ナポリタン
4時間目、それは多くの学生にとって度し難い時間である。
ある者はその誘惑に耐え、またある者は狂気をもってその身に救いを与え、またある者は世を忍び不徳とその幸福に愉悦と恍惚の表情を浮かべていた。
多くの学生にこれらを与える物はただ一つ、昼飯である。
この教室にもまたその地獄が訪れていた。
◆
「金……ないかぁ……」
一人うわごとを呟きながら校門をくぐった彼の名は矢嶋 正之。
胃袋の鳴く声に耳をすませ、食欲を満たす高校二年生だ。
しかしこの時の彼はいつもとかなり違っていた。
財布の中身を何度も確認し、そしてその度に落胆していたのだ。
「これじゃぁ、な。」
何度も何度もそう呟き、今にも雨の降りそうな曇天の道を歩んでいた。
「仕方ない、かぁ……」
突如彼は何かを決心したように、しかしながら同時に何かを諦めたような顔をして、人の並ぶ定食屋の扉の前を走り抜けていった。
◆
「はあ…」
彼が辿り着いたのは、それは多くの者にとっての理想郷であり、同時に多くの者にとっての背徳の都でもあった。
概ね全てが揃い、尚且つ安く、そしてあまりにも近すぎる小世界。
コンビニエンスストアである。
自動ドアを潜り抜け、彼は一直線にオリジナルの棚へと向かった。
「ああ、やっぱりそこにいるんだね…」
語りかけるように彼の視線の先には、まるで帝王の如く鎮座する一つの皿、大盛りのナポリタンが存在していた。
「まさか、お前に頼ることになるとはな。」
歴戦の友に語りかけるように、彼は誰にも聞こえないような音量で呟き、その大皿を手に取った。
(重い、やはり変わらんな。)
再びその手に武器を持つように、頭の中で彼はその皿を表現した。
レジへ持っていくと一人の壮年の店員がこう言った。
「…商品、温めますか?」
その声は限りなく厚く、重く、渋く、そして厳かであった。
「お願いします。」
そう答えると男は静かに電子レンジの中へナポリタンを入れ、スイッチを入れた。
「…380円になります。」
大塚明夫のような重厚感のある声が、静かに返した。
すると矢嶋は財布からそっと黄金色の小さな円盤を取り出した。
「500円で…」
500円、多くの者から見れば大した額ではないだろう。しかし時は月末、これが意味するところそれ即ち、彼の全財産のである。
矢嶋は震える手を必死に内側から抑えながら、その輝ける円盤を青い皿の上に乗せた。
その様子を、壮年の店員はまるで見定めるかのように見つめていた。
しばしの沈黙が流れた。
「……百……二十円のお釣りになります。」
先に動いたの店員だった。
手際よくレジへ入力し、そこからお釣りを取り出し、レシートの上に乗せて差し出した。
矢嶋は、少々沈んだ表情でそれを受け取った。
そしてレンジがその鉛のような空気を切り裂くチンッという音を上げナポリタンが取り出された。
彼は袋に入れられたその皿を受け取り、再び自動扉をくぐった。
その目には意味のわからない涙が光っていた。
「……少年よ、強くあれ。」
そう店員が言ったのを、彼は聞いていたのだろうか。
◆
彼は近くの公園にて黙り込んでいた。
(俺は、あの空気の中でなにをしていたのだろうか?)
そう、彼もまた、我々と同じく、あの店員の発する空気に飲まれていたのである。
(まあいいか、さて…ナポリタンか。)
袋から取り出され、蓋を外され、程よく冷えたナポリタンに、彼は白いプラスチックの形容し難きフォークのような物を突き立てた。
クルクルと巻きつけ、口に運ぶ。
おおよそ公園という日常環境には異端に見える様である。
(ああ、トマトぉ〜酸っぱくて甘いトマトぉ〜)
麺に絡みついたトマトピューレに恍惚となった表情など、その中でも特に異端であろう。
(弾けるッ!!すごいよぉ!!このソーセージ、肉汁が弾けるよぉ!!!!)
斜めにスライスされたソーセージを嚙み潰しながら、彼は驚嘆の唸り声をあげた。
彼は今日もまた充実した心地になっていた。
しかし、ただ美味いだけでは終わらなかった。
(辛いッ!!!やばい!!なんか嚙み潰した!!!!唐辛子嚙み潰した!!!)
残り少ない麺を、皿から直接口に掻き込もうとした彼は、ひっそりと残っていた唐辛子を勢いよく嚙み潰した。
針で刺されたような痛みのような刺激のような味に襲われ、悶絶する彼は、水を求めた。
しかし、これは悪魔の罠だろうか、水道は故障していた。
(……うっそだろ、おい、なんでだよ、なんでこのタイミングなのぉぉおぉぉおぉぉお!!!!)
彼は、その瞬間、数分前の自分への呪詛を唱えたという。
そして、そのまま食い終わったゴミをビニール袋にまとめ、彼は学校の自販機へと猛ダッシュして行った。
偶然その姿を見た近隣住民は、その時の彼の形相が修羅のようであったと語った。
やあ、久しぶりだね。
それだけ