35・レクイエム(最終話)
第六章・There Is A Light That Never Goes Out
4・帰りたくなったよ
翌朝、物音で目が覚めた。流しにお湯を捨てた時の〝ベコン〟って音だ。起き上がれと、角田がキッチンに立っていた。
「おはよう。食べるだろう? パスタ」
時計を見ると八時半だった‥‥どうしたんだこんな早くに?
「えっ? 普通に登校時間じゃん」
角田はパスタを運びながら笑っていた。
「学校行くのか?」
昨日の今日で? 俺はてっきり休むとばかり思っていた。しかし角田は、
「昨日の今日だから行くんだよ」
と、急いでパスタをかき込んだ。どうやらあのライブは角田の心に火をつけたらしい。だがそれも当然な話だろう。昨夜の事を思い出すと、俺でさえ熱い衝動がこみ上げてくる。人の価値観さえ書き替えてしまう様な体験‥‥昨日のライブとはそういうものだったんだ。
角田を送り出すと、とりあえず俺は洗濯に取り掛かった。その後は開店時間を待ってスーパーに買い出し。今日の俺は矢作女史の連絡待ちである。
今日づけで橘奈緒はオルフェと再契約する。その手続きも含め、女史から指示があるはずだ。連絡が来ればしばらくはバタつくだろう。だから今日のうちに出来るだけ家事を済ませておきたかった。
スーパーでは食材と一緒にジップロックを買った。出来たカレーやシチューを小分けにして冷凍するためだ。そうしておけばレンチンだけで食べられる。米も多めに炊いて冷凍しておこう。
部屋に帰ると俺は調理に取り掛かった。すぐに出られる様に、docomoは冷蔵庫の上に置いた。具材を炒めて水を足した頃携帯が着信した。
だがdocomoではなくポケットの中のiPhoneだった。俺は慌てて手を洗い、つまむ様にしてiPhoneを取り出した。
『ゴメンね慶ちゃん、昨夜は電話出来なくて!』
回線がつながるなり、奈緒は申し訳なさそうに謝った。
『あの後いろいろバタバタでさ。気がついたら深夜だったよ~』
あっちがバタバタなら勿論リアルもそうだって事だよな。俺らを逃がした後、矢作さんとマッキーはどうなったんだろう? 下手すりゃ今現在ももめてるかもしれない。気にはなったが、奈緒相手に変な顔も出来ない。とりあえず俺は話題を変えた。
「それより奈緒、凄かったな!」
『えっ?』
「ライブだよ、ライブ! 俺、スゲー興奮した!」
『凄かったっていうか‥‥怖かったよ』
奈緒は苦笑して言った。
『たくさんの人に歌を聴いて欲しくて東京来たのにさ、いざとなったら震えちゃって‥‥もっと練習したかったし、もっとやっとく事あったんじゃないかって思っちゃった‥‥』
そして奈緒は屈託なく笑って言った。
『だから、その分必死に歌ってみた!』
‥‥そうか、と思った。言っちゃ悪いが、奈緒には細かい事を考える頭も上手く見せるためのテクニックもありゃしない。だからその分必死に歌った‥‥それが奈緒の正解だったのだ。奈緒は情熱だけであの舞台を乗り切った。音楽‥‥いや、芸術の全てが案外そういうものかもしれないと思った。
「俺、昨夜の事一生忘れないよ」
『私も‥‥まるで夢みたいな夜だったよ』
「ってか‥‥夢、叶ったじゃん」
『そ‥‥そうかな?』
その時奈緒の表情が曇った。俺は変だなと思ったが、照れてるのだろうと解釈した。
「そうだ、おばさんがさあ‥‥」
『お母さんが!?』
「スゲー喜んでた。泣いてたよ」
俺は奈緒が喜ぶとばかり思っていた。だが奈緒はしばらく黙った後、つぶやく様に言った。
「そっか‥‥泣いて‥‥たんだ‥‥」
奈緒はうつむき、そのまま喋らなくなった。
「‥‥奈緒?」
話し掛けても奈緒は答えてはくれなかった。
俺には理解出来なかった。奈緒が夢見ていた世界が現実になったのだ。喜びこそすれ、そんな顔をするはずがない。
(何かの冗談か?)
