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Bitter Chemistry

作者: かしわ




なんだこりゃ


目の前には黒い液体の入ったビーカー。

それを躊躇いなく口へと運ぶ男。


まさにカルチャーショックである。

文学畑一筋の自分にとって実験器具とは得体の知れない物質を扱うためのもので、まして、その中の液体を口にするなんて言語道断。


慄き、ただただ同じく差し出された目前のビーカーと男を交互に見つめるばかりの私に、男は平然と言ってのけた。


「飲まないんですか」


飲めない、とは言えない状況に耐えかね、諦めようと心に定めたとき、ふと思い出した。

パイプ椅子の下に置いた鞄から、白い箱を取り出す。

中にはコンビニの景品でもらったキャラクターのマグ。


「これでお願いします」


気分を害するか、というのは杞憂で


「あ、はい」


あっけなく男は似合わぬキャラクターマグを手に液体を注ぐ。


「どうぞ」

「あ、どうも」


口にした液体は、ごくありふれたインスタントコーヒーの香りがした。







夏休み、人影もまばらな研究塔へ紙袋ひとつを下げて向かった。


冷えるコンクリ造りの階段を上がり、薄暗い廊下を進めばベージュのドアにたどり着く。

扉を叩く瞬間の冷たさに心地よさを感じた。

頬を押し付けたい誘惑に飲まれる前に中から声が返ってくる。


「はい」


ドアノブを回せば、白衣の男が大きなダンボールを抱えこちらを向いていた。


「よ」

「おお」


私の姿を認めるとすぐ、作業に戻る。

同じようなダンボールが幾つか、既に床の上に積み上げられていた。

室内に並ぶ空っぽになった棚を眺め、それが満たされていたときを思い出す。


「人間できるものなのね」


あれらが消え去るとは思いもしなかった。

ぎゅうぎゅうに押し込められた書類たちはジェンガのようだったし、ガラスラックの薬品たちは満員電車のサラリーマンを思い起こさせていた。

空っぽの頃も知っているはずなのに、すっかり見慣れていたのは雑然とした部屋。


「なんとかな」


ニッと笑った男は手にしていたダンボールを積み上げると、軽く手を払い、隅に立てかけていたパイプ椅子を出してくれた。


「なんかいれるわ」


言って、実験用の台へ向かう。

出てきたのは懐かしきビーカー。

私専用のマグでないことは当然予期していたはずなのに、少しばかり心が冷えた。

あのマグはきっと今頃ごみの中。

あえて聞く必要もないマグの行方には触れず、出されたビーカーを伸ばしたカーディガンの袖口でそっと持ち上げた。

躊躇いなく口にしたコーヒーは苦味だけが強く感じられた。


「これ蓋を閉めてなかったでしょ。香りが飛んでる」

「んあ?あー使いさしが出てきたんで、最後だし使いきろうと思ってさ」

「最後まで最低」

「じゃあ飲むな」


その言葉は無視して、ビーカーに口をつけた。

エアコンで冷え切った室内には丁度いい温度。


「向こうの反応はどうなの?」

「ぼちぼちだな。出戻り組みへの態度としては好いほうだと思うが」

「3年、か。顔ぶれも変わらないわね」

「ああ、おれを追い出したじじぃが当たり前に居座ってたよ」

「ふうん――」


ふわぁっと欠伸がでた。


「寝不足?まぁた論文乱発してんだろ?」

「座ると眠気がくるわぁ。今は掛け持ちで3つなんだけど……」

「あれ、そんなもん?」


意外だという風に片眉をあげる。

それに、首を横に振ってみせた。


「ううん、出版社が興味を示してくれたのがもうひとつ。ただね。一般受けねらいのものは、面白みに欠けるから書いててつまんないの」

「そんなこと言ってっから、儲からないんだよ。一般受けして本が売れれば、してやったりだろ。研究費に困らないし」

「それはね……でも、研究費捻出のためでもつまんないことは同じ。ま、そっちも似たようなもんでしょ?」


研究費に心を割くのは文系理系関係ない。むしろ、理系の方がシビアだろう。

