小銭寸借
「小銭を寸借したいんだ」
友人は悪げもなく俺に右手を差し出した。
「寸借寸借って、いつも何だよ?」
俺は大学の休憩時間に、自販機の前で友人につかまった。俺はジュースを買おうとして財布を出したところだった。
「寸借ってのはあれさ。一寸借りるって意味だよ。知ってるだろ?」
「知ってるよ。けど、一寸借りるって言って、ろくに返したことがないじゃないか?」
俺は友人の目を見て言ってやった。抗議の視線だ。
だが友人はまるで怯まない。悪びれることもない。にこやかな笑顔も崩さない。
「お金は持ってるだろ? 何でいちいち人に借りようとするんだよ?」
「確かに、お金はあるさ。だけど大きな札しかなくってね。一寸借りたいんだよ」
「前もそう言って貸したきりだけど?」
「もちろん覚えているさ」
「一度や二度じゃないんだけど?」
「こういうのは持ちつ持たれつだよね?」
「貸すのはいつも俺ばかりだけど?」
「持つべき者は友だよ」
「たく。で、いつ返してくれるんだよ?」
「小銭がある時でいいだろ? ほら。返すお金がない訳じゃないんだし」
友人はそう言うと、高額紙幣が一枚入った財布の中身を俺に見せた。
薄い財布だ。確かに小銭が入っていそうにない。その高いお札だけが、安物のサンドイッチのハムよろしく友人の財布の中に挟まっていた。
「ジュースを飲むのに、これを崩すのは嫌なんだ。分かるだろ?」
「気持ちは分かるけどよ……」
紙幣一枚とはいえ、自分の財布の全額より高額のお札が入っているその財布。何故自分より金持ちの人間にお金を貸さないといけないのか? 俺は一寸釈然としない。
「小銭使うとあっという間になくなるじゃないか? 頼むよ」
「しょうがないな」
元より友人の頼み。俺は二つ返事で小銭を貸した。
「小銭を寸借したいんだ」
「またかよ」
友人は相変わらず俺に小銭をたかる。
いくら借りてるか分かってんのかと一度訊いてやったが、もちろんと自信満々にその金額を答えた。
それは下一桁まで正確だった。
「返す気あるんだよな?」
俺はやはり自販機の前でいぶかしげに訊いてやる。
「あるさ。もちろんだよ。返すお金もあるし」
友人はまたもやにこやかに財布の中身を俺に見せる。そこには以前と同じく高額紙幣が一枚入っていた。おそらく数日前に見た紙幣と全く同じものだろう。使わない為に未だに崩していないのだ。
「どうしても返さないといけない時は、こいつを崩すからさ」
元より友人の頼み。できれば損ねたくない雰囲気。何より実際は持っているお金。
返してもらえないことはないだろう。
「たく。ちゃんと返せよ」
甘いかなとは思いつつ、今日も俺は友人に小銭を貸してやった。
「小銭を寸借したいんだ」
友人が自販機の前で右手を差し出した。いつもの右手だ。
相変わらず俺に小銭を借りる。いつもの友人の右手だ。
高額紙幣しかないから友人に小銭を一寸借りる。それこそいつもの手だ。
「何だよ。いつもいつも」
「別に、毎日って訳でもないし。小銭の持ち合わせがない日だけだよ。借りるのは」
確かに毎日ではない。むしろ謀ったように、忘れた頃に借りようとする。
それでいて貸した金額を訊けば、律儀に下一桁まで答える。返す気があるとそのことで示しているのだろう。
だがやはり高額紙幣しかないことを理由に友人は小銭を寸借し、これまたやはりそれを言い訳に借金の返済を逃れていた。
小銭ばかり貸しているとはいえ、それなりの額になっている。
強引な取り立ては友人との関係を壊しかねない。
俺はどうしたものかと、その手を眺めた。
「返すお金はあるんだよ」
友人はやはりにこやかに財布の中身を見せる。相変わらず高額紙幣が一枚そこには入っていた。
「いくら貸してたかな?」
俺の質問に友人は下一桁まで正確に答えた。もはやそれが正しい金額かどうか、実を言うと俺にはもう分からない。あまりに頻繁に小銭を貸していたからだ。
「貸してやるよ」
だがもはや小銭とは言いがたいその金額に、俺は不意にあることを思いつく。
「ほら」
「えっ? 小銭を一寸借りたいだけなんだけど?」
俺の差し出した金額に友人が一瞬目を丸くした。
「いいんだよ。まとめて貸してやるよ。いちいち面倒だろ?」
「えっ?」
「それに――」
俺は友人が未だ見せていた財布の中に手を突っ込み、
「丁度これで貸し借りなしだから」
いつも見せられていた高額紙幣を引っこ抜いてやった。