しかし冗談ではなかった。やがて奈緒はポツリポツリ話し始めた。
『‥‥あのさ、慶ちゃん‥‥ヤッパ東京‥‥来れない‥‥かな?』
「えっ?」
『‥‥ちょっとだけ‥‥ちょっとでいいから会ってもらえないかなぁ‥‥』
全身の皮膚が泡立つ様に感じた‥‥それは俺が最も恐れていた言葉だった。勿論俺と奈緒が会う事なんて出来はしない。出来ないならその理由を説明しなくてはならない。だが説明すれば‥‥。
「き‥‥急にどうしたんだよ?」
俺は狼狽した。
『だって‥‥』
そう言うと奈緒はやっと顔を上げてくれた。が‥‥奈緒は顔をぐしゃぐしゃに歪め、隠そうともせずに涙を流していた。
『東京には一緒に喜んでくれる人がいないよ!
いくら夢が叶っても、ここには誰もいないんだよ!』
奈緒は声を上げて泣いた。その姿はまるで迷子の子供の様だった。奈緒は今まで一人で抱え込んでいた気持ちを一気に吐き出した。
そして俺はやっと気づいた。奈緒の中で張りつめていた糸が切れてしまったのだ! 奈緒はたくさんのものを捨てて塩尻を出た。それは夢を叶えたい一心の選択だった。だがその夢が現実となりライブという山を超えた時‥‥逆に奈緒の心は折れてしまったのだ。こうなってしまっては、奈緒は普通の女の子でしかない。
『慶ちゃんに会いたい‥‥お母さんに会いたい‥‥塩尻に帰りたい‥‥』
奈緒はただ泣きじゃくった‥‥俺は何と言っていいか分からなかった。〝頑張れ〟とでも言えばいいのか? 〝もう少しじゃないか〟か? そんなのただの無責任だ!
俺が励ませば奈緒は曲を作り続ける。フルアルバムも完成するだろう。しかしその代償に、奈緒は余計に苦しむ事になる。曲が何曲完成しようと、奈緒の寂しさが癒される事はない。いくら夢を叶えても、奈緒が塩尻に帰る事はもう無いんだ!
俺は決断を迫られた。真実を告げれば奈緒は消えてしまうだろう。俺は奈緒を二度も失いたくはなかった。だがそんなのは俺一人のわがままだ。俺には奈緒の涙を拭ってやる事は出来ない。奈緒を抱きしめて「お前は一人じゃない」と言ってやる事も出来ない。俺に出来るのは‥‥奈緒の悲しみを終わらせてやる事だけだ。
もちろん覚悟はしていた。覚悟はしていても‥‥実際にその時を迎えると手が震えた。震える手を押さえつけながら、俺は決意を固めた。
「奈緒‥‥オマエ、一人でよく頑張ったよ」
叫び出したい気持ちで俺は笑った。
「偉かったな」
これ以上奈緒を悲しませる事は出来ない。だから俺はこう言うしかなかった。
「俺、東京に行くよ」
『本当に?』
奈緒が涙を拭った。
『いつ? いつ来てくれるの?』
奈緒の表情がやわらぎ、微笑んだ。奈緒の笑顔を見るのは今日が最後だな、と思った。
全ての事に最後は来る。永遠に終わらないで欲しい時間、変わらないで欲しい人々、消えて欲しくない気持ち‥‥終わらないものなどこの世には無い。分かってる、分かってはいるんだ。だがそれは、今の俺には理不尽な事にしか感じられなかった。何故それを受け入れなければならないんだ? 俺には納得出来なかった。
それでも俺は自分の義務を果たさねばならなかった。奈緒を愛した男としての義務を‥‥俺は自らの手で終止符を打った。
「今日‥‥今から行くよ」
まさかこんな形で終わりが来るとは思わなかった‥‥。
5・Slow Emotion Replay
料理を手早く片づけると、俺はひげを剃って洗いざらしの服に着替えた。ろくな服を持って来てないが、せめて身綺麗にしたかった。例え実際には会えないにしてもだ。
