光雨の薬譜 (恋歌遊戯 余話)
光雨の薬譜
きっかけは些細な事だった。
「デートぉ?」
布の塊ことビオルは、火精霊の長である炎天に言われた言葉を思わず復唱した。
「そうよ。デート。逢い引き。逢瀬」
勿論、ビオルと炎天が、ではない。
片や薄茶色の布の塊としか言えない風精霊の長(仮)と、布面積の少ない南域踊り子風な火精霊の長。美女と雑巾である。
紅に混じる金と紫。それはさながら炎の明るい所と暗い所。まさしく炎の色彩そのままの、長い髪を掻き上げながら露出度満点の美女、炎天は言う。
「あのダメ男どうにかしなさいよ」
そのダメ男呼ばわりされているのは、この大陸の心、精霊王にあたるようなものなのだが。
「どうダメなのぉ?」
とりあえず、聞いてみた。
「リトちゃんを放っておき過ぎ」
「あー……」
金の瞳をじっとり半眼にして、炎天はスッパリそう切り捨てる。
「いや、あれはぁ、リトさんも最近忙しいしぃ、二人とも一緒に居られたらそれで満足らしいからぁ」
いいんじゃないかなぁ、と思うのだが。
「んなわけないでしょ。仮に良いとして、リトちゃんはまだ若いのよ? そんないくらでも老後にエンジョイ出来る過ごし方を今からしてどうするのよ」
「…………」
そこって個人の好きずきじゃあないかなぁ? と言うつもりだったのだが、確かに、ちょっと考えさせられる。
「だからビオル。あのダメ男を焚き付けなさい」
「いや、意味わからないよぉそれ」
◆◆◆
「は? リトとデートに行け? どうしたんですかビオルさん」
思いっきり怪訝な顔つきで、ダメ男兼大陸の心、樹宝はビオルを見つめた。橙と唐紅花の双貌がやや心配気なのは何故だろうか。
「うん。あのねぇ、樹宝さん達がそれで満足してるのはぁ、十分承知してるんだけどねぇん……。リトさんの歳でその老後の過ごし方みたいなのはどうかなぁって意見が出てね?」
「老後…………」
あんまりと言えばあんまりな形容。樹宝の顔にも当然の如く渋いものが浮かんだ。
「まぁ、一理あるかなぁとも思うんだよねぇ。それにリトさん遠慮深いしぃ、もしかしてぇ、遊びに行きたいとかぁ、何か希望もあるかも知れないでしょう? 言わないだけでぇ」
「う…………」
樹宝が少しだけ怯む。どうやら人心の機微に自身が決して鋭くない事は、自覚していたらしい。
捨てきれない可能性に、樹宝が窺うようにビオルを見遣る。
「それにぃ……リトさん、頑張ってると思うんだよねぇ」
「それは、まぁ」
「と言うかぁ、頑張りすぎの感があるよん」
自分の事は自分でやる。当たり前の事だが、それも案外難しい。
「お薬のお勉強にぃ、身の回りの家事全部ぅ、それから作ったお薬を卸しに行くしぃ」
リト。ミルリトン・マーシュ・マロウは、春頃に樹宝の元へ嫁に来た人間の少女で、今は大分改善されたものの生来身体があまり強くない。病がちで、樹宝の元へ嫁に来るまで地方貴族のお嬢様だった彼女は、それこそ初めてで戸惑う事も多いはずなのだが、いつも笑顔でそんな気苦労は微塵も感じさせない。
だからこそ、心配になるのだ。
「ちょっと気晴らしに連れて行ってあげるとかぁ、しても良いんじゃないかなん」
「…………」
「どうしたのぉん?」
いつの間にか樹宝の目がどこかいじけたようなものに変わっていた。
「……ビオルさん、俺よりリトに気を掛けてますよね」
「どういう意味で言っているかによってぇ、ハリセンかどうか決めるけどぉ、どっちぃ?」
「…………」
「あのねぇ……」
この子どうしよう。そんな感情が唯一露出している口許から覗える。
「じゃあ、手本を見せて下さい」
「うんぅ?」
「連れ出すって見本。俺より人間に詳しいし、焚きつけるからには出来るんでしょう」
「…………――――」
そんな会話が巡り巡ってこんな事になったのか。
現在、ビオルは雨具をすっぽり頭から被ったリトと森の中を歩いていた。
「リトさん疲れてなぁいぃ?」
「平気です!」
にっこりとひまわりみたいな笑顔でリトが横に立つビオルを見上げて応える。
頭から足首まである雨合羽に水滴が落ちては流れていく。
鬱蒼と生い茂る森の木々が緑の天井を作っており、しとしと雨くらいではその下を通る者に届くのも遅い。
「でもびっくりしました。ビオルさんとお出かけするの雨の日は初めてですね」
「そうだねぇ。リトさん体調も大丈夫ぅ?」
「はい。おかげさまで、最近はずっと熱もでませんし」
「うふ。良かったぁ。でもぉ、時々は息抜きしたりぃ、適度にサボって良いんだよぉ?」
ビオルの言葉にリトは一瞬小麦色の瞳を丸くした。そして思わずといったように小さく吹き出して鈴の鳴るような笑い声を立てる。
