いとしの麦わら姫
古びた屋敷の前で足を止め、扉を叩くと。
すぐさまぱたぱたと音がして扉が開き、少女が出迎えてくれた。
「いらっしゃい、グランさん!」
「おっ、と」
片手で花束と紙袋を落とさぬよう注意して、もう片方の手で彼女を抱きとめる。
「セルリア、そんなに急ぐと転ぶぞ?」
胸の辺りにある頭を撫でると、結われた銀髪に一本の麦わらが引っかかっていた。
「おやおや、四週連続で麦わらつきとはね。ヴァーレン伯爵のご令嬢ははずいぶんと家畜小屋がお好きのようで」
「可愛い子牛が生まれた農家へ、領主代行として様子を見に行くのは当然の事です」
取った麦わらを振りながら茶化すと、セルリアにそっぽを向かれてしまう。
「これは失礼しました。親愛なる麦わら姫、お詫びの印に受け取って頂きたいものがあるのですが」
花束を差し出すと、眉間にシワを寄せていたセルリアが微笑みかけ――すねた顔で慌ててこう言った。
「まぁ、いいでしょう。屋敷に飾っておきますわ」
光栄です、と反射的にお辞儀をしてしまう。ガラでもないとは思うが、礼儀作法もよく動く舌も、幼い頃から叩き込まれたのだから仕方がない。商人の家に生まれた者の基礎というやつである。
でも、彼女が微笑んでくれるなら。あの辛い日々も報われようというものだ。
「そろそろ、お茶の時間ですから。応接間へどうぞ」
その言葉に、グランは紙袋を手渡す。
「ああ。ちゃんと入ってるぜ、ウチで扱ってるスコーンとジャム」
「……準備がいいのですね」
少し驚いたふうのセルリアの肩を叩き、にやりと笑う。
「そりゃよくもなるさ。婚約者殿が手ずから、俺に淹れてくれる紅茶じゃないか」
かたや、金はあれども歴史はない海運成金、トライム家の三男坊。
こなた、歴史はあれども金はない辺境貴族、ヴァーレン伯爵の一人娘。
二人の父親が親友だった事に端を発し、爵位を望んだグランの祖父が、伯爵の借金を肩代わりした十年前からの婚約――それが、グランとセルリアの関係だ。
傍から見ればまるっきりの政略結婚なのだが、当時八歳だったグランはそんな大人の事情など知らずに喜んだ。
ふわふわのドレスを着て、銀髪に青いリボンを結んだ女の子に引き合わされた時、見惚れて『きみは雪の妖精さんなの?』などと、えらくメルヘンな質問をしてしまったくらいである。死にそうなほど恥ずかしい思い出だ。
「はい、どうぞ。熱いですから気をつけてくださいね」
「お、おう」
琥珀色の液体が注がれたカップを受け取り、回想終了。立ち上る香りを楽しんでから、一口目をゆっくり味わう。
「はぁ、これぞ至福の一時ってやつだな」
「ふふ、うれしいです」
グランの感想を聞いたセルリアは胸を張り、ジャムつきのスコーンを口に運ぶ。ほぅ、と息をつく顔はとろけそうだ。
「リアはドレスや宝石よりこっちの方がいいんだもんな。喜んでもらえてなによりだ」
「だ、だって! 宝石を買えるお金があるなら、壊れた水車を直しませんと。診療所や学校の建物だって古くなっているし、収穫祭の時期も近いですから」
つらつらと費目を並べるセルリアに、グランは呆れのため息をもらした。
領地から上がる税収のうち、取り分は家族が暮らせる分だけ――という、質素倹約の家風で育った彼女は、いつもこんな調子なのだ。数年前に両親が病没し、祖母と二人暮しになってからはさらに根を詰めているように思う。
そんなセルリアに着飾ってもらおうと思ったら、ヴァーレン領を国一番の豊かな土地にするくらいの気概が必要だろう。
「まぁ、お前のそれは病気みたいなもんだし。俺がいくら言ったって改めるつもりはないんだろ?」
「病気とはなんですか! 領主代行として当然の事をしているまでです」
へそを曲げたセルリアを宥めつつ、貴族って奴がみんなこうだったらいのにな、とグランはぼやいた。
普段は家業を手伝い、週に一度のペースで婚約者の屋敷に顔を出すのがグランの習慣だ。そして、毎月必ずやると決めている事がある。
「いつもの報告書、まとまってるか?」
「はい! もちろんです」
応接間から執務室に場所を移し、机の上に書類を広げる。
「今年は天候にも恵まれたし、小麦の収穫は順調だな。この様子だと出来高はこれくらいで、税収はこのぐらい見込めるだろ」
「こんなに? すごい、今までで一番です」
定期的に見回っている畑の様子と、セルリアの作った報告書から今後の収入を予測。商売の視点から費用をかけるべきはかけ、削るべきは削る。ああでもないこうでもないと話し合いながら、来月の予算を組むのだ。
「あと、水車と学校、診療所の修繕だけど。暫くはやめておいたほうがいいぞ。今は建築資材が値上がりしてることだしな」
「そうですか……刈り入れが終る前に水車だけでも直したかったのですが、仕方ありませんね」
しょんぼりと肩を落とすセルリアに、グランは少し考えた。トライムの名で手配すればどうだろう?