時計を見るとまだ一時半だった。待ち合わせは六時に渋谷のハチ公像前だ。多分奈緒は、東京の待ち合わせスポットはそこしか知らないのだろう。まだ四時間以上あったが、俺は渋谷に向かう事にした。何も手につかないし、狭い部屋に一人でいたくなかった。かといって角田が帰って来ても喋れる心境ではない。
俺は〝奈緒に全てを話す〟と置き手紙して部屋を出た。
高田馬場駅に着くともう一度iPhoneが鳴った。画面に触れると、奈緒は少し照れた笑いを浮かべていた。
『慶ちゃん、電車乗れそう?』
「ああ。時間通りに着けるよ」
『よかった‥‥それでさあ!』
奈緒はカメラをベッドに向けた。ベッドの上には白のブラウスに赤のスカートと淡いブルーのワンピースが広げられていた。
『今日、どっち着てったらいいと思う?』
しかし、そんな事を訊かれても俺には分からない。というか、奈緒が制服以外でスカートを履いているのを見た事がない。
『でも、デートはやっぱりスカートじゃない?』
〝デート〟という言葉に頬が熱くなるのを感じた。
「そっか‥‥じゃあ赤いスカートでぇ」
カッコ悪い事に声が思いっ切り上ずった。
『ラジャー、ブラジャー、ノーブラは嫌じゃー!』
奈緒はいつものオヤジギャグで電話を切った‥‥デートか‥‥でも、最初のデートが最後のデートになるんだよな。そう思うと胸が締めつけられる様に痛んだ。俺は重い足取りで自動改札を通った。
渋谷には十分強で着いた。ハチ公改札を出て見回すと、駅前広場の一角にハチ公像はあった。
像の後ろには植樹帯があり、座れる様に二列のパイプが配置されていた。俺はパイプに腰掛けた。木が日差しを遮ってくれて、暑さも耐えられない程ではない。俺は時間までここで待つ事に決めた。
時間をつぶす方法ならいくらでもあった。ここは東京だ。本屋に喫茶店にCDショップ‥‥適当に回っていれば六時まではあっという間だろう。だがそんな気分にはなれなかった。俺は像の裏手に腰掛けたまま行き交う人々を眺めていた。
時間帯のせいか八割がサラリーマン、あとの二割は大学生風だった。少しだけだが観光らしき外国人の姿もある‥‥歓楽街で有名な渋谷も平日の昼間はこんなものなんだな。そう思っていると修学旅行らしき高校生のグループが現れた。
グループはハチ公像を見つけると交代でカメラのシャッターを切った。と、そのうちの一人が俺を見て写真を撮ってくれと頼んだ。俺は立ち上がり、言われるままにカメラを構えた。
液晶モニターの中では四人の高校生が俺に向かって笑っていた‥‥それは半年前までの俺たちの姿だった。俺も奈緒も無条件に明るい未来を信じていた。信じていられた! だが今は‥‥俺は数時間後に迫った永遠の別れに怯えていた。物理的な別れの後にやって来た真の別れ。それでもこの五ヶ月は、俺には最後のチャンスだった。奈緒との日々をやりなおす最後のチャンス。でも‥‥本当にこれでよかったのか? 他にもしてやれる事があったんじゃないのか? ふと湧き上がった不安が俺の心を飲み込み、揺さぶった。何が正解だったのか、俺にはもう分からなかった。
‥‥俺はカメラのシャッターを切った。
小さなモニターの中には、画像として切り取られた想い出が写っていた。俺は不思議な感覚にとらわれた。たった今感じている事が過去となり、想い出になる。奈緒の事も過去になるのか? 想い出になるのか?‥‥俺は奈緒を想い出にはしたくなかった。
我ながら未練がましく思えた。自分で自分が情けなかった。だから俺は決めた‥‥俺は絶対に泣かない! 笑って奈緒を見送ってやろう! 俺が泣いたら奈緒が悲しむ。それが俺に出来る最後の手向けなんだと思った。
高校生たちを見送りパイプに腰掛けると、ポケットの中でdocomoが震動した。角田からの着信だった。だが通話ボタンを押しても、しばらく角田は喋ろうとしなかった。
