空母
朝、目覚めると空がそこにあった。窓の外、灰色がかった雲が低く垂れ込め、どこまでも広がっている。布団の中で、私は息を吐き、その白い霧が一瞬だけ目の前で揺れるのを見た。部屋の中は冷えていて、指先がわずかに震えた。
昨日、母が死んだ。病院のベッドで、機械の音が途切れるように静かになり、彼女の顔はまるで眠っているようだった。でも、私は知っていた。眠りとは違う。あれは空っぽだった。目を開けることも、笑うことも、もうない。
家に戻ると、台所に母の使っていた湯呑みがまだ置いてあった。緑茶の染みが内側に薄く残り、まるで彼女が今朝までそこにいたかのように思えた。私はそれに触れなかった。触れたら、何かが崩れてしまいそうで。
外に出ると、空はさらに重くなっていた。風が頬を撫で、冷たくて湿っていて、どこか遠くの海の匂いがした。私は歩いた。駅までの道、コンビニの前を通り過ぎ、誰もいない公園のべンチに腰を下ろした。目の前には、錆びたブランコが風に揺れていた。軋む音が、時折、空気を裂いた。
母はよく空の話をした。「空はね、全部見ててくれるんだよ」と。子供の頃はそれを信じて、雲の形に動物や船を見つけては喜んだ。でも今は違う。空はただそこにあるだけだ。何も見てない。
何も言わない。ただ、広がっている。
ポケットから携帯を取り出すと、画面に通知がいくつか点滅していた。叔母からの着信、友達からのメッセージ。でも、私はそれを開かなかった。言葉が重すぎて、今はまだ受け止められない。代わりに、空を見上げた。雲の隙間から一瞬だけ光が漏れ、すぐに消えた。
どれくらい時間が経ったのかわからない。べンチに座ったまま、私は母のことを考えていた。彼女の笑顔、彼女の手の温もり、そして最後に見たあの静かな顔。どれもが遠くに感じられて、でもどこか近くにあって、胸の中で混ざり合って渦を巻いていた。
やがて、雨が降り始めた。小さな粒が頬に当たり、冷たくて、でもなぜか優しかった。私は立ち上がり、傘も差さずに歩き出した。空が泣いているのか、私が泣いているのか、わからなかった。ただ、濡れた服が体に張り付きながら、家までの道をたどった。
部屋に戻ると、湯呑みがまだそこにあった。私はそっとそれに手を伸ばし、指先で縁をなぞった。冷たくて、硬くて、でもどこか温かかった。
空っぽだった母の顔が、頭の中に浮かんだ。私は目を閉じて、静かに息を吸った。
外では、空が雨を降らし続けていた。