「もしかしたら、水車の分くらいならウチで手に入るかもしれない。父さんに聞いてみるよ」
「ほ、本当ですか?」
「聞いてみるだけだぞ。手に入るかどうかと、値段の方も保障できないからな」
「かまいません、それでも。グランさん、ありがとう」
そう――この笑顔だ。セルリアに笑って欲しいから、さして好きでもない商売の勉強などしているのだ。出来の良すぎる兄が二人もいて、自分はあまり期待されていないと知った後も、彼女がいてくれたから腐らずにすんでいる。
「それでさ、俺から提案があるんだけど」
首を傾げるセルリアに続きを話す。
「今月の収入から支出を引くと、少しだけお金が残るんだ。もちろん、リアが毎月している貯金だって引いてある」
報告書の余白に計算式を書き込んで答えを出す。おいしいものを食べるか、可愛らしい髪飾りの一つでも買えば無くなってしまう金額。でも、きっとこれぐらいが丁度いい。
「麦わらの姫様は領民思いの倹約家ですが、たまにはご自分の買い物をなさってもよいのでは、と愚考しまして。このようなものをお持ち致しました」
とどめに商品目録を取り出す。二つ目の紙袋に入れておいた、トライム家と取引のある洋菓子店と、装身具の店のものだ。
「どうぞ、ごゆっくり」
洋菓子店の方をセルリアに差し出すと、食い入るように見はじめた。凝った挿絵が並ぶ目録は、お菓子好きにはたまらない垂涎の出来なのだ。無論、もう片方も言うに及ばずで。
ページをめくるたびにセルリアは息をのみ、頬を染め、感嘆の声を上げる。
「お気に召すものはございましたか?」
婚約者の百面相をしばらく楽しみ、彼女が目録を閉じたところで声をかけた。
「とても素敵なものでつい、見入ってしまったのですけど。……あの、わたし、は」
「どうしたんだ? 遠慮なんかしなくていいんだぞ。さっきも言ったけど、これはお前が使っていいお金なんだ」
気後れでもしているのかと続きを促すと、セルリアはもじもじと口を開いた。
「違います、お金じゃ、なくて……グランさんにお願いが、あるんです」
「え? 俺に?」
聞き返すと、セルリアはこくりと頷く。不思議に思ったものの、いつも遠慮がちな彼女の珍しい『お願い』である。是非とも叶えてあげたいと、緊張して言葉を待った。
「……二週間後に収穫祭があるんです。そこに、その……私と一緒に行って下さいませんか?」
「なんだ、そんな事でいいのか? それぐらいでよければいくらでも行くけど」
グランは拍子抜けした。十年来の付き合いであるからして、デートをするのも収穫祭に行くのも初めてではない。本当に遠慮ばかりなんだな――と呟いたが、彼女の言葉には続きがあった。
「今年の収穫祭の日は、私が十七歳になる誕生日なんです。だから……十年前、私とあなたが初めて会った日にして下さった約束を、もう一度聞かせて欲しいのです」
あんなに真っ赤になっちゃって可愛いなぁ、とセルリアを眺めていたグランの耳に、『約束』という言葉が引っかかった。
「初めて会った日の約束?」
嬉しそうに頷く彼女の様子を見る限り、それはとても大事なこと、らしいのだが。
グランは全くと言っていいほど思い出せなかった。
きれいさっぱり忘れましたなどと言えるはずもなく、必死に記憶を探る。しかし初めて会った日といえば、あのメルヘンな質問の恥ずかしさばかりで、他はよく覚えていないのが正直なところ。
「……まさかとは思いますが、覚えていらっしゃらないとか?」
「そんな事ある訳ないだろ。この屋敷でしたんだって、ちゃんと覚えてるよ」
こう言っておけば間違いはないだろう、という考えを口にした、次の瞬間。
「覚えていないじゃないですか!」
怒鳴り声が耳をつんざく。
「いやその、それは」
