失感を伴う孤独が襲ってくることは、想像に難くない。
「そんなこと……馬鹿らしい」
苦々しい顔で、百合子は一蹴した。
「それに、たとえ話は……好きじゃないわ」
怪訝な顔の百合子とは反対に、ジーンは静かに微笑んでいる。
「いつか、来る日のことだよ」
百合子は小さな声で「気に入らない」と呟き、突然、ジーンに人差し指を突き出した。
「それよりも、私、気になってることがあるのだけど」
「いいね、質問。受け付けますよ。なんでも聞いて」
「あなた」
「うん。なに?」
「死神のお仕事は大丈夫なの?」
思わぬ質問にジーンはカラカラと笑い、銀色の前髪を指先で跳ねると「大丈夫。僕はいわゆるボンボンだから」と百合子にウインクを投げる。
死神とは思えない、その世俗にまみれた言い方と態度に、百合子は眉をひそめて言った。
「良家の子息なら尚更だわ」
その時、鳴らないはずのチャイムが鳴り響いた。それは、まるで借金の取り立てが来ているような、すさまじい連打による猛攻だった。
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