哀眼(あいがん)
私たちは見るという覚悟をしなければならないと同時に見ないという覚悟も必要なのである。
俺が覗きを始めたのはいつからだっただろうか。
高校を卒業して社会人になったいまになってそんなことを考え出す。
よくよく考えてみると小さい頃の出来事がきっかけだったのかもしれない。
友達の家に遊びに行ったとき、その家の窓から見えた仲睦まじい光景。父親はコーヒーカップを片手に楽しそうに話しており、母親は自分の子供である友人を膝の上に乗せ、愛おしそうに抱きしめて夫に笑顔を向けていた。友人も両親の愛を受け、母親の愛を享受し、父親を尊敬の眼差しで見つめていた。
俺に気付くとその家族は皆で手を振り、遊びに来た俺を迎え入れてくれた。
それからだったのかもしれない。俺はそんな家族を見たくて覗きをしている。
なんて、美談だったらよかったのだが……。どちらにしろ、覗きは犯罪だから美談もなにもないかと自嘲気味に笑いながら、思考が覗きの本当の理由へと進んでいった。
俺の両親は不仲で、何かあるごとに喧嘩をしていた。いや、なにもなくとも喧嘩をしていたのかもしれない。家の中は常に冷戦状態で、火種さえあれば常に燃え上がり、爆発して口喧嘩となる。
それは俺のテストの成績や飯がまずいだの、帰ってくるのが遅いだの、どうでもいいことばかりで、言いがかりをつけてくるのは必ず父親からだった。当時はよく離婚しなかったと子供ながらに考えていた。
俺はそんな二人の怒鳴り声が嫌いでずっと部屋に閉じこもっていた。
そんな二人もようやく離婚するような出来事が起きた。父親が母親に暴力を振るったのである。その日の父親はかなり酔っていて、顔を真っ赤にしながらふらふらとおぼつかない足取りで家に上がった。
「おい、酒をよこせ……」
帰ってくるなりそんなことを言う。たっぷり浴びるほど飲んできたというのに、まだ飲むというのだろうか。しゃっくりをしているその男はこれ以上、酒など飲めそうには見えなかった。
「もうやめたほうが……」
母親がそう言うが、父親は聞く耳など持たなかった。
「うるせぇ! とっとと持ってこいって言ってんだろ!」
腕を振りかぶったのは分かったが、止める暇などありはしない。父親は、ばちっという音を響かせながら母親を平手で殴った。
母親は驚愕の表情で夫を見つめる。口喧嘩をすることはあっても殴られたことは一度もなかったのだ。
「なんだ、その目は」
ふらふらと体を揺らしながら酒臭さを漂わせ、こちらに近づいてくる。
「ったく、本当につかえねぇなあ。あの女のほうがまだ使えるぜ」
「あの女?」
父親の言葉に母親は確認するように繰り返して言った。
「ああ? そうか、そうだよなぁ。まだ言ってなかったもんなぁ。浮気相手だよ、う・わ・き・あ・い・て。ひゃははっ。昔はお前も従順だったが、このガキが生まれてからダメになりやがった。もう、クソの役にも立ちゃあしねぇ。俺の言うことも聞けないやつはいらねぇんだよ」
そう吐き捨てて台所からビールを取り出し、リビングに向かってテレビを見始める。
わざわざ強調するような言い方や下卑た笑いに苛立ちを覚えた。
しかし、そんな苛立ちもすぐに消え去ってしまった。
どんなに喧嘩しようとも泣かなかったあの母が、声を押し殺しながら泣いていた。どんなに喧嘩しようが、母はどこかであの男のことが好きだったのだろう。けれど、父親はそれを裏切った。お前に対する愛など無いと捨てられてしまった。
そのとき俺は何もできなかった。父親を怒りに任せて殴ることも母親を慰めてやることも。俺はどうするべきか分からなかった。
それから二人は離婚し、俺は母親に引き取られることになった。貧乏だが落ち着いた暮らしは幸せだった。けれど、どういうわけか幸せは長くは続かなかった。
俺が成長するにしたがって、母の俺を見る目がどんどん変わっていった。
どうやら俺が父親に似てくるのが耐えられないようだ。母は俺から距離を置くようになった。仕事が早く終わり、帰ってきたとしてもすぐに寝てしまい、朝も朝ごはんを作ってさっさと仕事に行ってしまう。
俺はそれをひしひしと感じていた。だから社会人になってすぐに住んでいたアパートから出て行った。
今はボロボロの格安アパートに住んでいる。
そろそろ日課の覗きをするとしよう。
部屋の壁を見渡すと、所々はがれていたり穴が開いていたりしている。下手をしたら隣の部屋が見えるくらいに。
けれど、その穴の開き具合が覗き魔の俺にとっては丁度良かった。
いつものように壁に近づいて小さな穴を覗く。