ハズレを言ってしまったと悟るグランの前で、セルリアの頬が紅潮していく。先ほどの恥じらいではなく、激怒の色に。
「とても大切な約束なのに! わたしは……わたしはすごく嬉しかったのに!」
「ご、ごめん、俺が悪かったよ。謝るから、ちょっと落ち着いてくれ」
「わたしは冷静です!」
他にも山と罵詈雑言を浴びせられ、グランは縮み上がった。こうなってしまうともうお手上げだ。
「収穫祭には私一人で行きます! 思い出すまで屋敷も出入り禁止ですから! 顔も見たくありません」
「おい、ちょっと待てって」
セルリアは肩を怒らせて部屋を出て行き、伸ばした手は閉まるドアに遮られた。
「……まずい」
歩きながら、思わず声が漏れた。
出入り禁止を言い渡された手前、屋敷に居るのも気詰まりなので外へ出てぶらぶら歩く。ヴァーレン邸があるのは城壁に囲まれた古い町だが、収穫祭になればきらびやかに飾られて、多くの人でごった返すのだ。
「あれまぁ、ヴァーレンの若様じゃないか。一人だなんて珍しいねぇ。姫様と喧嘩でもしたのかい?」
子連れの女性にそう声をかけられ、おざなりに手を振る。
いつまで経っても慣れないのだが、セルリアの婚約者という事で、住民には『ヴァーレンの若様』と呼ばれており、グランはちょっとした有名人だった。
そこらを歩けば十年前の事を何か思い出せるかもしれないと思ったのだが、収穫祭を控えての町は活気づいており、静かに回想に浸るどころではない。
「はぁー、二重にまずいぜ」
セルリアを怒らせてしまい、その上こんな時期に町を歩くような選択をしてしまうとは。グランは自分のうかつさを呪った。
かてて加えて、向こうからグランのあまり会いたくない人物がやって来るのまで見える始末である。
「おやおや、そこにいるのはトライムの末っ子じゃないか? 元気そうだな」
「げっ。ロイエンのおっさんも元気そうで何よりだよ」
「げっ、とは随分だな、トライムの末っ子。今回もいいモン入ってるぜ? セルリア姫に買ってってやりゃあいい」
ひげ面の男が馬車から降り、あれやこれやと選んで突き出してくる。グランはフン、と鼻を鳴らして顔を背けた。
「トライムの末っ子って呼ぶなよ。何回も言ってるだろ」
この熊のような体躯の行商人は、人が嫌がるのを知りながら、わざと『トライムの末っ子』などと呼んでくるのだ。
「昔は『セルリアにあげるんだ』って、よく買い物してくれたのになぁ」
「うるさいな。最近は二人とも忙しくなって、ガキの頃みたいにいかないんだよ」
高価な贈り物を喜ばないセルリアに、野原で花冠を作ったり、ロイエンから花の種を買ったりしたのは昔の話。今ではそんな時間はすっかり無くなってしまった。
「おっさんの方こそなんだよ、今日はずいぶん上機嫌じゃないか。ニタニタして」
「よくぞ聞いてくれた! 実は来月三人めの子が生まれることになって、稼いでやるぞと気合を入れて来たところでな」
グランはばしばしと背中を叩かれて咳き込んだ。
「げほっ、お、おめでとう。確かおっさんの奥さんて、線の細い美人だったよな」
「そうそう、あんな細い腰で二人も子供を……っと、年頃の青少年には毒だったかな? お前もがんばれよ」
「余計なお世話だ!」
どっと疲れた気がして、ため息をつきながら馬車に寄りかかる。
「美女と野獣とはよく言ったもんだよな。熊みたいにごつくてひげ面のおっさんに、美人の奥さんがいるなんてさ」
「あぁ、そうだな。どっかの成金の三男坊にだって、可愛い婚約者がいるわけだし。でも俺が親だったら、お前に娘をやるのはちょっと考えるけどな」
「ぐぬぬ……じゃあ、あんたはどうなんだよ! 奥さんの親に挨拶に行った時は」
皮肉を皮肉で返されてグランは歯ぎしりした。
「ん? 俺が結婚を申し込んだ時は確か、殴られたな、思いっきり。『根無し草の行商人などに娘をやれるか!』とか親父さんに言われたっけ」