「もしもし‥‥どうした?」
『‥‥慶太郎‥‥今、何処にいるんだ?』
角田の声は重く沈んでいた。
「渋谷‥‥奈緒と待ち合わせしてる」
『‥‥』
「奈緒をこれ以上苦しめたくない‥‥もう話すしか無い」
角田は細かい事は訊かなかった。ただ、
『慶太郎がそう思うなら‥‥それが奈緒ちゃんには一番なんだと思うよ』
と答えた‥‥胸の痛みが少しだけやわらぐのを感じた。
「ありがとうな、角田」
『えっ?』
「お前がいてくれてホント心強かったよ」
『‥‥何だよ、別れの挨拶みたいに』
「そうか?‥‥今までちゃんと礼を言ってなかったから言っただけなんだけどな」
『今言うなよ、誤解するだろう!』
「えっ?」
俺はしばらく考えてやっとその意味が分かった。
たまらず俺は吹いた。
『お、オマエ‥‥人がマジで心配してるのに!』
角田が声を荒げたが笑は止まらなかった。
「ごめんゴメン‥‥んな事する訳ないだろう」
『分かってるけどさ‥‥』
「それに‥‥そんな事したら奈緒に顔向け出来ないよ」
『‥‥』
角田は黙り込んでしまった‥‥まずかったか?
「とにかく心配すんな‥‥俺が帰らないとオマエが栄養失調になるしさ!」
俺はわざと笑った。だが角田は低い声で言った。
『無理に笑わなくていいから』
‥‥俺は笑うのを止めた。
「ごめん‥‥それと、洗濯物、取り込んどいてくれ」
『ああ』
「ありがとうな」
『だから、礼とか言うなって!』
そして角田は『絶対帰って来いよ! 絶対だぞ!』と何度も繰り返して電話を切った。俺は単純にそれが嬉しかった。
6・レクイエム
五時を過ぎると日差しは徐々に傾きはじめた。この頃になるとハチ公像の周りは待ち合わせの男女でいっぱいになった。だが俺と違い、皆十分と待たずに入れ替わっていった。待ち人が来れば笑って像の前を去って行く。しかしそんな事は永久に俺らには起こらない。それが俺には悔しく、妬ましかった。俺以外の人間が幸せな事が許せなかった‥‥ひどいヤツだ。だが俺の思いとは関係無く、隣人は次々と入れ替わり続けた。俺は彼らの背中を見送っては目を逸らした。
やがて街路灯が灯り、太陽はビルの向こうに消えていった。六時を告げる鐘の音と音楽が駅前広場に流れた。鎮魂の鐘の音の様だった。俺は大きく息を吸い込んだ‥‥遂にこの時が来てしまった。
俺はポケットからiPhoneを出した。今まで俺と奈緒をつないでいてくれた小さな端末、それもこれで最後になる。俺は張り裂けそうな気持ちで通話を待った。
‥‥そして俺の手の中でiPhoneが鳴った。
しかし俺はすぐに出ることが出来なかった。これで終わりだと思うと、どうしても手が動かなかったのだ。だが‥‥奈緒の悲しみを終わらせてやれるのは俺しかいない。それに俺には奈緒にどうしても伝えたい事があった。俺は震える手で画面に触れた。
『慶ちゃん、もう着いてる?』
奈緒は白いブラウスで、少しだけ化粧をしていた。明るいピンクのグロスが奈緒の気持ちを物語っていた。
『私は今電車降りたところ。もうすぐ着くから待ってて!』
そんな奈緒に俺は真実を告げなければならない。喉が締めつけられ、呼吸さえおぼつかなかった。それでも俺は声を振り絞った。
「な‥‥奈緒!」
『何?』
「‥‥このまま話しててもいいか?」
『うん、いいよ!』
何も知らない奈緒は無邪気に笑っていた。小走りなのか少し息を切らせている。
「俺‥‥お前にずっと言えなかった事があるんだ」
『?』
俺は意を決してその言葉を紡いだ。ありふれた、だけどこの世界で一番大切な言葉を口にした。
「好きだ‥‥愛してる‥‥」
