EP 1
トイレット・ダイブ・トゥ・異世界
日本の地方都市、駅前にある激安カラオケボックス『歌広場ジャンジャン』。
その薄暗い一室で、一人の男がマラカスを片手に絶叫していた。
男の名は、高宮 優也。24歳。
商業高校で簿記1級を取得し、建築系大学を経てブラックな設計事務所へ就職。青春の全てを製図版と法規チェックに捧げた男が今日、ついに超難関国家資格『一級建築士』に合格したのである。
「祝ってくれる彼女はいねぇ! 友達はみんな残業中! だから俺は歌うんだよぉぉぉ!」
優也はデンモクに入れた名曲の替え歌を、こみ上げる尿意と共に熱唱した。
「♪盗んだローションで滑り出す〜 行き先も分からぬまま〜」
こぶしが回る。ビブラートが効く。
「♪暗い歌舞伎町に〜 縄で縛られたくないと〜 交番でぇ〜♪」
演奏終了の表示と共に、優也はマイクを放り出した。
「う……しょんべんしてぇ……」
合格の安堵からか、あるいはドリンクバーの烏龍茶を飲みすぎたか。膀胱が限界を訴えていた。
優也はふらつく足取りで個室を出て、廊下の奥にあるトイレへと向かう。
「ふぅ、一級建築士か……これでやっと、俺の人生も設計できるってもんだ……」
安っぽいプラスチックのドアノブを回す。
見慣れた「TOILET」のプレート。
優也は何の疑いもなく、その扉を開け放った。
「…………は?」
そこは、タイル張りの便所ではなかった。
鼻腔をくすぐるのは、芳香剤のラベンダー臭ではなく、濃厚な土と草の匂い。
天井にあるはずの蛍光灯はなく、どこまでも高く広がる蒼穹。
そして、目の前に広がるのは、見渡す限りの――大森林だった。
「何だこれ……」
優也は呆然と立ち尽くす。
背後を振り返る。そこには何もない。カラオケボックスの廊下も、ドアさえもない。
ただ、草原の中にポツンと一人、カーディガン姿の自分が立っているだけだった。
「ドッキリ……じゃないよな。あいつら(同僚)にそんな金も暇もないし」
状況を整理しようとした、その時だった。
『グルルルルゥゥゥ……』
腹の底に響くような唸り声。
優也は建築士の職業病で、無意識に音源との距離と質量を計算していた。
(低周波……推定重量300キロ以上……距離、右斜め後方15メートル!)
バッ、と振り返る。
そこにいたのは、熊だった。
ただし、動物園にいる可愛いものではない。体高は3メートルを超え、全身が返り血を浴びたように赤黒く、背中から鋭利な骨が突き出した化け物――『魔獣・レッドグリズリー』だ。
「ヒッ……!?」
尿意など瞬時に消え失せた。
代わりに、死の予感が脳内を支配する。
(無理だ。勝てない。俺が持ってるのは一級建築士の免許証と、財布と、さっきのカラオケのレシートだけだぞ!?)
レッドグリズリーが、巨大な爪を振り上げる。
風切り音が聞こえるほどの速度。
優也は死を覚悟し、ポケットに入っていたスマートフォンを握りしめた。せめて、最後に遺言くらい残せれば――。
《ピロリーン♪》
その時、スマホが軽快な電子音を鳴らした。
画面が勝手に発光し、見慣れないアイコンが浮かび上がる。
【ユニークスキル:スマートフォン が起動しました】
【現在地:マンルシア大陸・未開の森】
【初回ログインボーナス! 金貨1枚が付与されました】
「は……? スキル? 金貨?」
画面には、禍々しいデザインのアプリが並んでいる。
『超人要請』『魔法代行』『お友達』『恋人代行』……。
魔獣が地面を蹴った。
目前に迫る死。優也の指が、生存本能に従って一番上のアプリ――**『超人要請』**をタップする。
《ポチッ》
【注文承りました。お急ぎ便で配送します】
瞬間。
空が裂けた。
ズドオオオオオオオオオオオン!!!!
「うわあああっ!?」
優也の目の前、魔獣との間に、隕石のごとき何かが墜落した。
強烈な爆風が木々をなぎ倒し、土煙が舞い上がる。
その爆心地から、テカテカにオイルを塗った筋肉の巨塔が、マントを翻して立ち上がった。
覆面プロレスラーだ。どう見ても、プロレスラーだった。
「ぬんっ! 宇宙から飛んで来て、無駄にデカイ爆破し登場!! 我が名はァァァ……ガイマァァァックス!!」
「えぇ……」
優也がドン引きする間もなく、ガイマックスは右手を天に掲げた。
「リング・イン!」
カァン!
どこからともなくゴングが鳴り響く。
優也と魔獣、そしてガイマックスを囲むように、半径20メートルの空間に突如としてプロレスリングのロープが出現した。
「グルァッ!?」
突然の事態に困惑するレッドグリズリー。
しかし、ガイマックスは待たない。
「おいコラ熊公! この筋肉に傷をつけてみやがれ!」
魔獣が爪を振るう。
だが、その鋭利な爪は、テカテカのオイルによって「ヌルリ」と物理法則を無視して滑った。
「なっ!?」
「隙ありィ! 筋肉は重力とお友達! ギャラクシー・ジャーマン・スープレックス・ホールドッ!!」
ガイマックスが魔獣の背後に回り込み、300キロの巨体を軽々と持ち上げる。
美しいブリッジ。
脳天から垂直落下する魔獣。
ズガァァァン!!
「ワン、ツー、スリー! カンカンカンカン!」(※幻聴)
魔獣は白目を剥いてピクリとも動かなくなった。
わずか数秒の出来事だった。
「ふぅ……。いい汗かいたぜ」
ガイマックスは立ち上がり、マントを整えると、優也の方を向いてサムズアップした。
「あ、これ請求書な。初回無料だけど、次は金貨1枚だから。延長したらボッタクるから気をつけてな」
「あ、はい……ありがとう、ございます?」
「おっと、いけねぇ! 帰らねぇと!」
ガイマックスは慌てた様子で、虚空から**「キコキコ」**と音のする三輪車を取り出した。
「カップラーメンにお湯入れたまま来ちまったんだよ! 麺が伸びちまう! じゃっ!」
「えっ、あ、ちょっ……」
「さらばだ市民!」
キコキコキコキコキコ……!!
筋肉の巨人は、三輪車を猛烈なスピードで漕ぎ、地平線の彼方へと走り去っていった。
空は飛べないらしい。
あとに残されたのは、伸びた魔獣と、静まり返った森。
そして、スマホを握りしめたまま呆然とする、一級建築士(無職)の優也だけであった。
「……とりあえず」
優也は震える指で、もう一度スマホを操作した。
アプリ一覧にある『お友達』のアイコンを見る。
「情報が要る。……これ、繋がるのか?」
《プルルルル……ガチャ》
『はいはーい、ユアだよー。いきなり電話とかウケるんですけど。相談? お金持ってる?』
スマホの向こうから聞こえる、気だるげな女子高生の声。
優也は深く、深く息を吐き出し、そして言った。
「金なら払う。……ここがどこなのか、教えてくれ」
これが、後に「異世界最強の建築王」と呼ばれる男の、あまりに騒がしい第一歩であった。