「そうなんだ。何かスカッと晴れやかな気分になったぜ。俺は殴ってないけど」
「そりゃあよかった。うむ、それにしても懐かしいな。もう十年くらい前になるか」
回顧のスイッチが入ってしまったらしいロイエンに、グランはしまったと舌打ちした。昔話を聞いているような時間はない。
「そういや、十年くらい前と言ったら、この町に初めて来たのもそんな年だったかな。そんで、まだこーんなだったお前と姫様が初めての客だった」
「そんなちっさい人間がいるかっ!」
地面の上三十センチ程の高さで手を動かしているロイエンに怒鳴る。――が、ふと気づいた。これはチャンスなのでは?
「でもまぁ、よく覚えてるもんだな」
「十年前だぞ? そのぐらい誰だって忘れたりしないだろ」
それが俺、覚えてねぇんだよなぁ――ロイエンの言葉にそうぼやき、グランは目的の質問を口にした。
「それじゃあ、俺がその時何を買ったかまで言えるか?」
この行商人は自分の十年前を知っているのだ。ならば、セルリアの言っていた『約束』だって記憶にあるかもしれない。
「無論だ。お前は赤いリボンを買って、姫様にプレゼントしていたよ。値切るガキなんて初めてだったからな、よく覚えてる」
「何て言って渡してた?」
「うーむ、『赤も可愛いよ』とか言っていた気もするが……どうだったかな」
にやにや笑いのロイエンから目をそらし、グランは八歳の自分を恨んだ。人の過去を知っている人間はこれだから始末に負えない。『約束』そのものは知らないようだし、この辺が潮時だろう。
「あー、楽しいお話をどうもありがとう! じゃあその赤いリボンを貰おうか」
「おう、まいどあり。またのお越しをお待ちしておりますよ、お客様」
料金を支払い、グランは品物を受け取った。
「十年前? ああ、よく覚えてるよ。あなた方二人の婚約お披露目のことでしょ? あの頃はまだ先代もお元気で、着飾った姫様のそりゃあ愛らしかったこと。それを見たウチの子ときたら……」
無限に続きそうなおばちゃんの昔話に頭を下げ、グランは慌てて逃げ出した。
期限は収穫祭までの二週間。それまでにどんな『約束』をしたのかを思い出し、セルリアに謝らなくてはならない。
先程買ったリボンをじっと見つめてみても、記憶が甦る、なんて事はなく。
手がかりでもないかと、藁にもすがる思いで聞き込みなどしてみたのだが。
「女ってのは病気みたいにおしゃべりが好きな生き物だな……」
まだ仕事終わりには早い時間なので、町を歩いているのは女子供が大半である。十年前の詳しい事情を知っている人、という訳で必然的に大人の女性に話を聞くことになってしまうのだが、揃いも揃って長話が大好きときている。しかも、話の殆どは欲しい情報とは無関係で、十人を数えたところで忍耐力が尽きてしまったのだ。
「そもそも、約束って個人的なものの筈だし、他人が知ってたら変か」
町を歩き回った。昔を知っている人に話も聞いてみた。
「後出来るのは……思い出せることから一つずつ書き出してみる、とかかな」
ジャケットの内ポケットから手帳を取り出して広げる。
「セルリアと初めて会ったのは……秋ごろ、だったっけ」
十年前の秋。夏の暑さが一段落し、木々の葉が染まり始めたある日。父に連れられたグランは、同じように父親と一緒の『未来のお嫁さん』と顔を合わせたのだ。
「応接間に通されて、紅茶とクッキー貰って……自己紹介した後に、あのこっ恥ずかしい質問をやらかしたんだよなぁ」
グランの質問が場を賑わせた後。父二人は子供そっちのけで昔話に興じ、子供二人はつまらなくなって部屋を出た。
「それから、えーと……外に出て、町を歩いたような」