「ふふ。はい。ありがとうございます」
「どういたしましてぇ。さて、もうすぐかなん」
雨降る日の空は真珠灰。陽光は差さないが、空全体が白く仄かに明るい。
木々の梢が広葉樹から針葉樹へ変わり始めた頃、ビオルはローブの中から一つの入れ物を取り出す。
「リトさんや。先にコレを渡しておくよぉ」
「ランタン、ですか?」
蝋燭の入っていない空のランタンを渡され、リトは小首を傾げた。
「うふふ。今にわかるよん」
「?」
おいで。足場がぬかるみ始める先の為、ビオルがリトへと手を差し伸べる。
細く白く骨ばった指に小さな手が重ねられ、二人は歩みを進めた。
……のを、片や物凄く衝撃を受けて蒼くなっている男と、そのダメ男に呆れ気味の火精霊長が茂みの影から見ていた。
「あのねぇ……そんな顔するって、アンタ馬鹿でしょ」
「ぐ……」
「ビオルに手本見せろとか。そんで見せられた手本にショック受けてどうすんの?」
「……黙れ」
「バーカ」
「っ!」
ぷるぷると肩を震わせるものの、何も言い返せない樹宝は代わりのように二人が消えた先へ目を向け、後を追うべく動き出す。
「しかもコソコソ付回すとか」
「~~っるさい」
まぁビオルには付けてるのバレてると思うケドね。そう炎天は呟いて火精霊には嬉しくない天気の森を、大陸の心である樹宝と共に先の二人を付けて歩き出した。
「この奥に何があるんですか?」
「くふ。この時期のぉ、とっておきぃ」
ぬかるみそうな道を事も無げにビオルが進み、踊るように手を取ったリトを導く。
それでも泥が跳ねそうな場所ではひょいと抱えたりして。
そうして辿り着いた先には、青々と茂る草とどんぐりくらいの茶色く丸い実を付けた木々がまばらに生える場所。
「はい。到着ぅ」
「ここですか?」
特に変わったものがあるとも思えないその場所に、リトが目を瞬かせる。
リトの様子に、ビオルはニィッと口許に笑みを浮かべて囁く。
「見ていてご覧」
不気味。そう常人ならば思いそうな笑みも、げに慣れとは恐ろしき。
すっかり慣れてしまったリトはその言葉にどこかわくわくとした面持ちで瞳を輝かせている。
この子本当に順応性高いよねぇ……とビオルは微苦笑しつつ、目深に被ったフードの下で空を見上げた。
「この狭間の地は大陸の中心。様々なものが集まる場所。少し変わったものもあってねぇ」
少し、雨が勢いを増す。しとしとから、ぽつぽつへ音が変わる。
雨宿りのように木陰に入り、その様子を見つめる中、リトが言う。
「ビオルさん、ありがとうございます」
「うん? 何がぁ?」
「いつも気を遣って下さって」
「あは。別にぃ、お礼を言われる事じゃあないよぉん。それにぃ、気を遣ってるってぇ程じゃないしぃ」
「ずっと、お礼を言わなきゃいけないって思ってたんです。ビオルさん、最初から私の味方で居てくれましたよね」
「…………ふふ。どうかなん?」
「住む所も、薬についての知識も。私の為にいつも心を配ってくれて」
ビオルを見上げ、屈託の無い笑顔でリトが言う。
「ありがとうございます」
その笑顔に、ビオルは密かに溜め息をつく。
「本当に、お礼を言われる事じゃあないんだけどねぇ。大切な樹宝さんのお嫁さんなんだしぃ」
「わ」
ポンポンと雨具越しに頭を撫でて、ビオルは口許に微笑を浮かべた。
「リトさんや。幸せぇ?」
「はい」
ランタンを抱いて、すぐに笑顔で返る返事。それを見計らうように、雨が強さを増した。
「あ。そろそろだねぇ」
ビオルがそう呟いて、そっと指差す。
雨粒がどんぐりのような硬い茶色の実を叩くと、実が弾け、中から仄かに白く光る粒が現れた。
「わぁっ……」
降り注ぐ雨粒と共に、光の粒が降る。
やがてその数が増えると、地に落ちた光と相まって全てが幻想のように光り出す。
目を刺すほどの強さはなく、けれどキラキラと輝く光。
雪化粧にも似た美しさに、リトはただ魅入る。
「この時期に降る雨でしか観られないんだけどねぇ。綺麗でしょぉ?」
光景に魅入られ、コクコクと頷くしか出来ないリトを見て、ビオルはクスクスと笑った。
足元まで弾けて転がった光雨の粒を一つ拾い上げ、リトへ渡す。
「熱くないですね」
「東域にぃ、蛍ってぇ生き物がいるんだけどぉ、それと同じ冷光だからねん。熱さはないよぉ」
光るそれを、ランタンに入れる。
「この時期に実をつけ、この頃の雨の勢いでなければ実を弾けさせられない。そういう植物なんだよねぇん」
木陰から手を差し伸べると、光の粒はパラパラと掌で踊った。
「とっても、綺麗です」