‥‥もっと早く伝えるべきだった。
‥‥そうすればこんな事にはならなかった。
俺の頭はそんな思いでいっぱいだった。
奈緒は目を丸くした後、苦笑して言った。
『う‥‥嬉しいけどさあ、何で会ってから言ってくれないの?』
出来る事ならそうしたかった。この手で奈緒を抱きしめ、奈緒の体温と息遣いを感じながら告白したかった! だがそれも、今となっては望むべくも無い。
「奈緒、落ち着いて聞いてくれ」
『うん』
「俺たち‥‥もう会えないんだ」
『‥‥えっ?』
奈緒が目を細めた。
『慶ちゃん、東京来てないの!?』
「来てるよ。来てるけど‥‥お前のいる場所が東京じゃないんだ」
『何それ!? 意味分かんない!』
奈緒は苛立ち声を荒げた。
『とにかく、今そっちに行くから待ってて!』
奈緒は画面を見るのを止め、走った。奈緒の荒い息づかいと足音だけがスピーカーから聞こえた。
『慶ちゃん! 何処いるの、慶ちゃん!?』
奈緒は叫んだ。いるはずのない俺を探して叫んだ。
「奈緒‥‥奈緒っ!」
声に気づいた奈緒が画面を見た。奈緒は怒りのあまり目に涙を浮かべていた。
『何なの慶ちゃん、イタズラ!? イタズラだったら悪趣味だよっ!』
‥‥そうだな。もしかしたらこれは神さまの悪趣味な悪戯だったのかもしれないな。でも、それでも俺はもう一度奈緒と話せて嬉しかったよ。例えその分つらい役回りを引き受ける事になってもさ。
「なあ奈緒‥‥お前、今どこに立ってる?」
『ハチ公像のすぐ前!』
「‥‥そうか」
俺は立ち上がり、像の前に回った。勿論奈緒はそこにはいない。見知らぬ男女が数名立ってるだけだ。
「なあ奈緒‥‥落ち着いて見てくれ」
俺はカメラをハチ公像に向けた。奈緒のいないハチ公像の前に。
‥‥数秒後、奈緒が震える声でつぶやいた。
『ど‥‥どういう事なの‥‥?』
画面を見ると奈緒は青ざめていた。さっきまでの笑顔は消え、それが俺の心を引き裂いた。しかしそれ以上に奈緒は‥‥。
「ごめんな奈緒‥‥今まで黙ってて‥‥」
俺はこれまでの全てを話した。事故の事、動画サイトの事、スカウトの事、ライブの事‥‥奈緒は目をつぶり俺の話を聞いた。時折奈緒はうなずき‥‥その度に奈緒の後ろの風景が少しづつ消えていった。
話が終わる頃には、画面の中の奈緒は暗闇にたたずんでいた。
そのまま俺たちは黙り込んだ。何分も何分も‥‥話を切り出す言葉が見つからないまま時間だけが過ぎていった。まるで卒業式の日の教室みたいだった。
そして‥‥先に話し始めたのはやはり奈緒だった。
『そっか‥‥』
奈緒は目を開け、悲しそうに笑った。
『結局‥‥私の夢を叶えてくれたのは慶ちゃんだったんだね』
「それは違うぞ奈緒! あの歌はお前の歌だ。お前の歌が皆の胸に届いたんだ!」
だが奈緒は首を振って言った。
『慶ちゃんのおかげだよ‥‥慶ちゃんはずっと私の傍にいてくれてたんだね‥‥』
奈緒は微笑み‥‥〝スパイダー〟を口ずさんだ。途切れ途切れに、震える声で口ずさんだ。俺は奈緒の最後の歌を黙って聴いた。
歌いながら奈緒は画面に触れた。細く白い指がゆっくりと、小さな画面に小さなハートを描いた。俺は奈緒の指をなぞった。だがそこに奈緒の体温は無かった。感じるのはガラスの手触りだけだ。あまりにも非情な、冷たく硬い感覚だった。
気がつくと俺の目からは涙が流れ出していた。な‥‥何泣いてんだ、俺っ! 絶対に泣かないって決めただろう! 笑って見送るって決めただろう!‥‥そんな事出来やしなかったんだ。だって奈緒は‥‥奈緒はもうすぐ消えてしまう! 奈緒が想い出になってしまう! なのに俺は奈緒を抱きしめてやる事も出来なかった。こんな別れってアリか!?