ガイドをかってでたセルリアが、父親が治める町を得意げな顔で案内してくれたのを思い出す。
「買い食いしたり、俺がはぐれて迷子になったり、転んで泣いたセルリアをおんぶしたりとか、いろいろあったなぁ」
おぼろげな記憶を辿って一箇所ずつ、過去に歩いた道をもう一度確認していく。
「……結構覚えてるじゃないか、俺」
それなのに。
肝心要の『約束』の記憶だけが、どうしても見つからないのだった。
「くぅ、やればやるほどダメだ……」
地道な聞き込みと回顧の作業を、トライムの家でも続けたものの。期限の二週間が過ぎても、望む結果を得られず。
精神的疲労を抱えたまま、収穫祭当日を迎えてしまったグランである。
「もうこうなったら……正直に言って謝るしかないな」
ヴァーレン邸の扉の前。ポケットにある誕生日の贈り物を確かめてから、深呼吸してノックする。
気のせいだろうか、いつもならすぐに開く扉がなかなか開かない。蝶番が軋んだのは、たっぷり五分は経ってからだった。
「おはようございます」
「お、おはよう、セルリア」
彼女の表情は無愛想そのものだったが、締め出されなくて良かった、とグランは胸をなでおろした。
「あの後、町を歩き回ったり聞き込みしたりしたんだけど……どんな約束をしたのか、どうしても思い出せないんだ。ごめん」
「もう、いいですよ。怒っていませんから」
「え、そうなの?」
戦々恐々として謝罪の言葉を述べたグランは、セルリアの言葉に顔を上げた。
「町の皆さんが、心配して教えて下さったのです。『ヴァーレンの若様が一人でしょんぼりしてるみたいだけど、何かあったのか』と。あなたが一生懸命約束を捜していることも」
「なりふり構わなかったからなぁ……」
「あ、あの」
グランが恥ずかしさに頭を掻いていると、小さな声が耳に入った。
「お祖母様にも叱られてしまいました。『いつも助けてもらっているのに、そんな事で怒ったりするんじゃありません』って。……十年も前の事ですから、仕方ないですよね。私の方こそ、わがまま言ってごめんなさい」
「……え? いや、いいって! 大事な約束だったんだろ? 俺も、思い出せなくてごめん」
頭を下げられて、グランは慌てた。
「ほんとに、許してもらえてよかった。愛想尽かされたらどうしようって、気が気じゃなかったよ」
「そんなに怖かったですか? わたし」
「おう、すっげー怖いぞ。もしかしたら俺の祖父ちゃんより怖いかもしれない」
茶化して言うと、セルリアは膨れてぷいっとそっぽを向いてしまった。
「でも、これでプレゼントが渡せるな。十七歳の誕生日、おめでとう」
無駄にならずにすんだポケットの中身を、彼女の手に握らせる。
「前にも言ったけど、お前はもうちょっとわがまま言ったっていいんだ。だから、それを受け取ってくれないかな」
以前渡した装飾品店の目録で、彼女がじっと見ていた髪飾りである。
「でもこれじゃまるで、プレゼントがもらえなくて拗ねる子供みたいじゃないですか。こんな立派なもの、申し訳なくて」
彼女の言葉に、また病気が始まったか、とグランは嘆息した。
「お前なぁ、謙遜も過ぎると嫌味だぞ? そんなだから借金抱えて、俺みたいな成金の三男坊と政略結婚するはめに……」
突然。からん、という音が続きを遮った。
音の出所はと見ると髪飾りが床に落ちており、それを持っていたはずのセルリアの手は、固く握られていた。
「他の人になら、何を言われてもいい……けど、あなたには、あなたにだけは思われたくなかった! お金目当てだなんて! だから、今までずっと」
言葉が途切れ、潤んだ青い目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
一体何が起こったのか分からずに硬直するグランの前で、音を立てて玄関扉が閉まった。