そこには楽しそうに笑う、三人家族が住んでいた。
晩ごはんのようで、小学生低学年くらいの男の子と若い夫婦と一緒に質素な料理が見えた。
こんなぼろいアパートに住んでいるくらいだ。すくなくとも金持ちではないだろう。しかし、それでもその家族は幸せそうに食事をしていた。
これが俺の望んでいた家族の姿だ。厳しくも尊敬できる父親、優しくも芯のしっかりとした優しい母親。俺もそんな家族の中で暮らしてみたかった。
けれど俺は知っている。そんな幸せそうな家族であろうとも表面上だけなのだと。
俺は壁に仕掛けておいた小型カメラをパソコンにつないで再生した。
そこには隣の部屋の父親が映っていた。
けれどそこに映っていたのは父親だけではなく、見知らぬ女性もいた。男と似たようなスーツを着ていることから、男と同じ職場の人間だということが分かる。
男の手が女性の頬をなで、女性はうっとりと男の顔を見つめる。女性は男の背中に手を回して抱きしめた。男はそれに応えるように女の髪を撫でながら片腕を背中に回した。
感情が高まってきたのか、キスをし始めてそのまま愛し合っていた。
その様子に俺はゾクゾクとした快感が全身を伝っていった。
将来を誓い合った妻がいるくせに、他の女に心を許す男。しかも、家族で住んでいるアパートに女を連れ込んでいるなんて気が狂いそうなほど愉快だった。
そう、俺が本当に見たかったのはこれだ。
家族の幸せ? 楽しい団欒? そんなのはクソだ!
この状況が俺に教えてくれている。家族の幸せなどしょせん上っ面だけなのだと。これが家族の本当の姿なのだと。不幸なのは俺だけじゃない。お前らみんな不幸なんだ。ざまぁみろ!
俺は興奮が冷めぬまま布団に入り、余韻に浸りながら眠りについた。
●
カーテンの隙間から日差しが入り、俺の眼球を刺激する。
頭がぼーっとするが、気合で布団をぬけだして朝飯の用意を始めようとする。
昨日、何か変なものを食べただろうか。何故か腹に、正確には腹の表面にとてつもない違和感があった。
なんとなく、服の下から手を入れて腹を掻こうとした瞬間、弾力がありぬるっとしたものが指先に触れた。
驚きのあまり、指先を見つめておそるおそる服をめくる。
そこには、恐ろしいものが存在していた。
「なんだ、これ」
想像すらしていなかったものに思わず悲鳴をあげる。
『眼』だ。
俺の腹に少し大きな眼があった。まつ毛などは特に存在せず、肉が盛り上がりそこにまぶたを形成している。
じっと見つめていると、まるで呼吸でもするかのようにゆっくりとまばたきをしている。そのたびにまぶたの肉が、正確には俺の腹の肉だが、それが上下してなんとも薄気味悪かった。
その眼は視線を動かすことなく、ただ前だけを見ていた。
俺はどうするべきだろう。これは何かの病気なのだろうかと不安にかられる。
体調に違和感はないし。会社に行くにしても服で隠すことができるため特に問題はないだろう。一番の問題としては気持ちが悪いということだけだが。それに病院には行きたくない。
とりあえず俺はこいつをどうすることも出来ない。だからこのまま会社に行くことにした。
朝飯を食べ、ニュースを見ながらコーヒーを飲み、食休みしてから家を出た。
外に出ると朝なのに熱気が俺を包む。
セミがミーンミーンと騒いでいるのが耳障りだと感じるのと同時にもう夏なのだと意識させられる。
しかし、そんな風に夏を感じている暇など社会人にはなく、早足で駅に向かう。
電車に入るとなんとか席を確保することが出来た。この駅はまだ空いている方だが、次の駅から急に混み始める。辺りを見渡すと何人か吊革につかまりながら、ガラケーやスマホをいじっている高校生が目に付いた。
落ち着いたら、急いでいたわけでもないのに汗が体中から噴出しているのに気付いた。首のところから服をあおいで空気を送り込む。社会人としてみっともないかもしれないが、これだけ暑いのだから許してもらいたい。
あまりの気持ちよさに目をつむりながらそんなことをしていると違和感を覚えた。
目をつむっているはずなのに、視界が暗くなったり、明るくなったりしている。
もしかしてと思い、シャツをまくって『眼』を出した。するとそこには吊革につかまりながらスマホをいじっている女子高生が見えた。目を開いていないのにも関わらず。
俺は周りにばれないようにシャツをすぐさま下ろして口を押さえた。そうしなければ悲鳴でも上げてしまいそうだった。
シャツをズボンの中にしまい、電車内ではずっとうつむいていた。
会社についても『眼』のことばかりが気にかかり、仕事に集中できない。