「うふ。気に入ってくれたみたいで良かったよん。ちなみにぃ、これって薬にもなるからぁ」
「え。どんなですか?」
「この種は乾かすと白い真珠みたいになるんだけどぉ、強心剤になるよん。茶色の殻も粉末にして血管を広げる薬にできるねぇ」
「あ。どうしよう。書くもの置いてきちゃいました」
「くふふ。大丈夫ぅ、また帰ったら説明するからぁ」
「はい! ありがとうございます」
良い雰囲気には違いないが、あくまで仲の良い師弟以外の何物でもないそれ。
けれど、火精霊の長からダメ男と言われる精霊王には、沈み込むほど仲睦まじく見えたらしい。
「…………」
「…………アンタさぁ、そんなにショック受けるなら最初からビオルに手本見せろとか言うんじゃないわよ」
「リトを誘うとは思わなかった」
「バカじゃないの」
「う」
「リトちゃんを誘う手本に他人使ってどうすんのよ。手本なら本人誘ってみせるに決まってるじゃない」
「…………。ビオルさん、何であんなに手慣れてるんだ」
「アンタ、あれの歳を幾つだと思ってんの。ビオルはアンタより歳上よ。そりゃ手慣れるわ」
リトからは見えないし雨音で聴こえないが、布を幾重に被っていても耳の良い風長(仮)には筒抜けだった。
結果。
「ビオルさん? どうかしました?」
「うん……。ちょぉっとねぇ。リトさんや。ここで待っててねん」
「はい」
リトに背を向け、数歩不届き者達方向へと歩いてから、ビオルは徐に片手の指を軽く指揮よろしく振り下ろした。
波音と錯覚しそうな水音を立てて風に集められた雨雫が樹宝へと滝のごとく落下する。
「うわあぁぁっ」
ひょいと炎天は即座にその濡れ鼠と化した樹宝から距離を取った。
「び、ビオルさんっ?」
「あーのーねぇ? どぉーしてぇ、私が情けなくて泣きたくなるような事するのかなぁん? 樹宝さん」
「情けないって……」
「さっきからぁ、後を付回すしぃ、手本を見せろって言ってたのにぃ、見せたら見せたで落ち込むとかぁ、一体どうしたいわけぇ?」
ぐぅの音も出ない。しかも。
「…………」
見下ろす相手。そのフードの奥。
反射的に正座して見上げる形になっていた樹宝は、紅い瞳が冷え冷えとした色で自分を見下ろしているのを見た。
「すみません……」
「……まったくぅ。ほら、付いて来たんならぁ、おいで」
「え?」
「リトさんはその方が喜ぶからねん」
「ビオルー、アタシも良いー?」
「良いんじゃないかなん」
くるりと踵を返し、ビオルはさっさとリトの元へと戻る。
それに続いた炎天と樹宝が現れると、リトはまず濡れ鼠に驚き声を上げた。
「樹宝さん! ど、どうしたんですか!」
「うげ! こら、やめろ! 平気だ!」
樹宝は抱きつく勢いで駆け寄るリトの頭を押し止め、それでも自分の雨具で樹宝を拭こうとするリトは手を伸ばす。
「仲が良いわね」
「あら? 木涙も来たの?」
ふわりと栗色の長い髪を揺らして森の緑そのままの色を瞳に宿した女性が木々の間から現れる。
土精霊の長で、リトからはテーレと呼ばれる女性だった。
「ビオルが頃合を見計らって来るようにと。あなた達が合流したぐらいで丁度良いだろうと」
「ってことはー……氷冠」
「何だ?」
すぐに応えは返り、藍色に染まった青年が姿を見せる。
「水精霊の長も、って事は四大揃ったわけね」
「こうなるだろうとは思ったが」
「樹宝がビオルに見本を要求した時からある程度は」
それぞれの精霊の長達は一様に苦笑を浮かべて、未だにじゃれあいのようなやり取りをしている大陸の心とその嫁を見た。
「風邪引いちゃいますよ!」
「平気だっつってんだろ! むしろそれはお前の方だろうが!」
「あはは。リトさんランタン邪魔じゃあないかなん? 預かるよぉ?」
「助かります!」
「ビオルさんっ!」
小さくなった雨の中、地面に散らばった光粒がぱしゃぱしゃと跳ねて舞い踊る。
それは長閑で、優しい色の思い出になるだろう。
「雨、止みそうね」
「もうすぐ雨の季節自体が終わるわ」
「そのようだ」
雲の間から細く柔らかな光が差し始め、やがて雨が上がる。
「夏の到来だ」
その声に誰とも無く笑みを浮かべ、精霊の長達は逃げ回る樹宝を捕獲すべく踏み出した。
◆◆◆
きっかけは些細な事。
一つ違えば、恋した相手は違ったかもしれない。
一つ違えば、出会わなかったかもしれない。
一つ違えば、こんなに幸せにはなれなかったかもしれない。
「リトさんや。幸せぇ?」
問われる事に、返す声は一つ。
迷いなんていらない。
「はい」
心の底から、応えられる。
今へと続く全て。
今から先へ。
きっとこの想いは変わらない。
終