ところが相手はにやりと笑って見せた。


「いや、こっちは特許をとって、企業に売り込めば安泰安泰。それに、おれはひとつあるしなぁ」


そうだった。

よく分からない植物から抽出したよく分からない成分が、とある病気に有効だと発見した。

とある病気にはこれまで特効薬と呼べるものがなかったため製薬業界で話題を呼び、その成果で、この度晴れて出身の有名大の教授職に招待を受けたのだ。

まぁ、つまり、よく分からんことだけど。


「産学連携、か」

「そう。向こうはさすが有名大だから、企業もすげぇのばっか。動く額がちがうね」


自分にはほぼ無縁の言葉に、重い息をつく。成果を得るまでは血を吐くほどの苦労だろうが、一度認められれば莫大な利を与えられるのだろう。

同じ立場でも異なる処遇に思いを巡らせて漏れたため息だった。

すると、自分のものでないため息が耳についた。


「でも、じじぃの排除が大変だ」

「ああ……その点は同情するわ」


理系の研究職は上下関係が中々厳しい。有名大ほど重鎮と呼ばれる教授が権力を握り、死ぬまで放さないものらしい。更に、死後は後継者がまた権力を握り――脈々としがらみが受け継がれていく。

だから、自分の研究を進めるためには、上に媚を売ることが前提にある。

ため息の主は一度その争いに敗れたくちだ。

重鎮の怒気に触れ辺鄙な地方大へ飛ばされてきた。今回、奇跡的に復帰できても、戻れば元のしがらみの中生きていかねばならないことに変わりない。


その点文系は緩やかで、各々が研究を進めていくもの。歩みはゆっくりでも、好きなものをこころゆくまで追求していられる。


一長一短、というところだろうか。


「お互い様ね」

「まったく」


お互いに苦笑する。


きっかけは、たまたま、引越しの手伝いをしただけ。

たまたま、学食でよく顔を合わせ、たまたま暇を潰す関係に発展しただけ。


お互いの連絡先も知らない。

職場が同じ、ということだけが唯一の共通点だった。それさえも、もう消える。


こっちが必死に論文を書き続けて、硫酸紙並みの成果を積み重ねているうちに、あっちはさっさと天の高みに行ってしまった。

もともと、この様な地方大にいる人物ではなかったのだけれど……

いつの間にかビーカーは空になっていた。

少しぬれた底に自分の暗い瞳が写っていた。


「これ、餞別」


目的の紙袋を差し出す。


「ありがとな……」


なぜか苦い顔をして、手を伸ばしてきた。

紙袋に触れる。

その直前に腕が下ろされる。


怪訝に思って眉根を寄せれば、今度は苦い笑みを浮かべた。


「でも、いらね」

「え」

「代わりにこれやる」


差し出された白い紙切れ。


「どうせ学会で来るだろ」


見ると、肩書きが変わった名刺であることが分かる。


「気が向いたらね」


素知らぬふりを装って、紙袋の中に落とした。

見下ろした手が少し震えていた。


「じゃあ。さようなら、惟澤助教授」

「さよなら、内田講師」


わざとらしく講師を力んだ男を睨みつけて、無言のままドアの外へ向かう。


「嫌なやつ」


名刺一枚分重くなった紙袋。

両腕に抱えて夏の終わりの空気を胸に吸い込んだ。







真新しい研究室。

たった数ヶ月で、棚は見慣れたすし詰め状態だった。


「ほら」

「アリガトウゴザイマス。惟澤、教授」

「嫌味なやつ」


悪戯っぽく笑って、愛らしいキャラクターのマグにいれられたコーヒーを受け取る。

と、そのまま大きな掌が伸び、くしゃりと髪を崩した。

視線を上げると、柔らかく細められた瞳とぶつかって。

ふたりして、声を立てて笑っていた。


似つかわしからぬキャラクターのマグが無愛想なビーカーとともに並び、ゼミ生にからかわれるネタになっていることを知ったのは、小雪のちらつくころだった。


そして


さよならではじまる恋も、あるということも




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