会社を早退し、アパートに帰ってきた。
きっとこれは悪い夢なのだ。寝て起きればきっとこの『眼』は消えてくれる。そう信じて眠りについた。
目が覚めると頭が痛かった。時計を見ると午前十一時。今日は土曜日なので遅刻の心配をしないでよかったが、寝すぎたようだ。そのせいで頭が痛いのかもしれない。
ぼんやりとした頭で体を眺めると悲鳴を上げそうになった。
消えると思っていた。夢だと思っていたあの『眼』が増えていた。
確認してみると、両腕・両足にまで『眼』が進行しており、その大きさは腹の奴よりかはいくぶんか小さいが、数が増えたことで不気味さは衰えるどころか増している。
気付いたら俺の体は汗でぐっしょりになっていた。服を着替えるために服を脱ぎ、脱衣所に入って洗濯機の中に投げ捨てた。俺はその瞬間、脱衣所の鏡に写った醜い自分の姿を見てしまった。
まぶたのせいで肉が所々盛り上がり、体の中に『眼』が埋もれているその姿を。
ああ、目が、メが、めが、眼が……見ている。俺のことをただ、ただ、ただ、ただ、ただ、見ている。
みつめている。じっと、じっと、じっと、感情のこもっていない瞳で見てくる。
「やめろやめろやめろ、そんな『眼』で俺を見るなぁ!」
頭を抱えたまま叫び声を上げる。
思い出すのは母親のあの無機質な『眼』。ただじっと見てくる。自分に近づいてこないか、なぐってはこないかと観察している。瞳の奥に恐怖を潜ませながら、まるで俺を責めるように見てくる。
ちがう、違う、チガウ。悪いのは俺じゃない。俺は何もしていない。なのに何故、そんな『眼』で俺を見る?
いや、逆か。何もしなかったからこそ責めているのか?
体の『眼』は別に俺のことを責め立てているわけではない。だが怖いのだ。母親が父親を怖がったように、俺は母親のあの『眼』が怖い。
なんでこうなった? 俺は別に悪いことなんてしていない。確かに覗きはしているが人に迷惑なんてかけていないではないか。
俺は、俺はただ……。
気付いたら俺はあまりの気持ち悪さに気を失っていた。
脱衣所で目が覚め、辺りが暗いことに気付いた。
かたい床で寝たせいか、体中が痛かった。なんとか立ち上がり、何かが視界に入る。
暗い部屋の中で光が反射し、かすかにきらりと光る無数の視線を感じた。
俺はそれを見るべきではなかった。見てはいけなかった。何も視界に入れるべきではなかった。
俺の全身には『眼』があった。
指先から爪、足の裏など体のいたるところに『眼』が存在していた。
すべての『眼』がまたたき、うごめいている。
「うっ、ううっ」
気持ちが悪かった。吐き気がした。統率感のなさや自分の意思に反して動いているのが、別の生き物を寄生させているみたいで体中をむしりたくなった。
あまりの気持ち悪さにトイレに向かい、のどまでせりあがってきたものを吐き出す。
「はぁ、はぁ」
吐いたせいで気疲れし、便器の水面を見つめて放心しているとゲロの中に白くて丸いものがいくつも浮いてくるのが見えた。
そのままじっと見ていると、浮かんできたそいつと『眼』が合う。
言葉が出なかった。考えたくなかった。俺の体からこんなものが出てきたなんて、想像すらしたくないというのに。
また吐き気がしたが、歯をくいしばってこらえる。俺の口からまたあんなものが出てくるなんて耐えられたものではない。それにあれとはもう『眼』を合わせなくなんてなかった。
もう、あんな『眼』で見られたくなんてない。
俺は部屋に戻って長袖の服を来て、手袋を付けた。かなり暑いがあれを見なくてすむのならどうってことはない。それにクーラーをつければ暑さなんて関係ない。
精神的に疲れたせいで、肉体的にも疲労が出たようだ。
布団に入り、目をつむる。
すると頭の中に映像が流れてきた。
三人の家族が楽しそうに笑っていた。小さな男の子と優しげな母親、頼りがいのある父親の幸せそうな家族。
ああ、あの男の子は俺か。なんとなく、そう確信できた。それは俺の中の失われた記憶。遠くて。色あせてしまった昔の記憶。
そういえばあんな頃もあったのか。いつから俺の家族は壊れてしまったのだろう。どうして楽しく過ごす事が出来なかったのだろう。
いきなり映像が変わった。
そこに見えたのは隣の部屋の三人家族。
夫婦喧嘩をしており、父親と母親が怒鳴り散らしている。
どうやら浮気がばれたようだ。
その部屋には重苦しい空気で満ちていた。
互いにけなしあい、罵倒し、小さな男の子が泣いている。
まるで、あの頃の俺みたいに。
やめろ! 俺が見たいのはこんなものじゃない!