‥‥こんなの酷過ぎるだろう!!!
その思いは奈緒も同じだった。突然奈緒は歌うのを止めポツリとつぶやいた。
『‥‥何でこんな事になっちゃったんだろう‥‥?』
奈緒は顔を歪め、目に大粒の涙を浮かべていた。
『何が悪かったの?‥‥私のせいなの?‥‥夢を見るのはそんなにいけない事だったの!?』
奈緒はやり場の無い怒りにただ涙を流した。確かに運命は俺たちを押し流し、もてあそんだ挙句に置き去りにした。俺たちには絶望しか残されていなかった。夢という甘美な果実に手を伸ばした俺たちは、その代償に楽園を失ってしまったのだ。だがそれでも‥‥それでもだ!
「それでも奈緒‥‥夢があったから、俺たちはもう一度会う事が出来たんだろう‥‥?」
そうだよ奈緒、俺たちの物語は卒業式のあの日に終わるはずだったんだ。なのに俺たちはまたこうして会えた。たった半年だったけど、俺たちの思いは一つだった。同じ夢を追いかける事が出来た!
『そ‥‥そうだね』
奈緒は涙を拭い、微笑んだ。
『慶ちゃん‥‥私、慶ちゃんを好きになって本当によかったよ』
ぎこちない笑顔だったが、それは今まで見た中で一番美しい笑顔だった。俺は涙で曇った目で奈緒の笑顔を見つめた。この笑顔を永遠に忘れない様に瞳に焼きつけた。過去になっても思い出になっても、絶対に奈緒を忘れない様に胸に刻み込んだ。
「俺も‥‥奈緒と過ごした時間を絶対に忘れない」
奈緒がいたから俺は変われた。流されるだけの人生に、初めて自分の意思で抗う事が出来た。奈緒は俺の中に実のなる種を撒いてくれたんだ。
「ありがとうな、奈緒‥‥」
すると奈緒がはにかんで言った。
『ねえ知ってる?‥‥私、本当はもう一つ夢があったんだ‥‥ありふれた‥‥本当に普通の夢だったんだよね』
奈緒は目を閉じて、一つ一つをゆっくりと話した。
『慶ちゃんと恋人同士になって、遊園地や動物園や水族館に行ってさ‥‥将来は結婚して家庭を持って‥‥週末には一緒にストリートで歌って‥‥子供が出来たらその子に歌を教えて、みんなで歌いながら毎日過ごすの‥‥』
俺もその情景を心に描いてみた。二度と叶わない夢は、永遠に美しく儚い幻だった。手の届かない幸せが理不尽に俺の胸を締めつけた。だが奈緒は微笑んで言った。
『私の夢は叶わなかったけどさ、慶ちゃんはその分普通に幸せになってよ。
誰かを好きになって、家庭を持って‥‥私の事は時々、ほんのちょっとくらい思い出してくれればいいからさ‥‥』
「そんなの‥‥嫌だよ‥‥」
『私だって嫌だよ、慶ちゃんが他の誰かを好きになるなんて考えられない‥‥でも‥‥もうどうにもならないじゃない‥‥』
奈緒の目から再び涙があふれた。奈緒は涙を拭おうともせずに続けた。
『‥‥だからさ‥‥一生分の気持ちを今ここで言わせて‥‥今まで言えなかった分、これから言えない分の気持ちをお願いだから聞いて‥‥』
奈緒はまっすぐ俺の目を見た。涙に濡れたその目は、思い描いたささやかな夢にすがっていた。そして奈緒が無理矢理な笑顔でささやいた。
『大好きだよ、慶ちゃん‥‥』
‥‥俺もだよ、奈緒。
『愛してる‥‥』
‥‥ああ、分かってるさ。
『愛してる‥‥愛してる‥‥』
‥‥分かってる‥‥分かってるから‥‥。
『愛してる‥‥愛してる‥‥愛してる‥‥愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる! 愛してる!! 愛してる!!!‥‥』
ささやきは叫びとなり絶叫に変わった。奈緒の慟哭は俺の胸を貫き、抉った。そして俺は奈緒の悲しみを受け止めてやれない自分自身を憎んだ。これは報いなのか? 俺は臆病で、子供過ぎて、大人になる境界線を見過ごした。そして全てが遅過ぎた。何もかもが俺の罪だ。なのに俺には償う術が無かった。俺は‥‥目を背けるしかなかった。
