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Story  作者: 鳩梨
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春の訪れ、その前の季節

 ――はやく、早く帰らなければ。

 降りしきる雨の中、男は馬に鞭を打ち走る。

 思うは自らの愛する唯一の娘。早くに亡くなった妻との間にできた、たった一人の愛しい娘。

 ――急がなければ。急いで帰らなければ。

 今は走る馬の遅さが憎らしい。

 解かってはいるのだ。決してこの馬は遅くない。遅いと感じるのは早く早くと、急がなければと思う男の気持ちの現れ。この豪雨の中、地面はぬかるみ、たとえ馬と言えど走るのには足場が悪すぎるだろう。それでもぬかるみに足を取られることなく、この決して短くない距離をひた走るこの馬は、とてもよくやってくれている。

 嗚呼、それでも――。



◆一月の雨の日


「お帰りなさい。お父様」

「ああ、ただいま。遅くなってしまったね」

「そんなことはないわ。この雨ですもの」

 男が家に帰り着くと娘が笑顔で出迎えてくれた。この雨の中を帰ってきた男は雨よけの外套も空しくびしょ濡れだ。娘は用意していたタオルを男に手渡す。

 よく気の利く娘に男は礼を言い、微笑む。その笑みをうけて娘も微笑を浮かべる。

 今夜の夕食はシチューだ。裕福とは言えないが、娘の作ってくれたシチューにはそれでも肉もちゃんと入った、温かく美味しい夕食。

「どうかしら?あまり上手にはできなかったのだけれど」

「ああ、美味しいよ。冷えた体が温まる」

 男の言葉に満足そうに微笑むと娘もシチューを口に運ぶ。

 カチャカチャと、食器の音だけが夕食の席で鳴る。会話はない。食事中には会話をしないのが男と娘のいつもの夕食の姿。

 食事が終わると男が食器を洗い、娘はそんな男の姿をただ、じっと見詰める。

 就寝前には必ず、男と娘はある話をする。

「ねえ、お父様」

「なんだい」

「お母様は今日何を食べたのかしら」

「私たちは今日、シチューだったからね。きっとお母さんも、シチューを食べていたさ」

「わたしね。――に行ったら、お母様にわたしの作った料理を食べてもらうの」

 娘は楽しそうに言う。

「そしてね。お母様の料理も食べさせてもらうの。そしてね。お母様と一緒にお料理を作るの。そうしたら、お父様にうんと美味しいモノを食べさせてあげる」

「それは楽しみだ」

「うふふ」

 楽しそうな談笑。

「さあ、もうお眠り。今日はもう遅い」

「ええ、おやすみなさい。お父様」

「ああ、おやすみ」

 娘が寝付くのを見ると、そっと扉を開け、部屋を出る。

 夜風が窓を叩いた。

 降り止まない雨が窓を打つ。


 

◆二月の降り止まぬ雨の日。

 

 今日も雨が降っている。

 男はいつも決まった時間に目を覚ます。窓の外を見、今日も雨が降っているな、と感想を持つ。

 ベッドから降りとき男は少し足を踏み外した。自分ももう年かな、と苦笑する。着替え、娘を心配させぬようにと笑顔で自室を出る。

「おはようございます。お父様」

「ああ、おはよう」

 食卓に朝食を用意しながら、娘は起きてきた男に微笑み声を投げる。

 娘はいつも男より早く起きる。男がもう少し遅くてもいいのだよ、と言っても娘は、いつも働いているお父様のために、と男より早く起き朝食を用意している。

 

 朝食を食べ終えると男は外套を着、馬に乗ると町へと働きに出かける。

 娘は男を見送ると食器を洗い、部屋で本を読む。

 娘はふと顔を上げると目を閉じ、物思いにふける。

 娘は、そのままゆっくりと眠りについた。



 男が家に帰ると、おかしなことに今日は娘の出迎えがなかった。

 娘に何かあったのではないだろうか。

 男はそう思うと濡れて冷えた身体をそのままに娘の部屋へと飛び込んだ。

 娘はベッドの上で寝ていた。読みかけの本がそのまま置かれていた。きっと本を読んでいる途中で寝てしまったのだろう。そう思うと一気に気が抜けた。こんなことは今までになかったが、いつも私より早く起きているのだ。こんなこともあるだろう。と、しばらく寝かしておいてやることにした。幸いにも寝息は安らかだ。

 夕食の準備が終わっても起きてこない娘をそろそろ起こしてやろうと、娘のところへと行くと何か様子がおかしいことに気付く。

 安らかだった寝息がどこか荒い。寝相の良い娘の布団が床に落ちている。長い髪はベッドの上に広がり、汗で濡れた額に張り付いている。

 娘の額に手をやるとひどい熱だった。薬ビンとコップを持ち、コップに水を入れ、急いでタオルを水で濡らし、娘の額に置く。

 娘がうっすらと目を開いた。

「……お父、様?……いけない。夕食の準備を――」

「いいから寝てなさい」

 起き上がろうとする娘をおさえベッドに横にさせる。

「ごめんなさい……お父様」

「いいから、これを飲んで寝ていなさい」

 薬ビンから薬を出しコップを渡す。

 娘は薬を飲むとゆっくりと眠りについた。

 娘が寝たのを確認すると、男は急いで外に飛び出た。薬ビンの中にはもう、薬がほとんどない。今までずっと体調がよさそうだったからてっきり良くなったと思ったのに。

 馬を駆る。医者の所までは遠い。急がなければ。明かりのない夜道。横殴りの風。往く手を遮る雨。それでも男は疾風のように馬を駆る。

 なぜすぐに気付かなかった!!尽きることの無い悔恨が、脳裏を廻り、心臓を鷲掴む。



 医者を家につれてくると娘をすぐ診てもらう。注射と、薬を処方してもらった。

 男は寝ずに娘を看病した。

 寝息が荒い。熱がひどい。

 男の脳裏に残酷な想像がよぎる。必死にそれを振り払う。


 ――ああ、神よ。どうして貴方はこうも残酷な仕打ちを平然とするのです。

   神よ。これも貴方の試練なのですか?

   ああ、神よ。娘を。私はどうなってもいい。だから、どうか――――

 


◆ようやくの晴れの日。その夜。 それは砕けた現実。救いは何処――

 

「それでね、お父様」

 明るい娘の声が聞こえる。


「――とてもキレイなお花がね」


 娘が口を開くたび白い息が漏れる。


「――小鳥達が歌うの。お父様もきっと気に入るわ」


 薄暗い部屋。虚ろな月明かりの照らすなか、楽しそうな談笑。


「――ふふ。お母様と私が作るんだもの。とても美味しいに決まってるわ」


 痩せこけた娘。薄汚い部屋。小さな咳。

 冷たい部屋。襤褸い布団。――鼻を刺す異臭。

 


 ――――娘にはもう解からないのだろう。そこにいる男の、腐敗していくだけの身体が、……何を意味するのか。その現実が………………




 

 近隣の住民がある家から強烈な腐敗臭がしたことに気付き、その家を訪れるとそこには椅子に座る腐って溶けた男の屍体があった。

 腐敗臭は家にそのものにこびれ付き、どうやっても落ちることはなかった。

 男は教会により葬られ、男の家は焼くことになった。

 男の家の後地にはそれ以来、建物が建つ事はなかった。

 それから数年して、その町は戦禍により焼け地となった。

 そこに今あるのは――――……




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