この『眼』のせいで先程から嫌な映像が頭の中に流れてくる。目を開けようが、何も変わらない。
「これが見たかったんだろう」とでもいい、あざ笑うかのように映像は続く。
母親が包丁を取り出し、父親の胸に刺した。血がしたたり、水たまりのように血が広がっていく。子供は未だに泣き止まない。
頼む、やめてくれ。俺にこんなものを見せないでくれ。こんな結末は嫌だ。
俺は哀願するしかなかった。ただ、ひたすら『眼』に頼み込むしかなかった。
俺は、俺はただ……幸せになりたかっただけだ!
けれど、この『眼』に慈悲の心なんてありはしない。
映像は続く。
母親はまだ父親に向かって包丁を刺している。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。治まりのつかない怒りを全てぶつけるかのように。刺すたびに血があふれ。包丁が濡れ、母親の顔が狂気に染まり、口の端をつりあげて笑う。
「もう、やめてくれ!」
ざくっ。
腕をまくりあげ。近くにあったシャーペンで腕の『眼』を刺す。
全ての『眼』が大きく見開き、途端に血を流し始めた。
俺の全身から血が涙のように流れては集まり、滝のようになっていく。
赤い血が服に染み渡っていった。
ようやく一矢報いたと安堵したそのとき、流れ出た血から小さな『眼』がこちらを見ていた。
全身に鳥肌が立ち、トラウマがよみがえる。母親のあの『眼』が俺を壊していく。
「やめろおおおおぉ!」
刺す刺す刺す。何度も何度も。そのたびに無数の『眼』が俺を見てくる。
あまりの気持ち悪さに吐いた。そしたらまた『眼』が増えた。
映像がさらに加速する。
犯される少女、なぶり殺しにされる犬、首を吊った少年、社内でいじめられる女性。
様々な嫌なものが見えた。まるで俺がその嫌なものを引き受けているみたいに。
いや、そうじゃない。俺はただ見ているだけだ。
そう、あの時も何もせずに見ているだけだった。
そうだ、見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て、何もしなかった。
俺は見ているだけだった。
いつだって、どこだって、なんだって、見ていることしか出来なかった。
ようやく俺はこの『眼』の存在を理解できた。
これは世界の『眼』だ。
世界の哀しき『眼』。
何の因果か知らないが、そいつが俺に宿ったのだ。
けれど、そのせいで俺の精神は限界だった。壊れる寸前だった。
俺は消えそうな意識の中で思った。
あの時、俺は行動を起こすべきだったのだと。父親を殴るか母親を慰めるかの行動を起こすべきだったのだ。
そう最後に残ったのは後悔だけだった。
心のどこかで哀願した。どうか世界が幸せになりますようにと。
本当に幸せになりたかったのは自分だと思いながら。
●
「こりゃ、ひでぇ」
アパートでそう呟いたのはベテランの刑事だった。
「こりゃ、薬物乱用で死んでやがる。部屋で暴れたような形跡があるし、腕に怪我してやがる。どう考えても幻覚みてんな」
そこには泡を吹きながら倒れている男の姿があった。
隣の部屋で殺人事件があり、事情聴取でこの部屋を訪ねたらドアが開いていた。そこでこの男は発見された。
「まだ若ぇのにな」
「けど、カメラなんか仕掛けたりしてろくでもない奴みたいですよ」
新米の刑事がそういい、ベテランの刑事も同意した。
「まあなぁ」
のんきに話をしている二人は気付かなかった。いや、気付きようが無かった。
男の舌に『眼』が存在していることに。
その『眼』は泡で反射している光が眩しいかのように目を細めて嗤った。
この作品で伝えたいことは、何もせずに後悔しないこと。あのときああしていればなんてやり直すことは出来ない。
あと覗きは犯罪です。