奈緒はいつまでもいつまでも叫び続けた。それは残された命のすべてを言葉に変えているかの様だった。しかしその叫びもいつしか涙に掠れ、声は次第に小さくなっていった。
「奈緒!」
俺は驚いて画面を見た。その時奈緒の後ろに光が見えた。明るい、なのに柔らかい光が奈緒を包んだ。叫び声が小さくなるにつれて、奈緒の顔も暖かな光に溶けていった。
そして最後に消え入りそうなかすかな言葉が聞こえた。
『‥‥ありがとう‥‥』
‥‥画面は黒く消えた。
もう奈緒の姿は無かった。
「奈緒っ! 逝かないでくれ奈緒っ!」
俺は叫んだ。
声の限り叫んだ。
そして泣いた。
膝をつき、地面に爪を立てて泣いた。
だが行き交う人は誰一人俺に見向きもしなかった。ここはリアルの東京だ、大の男が泣いたって誰も気にとめたりしないさ。俺は気がすむまで泣いた。泣いて、泣いて‥‥俺の声だけが渋谷の空に吸い込まれていった。
7・バイバイパンプキンパイ
もう一度奇跡は起きた。
翌日、俺はオルフェに足を運んだ。矢作女史に奈緒の事を報告するためだ。目が赤く腫れててみっともなかったが、女史は全てを察してスルーしてくれた。
そして話を聞いた後、しばらく黙り込んでから女史が訊ねた。
「で‥‥ちゃんと〝好きだ〟って言えたの?」
「はい。お互いの気持ちは確認出来ました」
女史は優しく微笑んで言った。
「じゃあいいわ」
女史はiPhoneを手に取ると愛おしそうに眺めた。しかし奈緒が残した歌は六曲‥‥アルバム発売には曲が足りていない。
「そんなのどうにでもなるわよ‥‥別にMAXIだっていいんだしさ」
女史は笑いながらiPhoneを起動した。と、画面を見ていた女史が目を細めた。
「このファイル、何?」
見ると音声メモに四つのファイルが追加されていた。録音時間は昨日の午後六時‥‥奈緒のヴォーカルトラックだった。奈緒は最後にちゃんと曲を残してくれたのだ!
だが、そこからが修羅場だった。女史はすぐさまマッキーに電話を掛けたのだが、マッキーの返事は、
『俺、ディレクター廃業するって言ったじゃん』
女史は見事にブチ切れた。速攻、女史はマッキーのスタジオに怒鳴り込んだ。
中に入ると専門の業者が、スタジオの機材を買い取る査定をしていた。女史は業者を叩き返し、マッキーに怒鳴り散らした。
「受けた仕事を途中でおっぽり出すなっつーの! いい歳してガキみたいな事してんじゃないわよ!!!」
かくしてマッキーの決心はアッサリと撤回させられた。女史が帰った後、マッキーがポツリとこぼした。
「カッコよく終わりたかっただけなのに‥‥」
きっとマッキーは永遠に子供のままなんだろうな。
それから約一ヶ月、俺らは連日録音作業に没頭した。角田も学校が終わると毎日スタジオに来てくれた。作業は毎日深夜まで続いた。
契約が再度成立したのでオルフェはまたマンスリーマンションを借りてくれた。しかし今度は高田馬場にしてもらった。角田に飯を作るのに都合がいいからだ。
だから俺の生活パターンは、朝・角田の部屋で飯を作る → スタジオへ → 夜・スタジオでも何故か飯 を作る→ 帰って寝る‥‥という感じだった。
だが九月二十九日だけは時間をもらった。国体での田嶋さんの試合を観戦するためだ。
学部の皆と一緒に、俺は声が枯れるまで応援した。激しい打ち合いと睨み合いを繰り返すいい試合だった。だが終了直前、わずかな隙をつかれて田嶋さんは小手を取られた。一回戦敗退だった。
試合後皆で控え室を訪れると、目を真っ赤にした田嶋さんが出て来てペコリと頭を下げた。
「ごめんなさい、負けました!」