「グラン殿、聞こえますか? グラン殿。こっちへいらっしゃい」
「うぉっ!」
どれくらい突っ立っていたのか。ふと気づくと、グランは玄関ではなくて食堂の椅子に座っていた。
「あなたにお話があります」
「お、お祖母様っ? いつの間に」
「先程声をかけましたが」
隣の席で優雅に紅茶を飲んでいるのは、セルリアの祖母のアリエスだった。結構な高齢ではあるが、グランはこの女性の腰が曲がっているところなど見た事もない。
「わたくし、物陰から覗いておりましたので、単刀直入に申し上げますが」
「は、はいっ! なんでしょうかっ?」
家で祖父にしごかれているせいで、グランは年を経た人間というものが苦手だった。どうにも逆らえないのである。覗いてたのかよ、と驚くことくらいは別だが。
「あなたは、自分がセルリアに好かれているかどうか自信がないのでしょう? 政略結婚で、無理しているのでは、と」
ぐさっ、と言葉が音を立てて刺さったような気がした。
「黙っていると肯定と見なしますよ」
何も言えずにうつむく。
「こういう事は本人たちの間で、と思っていましたが。あまりにも腑甲斐無いので、私からびしっ、と言わせて頂きます」
「は、はいっ!」
「あの子は……セルリアはね、毎週あなたが来てくれるのをそれはもう楽しみにしているんですよ」
反射的に身を固くしたグランにかけられたのは、意外なほど優しい言葉だった。
「数日前から着る服や髪型を悩んだりしますし、寝る間も惜しんで紅茶の淹れ方を勉強していました。帰ったら帰ったで、セルリアは寝るまでずっとあなたの話をし続けるのですからね。お金のことも、あなたの名誉を傷つけたくないが為です」
「そ、そうだったんですか?」
嬉しさに舞い上がりそうになったが、全然気づかなかった、と言わないくらいの理性は保った。
「最後に、老婆心ながら忠告申し上げましょう。これを聞いたらすぐに、あの子を迎えに行って頂けると助かります」
ごくりと唾を飲み込むグランに、アリエスはカップに口をつけてから一言。
「あなた方は、いつまで婚約者でいるつもりなのですか?」
雷に打たれたような、とは正にこの事で。
その言葉を聞くやいなや、グランは椅子を倒さんばかりに立って駆け出した。
「セルリア!」
街路をとぼとぼ歩く後姿に、大声で呼びかける。
「は、離してください、私は」
そんな言葉は気にせず、セルリアの手をしっかり握った。
「思い出したんだ! 十年前、君とした約束を!」
セルリアがびくり、と動きを止めた。
幼い頃、大人の思惑によってとはいえ、自分とセルリアは婚約をした。あまりにも当たり前すぎて見えなかったが、婚約とは、『結婚の約束をする』という事なのだ。
「あの時町に行って、赤いリボンを買った後、俺はこう言ったんだよな?」
ポケットに入れておいたリボンを取り出して、セルリアの左手、薬指に結ぶ。
「大人は色々事情があるみたいだけど、そんなの関係なしで、俺たちはずっと一緒にいような。婚約ってそういうものだろ?」
リボンにキスすると、セルリアの顔が耳まで真っ赤になった。グランはそれをどこか冷静に観察し、よし、と腹に力を入れる。
収穫祭で住人は出払っており、辺りには誰もおらず、続きを言うには申し分ない。
「俺の、お嫁さんになってください」
セルリアは赤面して固まったままだ。あまりにも反応がないので少し不安になって、耳元で囁いてみる。
「どうだろう、俺は正解できたかな?」
「……大正解、です。一字一句あの時と同じ、約束の言葉、ありがとう」
涙声の言葉が聞こえ、細い腕に抱きしめられた。
「麦わらの姫様、よろしければ返事をお聞かせ願えますか」
青いリボンが結ばれた白銀の髪を撫でると、彼女の顎が動くのが分かった。
「謹んでお受けいたします」