出汁巻卵
4時間目。
黒板を花粉症で痒い目を擦りながら、凝視する彼、矢嶋正之はいつもの様に昼食のことを考えていた。
(ああ、甘味が、甘味が欲しい。それも菓子のようなただただ甘いだけじゃなくて、甘くて少ししょっぱい歯触りのものが、)
「オーイ、ヤジマー、ハナシキイテルノカー」
「!?」
頭を出席表で叩かれた。
「はい、聴いてます。」
「じゃあここの問題解け。」
(んな!地雷踏んだ!受け答え間違ったなこれ。まあ、これくらいなら解けるけど。)
黒板まで行き式を書き答えを書いて帰ってくる。
「正解。じゃあ次はこの」
キーンコーンカーンコーン
「っと、終わっちゃったよ。じゃ今日はここまでってことで。はい号令。」
起立、気をつけ、礼。
(ああ、やっと終わった。にしても、今日の昼飯マジでどうしよう。甘味系にするのは決まったんだけどなー)
「お、母ちゃん今日は卵焼き作ってきたか。」
左後ろの男子の会話に、彼の耳が反応した。
(卵焼き、そうだ。それがあった。
でもただの卵焼きはなんか気分じゃないだよなー。よし、出汁巻でいこう。)
こうして、彼のいつもの昼食が始まった。
ちなみに献立の決定まで彼はかなり無駄な動きをしていたので、当然クラスメイトたちから不思議なモノを見る目を向けられていた。
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高校に近い駅の下り側から続く商店街を早足で歩き抜けていく。
その様は陸上部が見たらスカウトするだろうと思うほど見事な競歩だった。
(ああ、ダメだ。さっきから考えっぱなしで、脳にカロリー使いすぎた。とにかく出汁巻を、ここから近い出汁巻を出す定食屋といったらあそこしかない。)
商店街はそこそこの人の流れだが、それをぶつからないように抜けるのは、かなりの困難である。
しかし、彼はそれをやってのけた。
商店街中盤に来ると、彼は右側の小さな店に入っていった。
「いらっしゃいませ〜。」
おばちゃんが優しく挨拶をしてくれた。
なかなかいい店のようだ。
「出汁巻卵と味噌汁。漬け物はキュウリとカブで。」
「かしこまりましたぁ〜。」
(ここのいいところは漬け物が選べるってことだ、って偶然通った時にいたサラリーマンのおっさんが言ってけど、マジで選べるのか。
こいつぁすげぇや。)
自分の顔が妙に歪んでいることに彼は気づいていなかった。
周りの客は少し不気味そうに彼の顔を見ながら、野球のテレビ中継に目をやっていた。
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「お待ちどおさまぁ〜」
「出汁巻卵とご飯とお味噌汁、キュウリとカブのお漬け物ですよ〜」
五分ほどした頃に、おばちゃんがお盆に乗せて料理を運んできた。
表面は黄色過ぎず、狐色過ぎずの丁度良い焼き色をした出汁巻卵。
香ばしい香りを、湯気とともに放つ味噌汁。
コメ一粒一粒が立ち、艶を輝かせるご飯。
鮮やかなピンク色をしたカブと、水々しい翠をしたキュウリの漬け物が美しく並んでいた。
(はいきたー。待ってたよぉ〜。愛しの出汁巻ちゃあん。)
この時、正之は特撮の悪役のような笑顔を浮かべていることに気づいていなかった。
(いただきます。)
まずは出汁巻を一切れ。
箸でつまむと、まるで高野豆腐をつまむのと似て非なる弾力が伝わってきた。
それを口に放り込むように入れる。
(ああ、ああああああああ、こぉぉれぇぇだぁぁ〜。この甘過ぎないでしょっぱ過ぎない絶妙な味を俺の舌が、胃袋が求めていた〜。)
正之、悪役の笑みより至福の笑みに変わる。
彼はテーブルの端に置かれた醤油を右手で掴むと、皿の端に乗っている大根おろしに一滴だけ垂らした。
(卵に大根おろしって初めてだけどどんな感じなんだろう。)
おろしを箸で軽くつまみ、卵の上に乗せる。
それを再び口に運び込む。
(ああ、なるほど、これ辛味大根か。確かに甘味が強くなったな。けど、同時に辛味が来るから抑えられてる。
これ考えたやつすごいな。どんな天才なんだろ。)
ふた切れ目を飲み下したところでご飯をかき込む。
(滑ってないし、一粒一粒が程よい弾力だし、
何より、甘味がある。
ああ、甘味をここで食べて良かった〜。)
ご飯茶碗を置きカブの漬け物に箸を伸ばす。
(すっぺー!しょっぱいというよりすっぱいだよこれ。あ、でもこれ確かにご飯欲しくなるな〜。
うーん、どうしよ?漬け物ほとんど食ってからの方がいいかも。
じゃないとご飯なくなりそうだからなぁ〜。)
と考えつつ次々と漬け物を口に放り込む正之。遂にはのこりはキュウリ一枚となった。
(やべ、漬け物先行し過ぎたかも、
まあ、でも?出汁巻もあるからこれはこれで良かったかもな。)
再び出汁巻に箸が伸び始める。
そして、漬け物と同様、のこり一つとなってしまった。
(やばい。完全に油断した。おかずに意識もってかれすぎた。ええいままよぉー!!!)
キュウリと出汁巻を一気に口に放り込み、ご飯を思いっきりかき込む。
途中何度かむせたので味噌汁を飲んだ。
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(最後の食い方、なんか汚かったなぁ〜。
ああいう計画的でない食い方したら一気に食い方汚くなるのなんとかしないとなぁ〜。)
自己嫌悪に走りながらも、その足はゆっくりと高校に向かっていた。
行きは早く、されど帰りは遅く。
5時間目が物理であるという、彼にとっての最大の悪夢からの現実逃避のための時間を稼ぐようにゆっくりと歩を進めて行く。
出汁は昆布出汁が好きだ。