でも頭を上げた田嶋さんは爽やかな笑顔だった。田嶋さんはきっといい先生になるんだろうなと思った。
録音作業が終わったのは十月六日。その後はマスタリング作業を経て、十五日にはS社にマスターを納品した。
お役ご免になったマッキーは、やっとの事でバンド活動を始動した。矢作女史に釘は刺されていたが、結局角田はマッキーのバンドに加入した。本当は俺も参加を打診されたのだが‥‥大学への復学のために断った。親とそういう約束だったのもあるが、一度始めた事を最後までやり遂げたかった。
とういう訳で角田とマッキーは、作曲をしながらヴォーカルを探して回っている。角田が仮ヴォーカルのデモを聴いたが、かなりいいんじゃないかと思う。しかし矢作女史の感想は、
「悪くはないけどさ~‥‥金にならない事は趣味、歴史に残らない事は無駄、って世界だからね~」
だった。このヒトの口の悪さはどうにかならないものだろうか? だがそう言いつつも、矢作女史はどこか嬉しそうだった。
矢作女史つながりでもう一つ。ミクパの損害賠償請求は予想外に低い金額で済んだらしい。一番の理由は会場で混乱が起こらなかったためだが‥‥この件には裏があった。
ミクパの三日前、ネット上にまことしやかなデマが流れた。それは〝クリプトンがミクパで新型VOCALOIDを発表する〟というものだった。カキコはネットカフェからのものだったので犯人は不明。しかしこんな事を思いつくのは矢作女史しかいない(ちなみに本人はしらばっくれている)
クリプトンがデマに気づいて公式に否定したのは、九月三日の午後五時半‥‥開場のほんの三十分前だった。だから、あの時の声援が奈緒へのものだったのか新型VOCALOIDへのものだったのかは今となっては分からない。だが俺は、都合よく奈緒へのものだったと思う事にした。最近の俺は白痴なぐらいにオプティミストだ。
その後も北沢とは会えないままでいる。何度かメールはしたが返事は無かった。
だが一度だけ、十月に入ってから北沢の方からメールをくれた。文面は一言、
〝美大受験のため退職しました〟
とあった。
俺は〝頑張れよ!〟とだけ返信した‥‥それっきりだった。
俺はと言えば、マスター納品後は取材の相手やプロモーションで大忙しである。CDの発売は十二月十日なので、年内は多分こんな感じなんだろうな。その後のスケジュールは決まってないが‥‥いずれにせよ四月には復学する。
四月からは田嶋さんが上級生になる。田嶋さんは学部の役員になったそうなので、半端な事をしていると説教されそうだな。
まあ、そうでなくても今度は自分から周囲にアプローチしていこうと思っている。サークルにも入ろう。どんなサークルがあるのかほとんど知らないが‥‥やっぱ軽音になるのかな?
その上で今度は、自分自身の意思で最初の一歩を踏み出したいと思っている。自分自身と向き合い、自分自身で答えを探し、自分自身の未来を選ぶのだ。時間はもう少しだけある。あまり長いとは言えないが、焦る必要も無いだろう。
今言えるのはそのぐらいだ。
‥‥あれ以来、奈緒からの電話は無い。
先ず、一ヶ月の長きにわたりお読み下さったなろうユーザー様に感謝します。
そしてイラストのnaosukeさんと、ひーさんにも感謝です。二人はpixivでのマイピクで、発表以前からいろいろアドバイスをくれました。彼らがいなかったらLOSTは完成さえしなかったかもです。
なお、この作品には実は別エンディングバージョンも存在します。
そちらにつきましては近日、活動報告やTwitter(ID;kuroikebe)で報告出来ると思いますのでよろしくお願いいたします。
それでは皆さま、次回作もよろしくお願いいたします。
ごきげんよう( ´ ▽ ` )ノ




