3,百姓の持ちたる国
織田信長の代官である桂田に対する不満から朝倉氏の家臣たちと一向一揆の百姓たちが手を組んで、いよいよ2度目の越前一向一揆の戦いが始まる。命がけの戦いに村を代表して出征した栄吉と与蔵はどんな戦いをするのか。生きて帰れるのか。
翌天正2年(1574年)1月、いよいよ一乗谷の桂田様を攻めるために各村の百姓たちに北の庄に集まるように伝令が来た。鳴鹿村でも出陣する10人の若者が秘密のうちに集まり、北の庄に向かった。手にはそれぞれの家の鎌や鍬、それに70年前の一揆で用意したり戦場に落ちていた刀や槍などを隠していたものを持っていた。足元は粗末なわらじですねには具足のようなものを巻いている。どこかの戦場で死んだ武士が身に着けていたものを盗んできたのだろう。胴体には矢が飛んできたら跳ね返すことは出来そうもない布地を巻き付けた腹巻のようなものを着ている。百姓の足軽としてはこの程度のものが普通だったのだろう。出来る範囲のことは準備して戦さに臨んでいた。ともかく10人は北の庄の集合場所にいくつかの村の若者たちと合流して向かった。
北の庄に着くころにはぞろぞろと100人以上の団体になっていた。だれも戦さなど経験した者はいない。だれの指示に従えばいいのかもわからない。無言のまま地獄に向けての行進を続けていた。北の庄の足羽河原には1万人ちかく同じような百姓と思われるにわか仕立ての足軽たちが集合していた。栄吉や与蔵たちもその末席に加わったが、その数はさらに増え続けている。受付をする場所があり列に並んで順番を待っていると、うしろの若者が
「お前たち、どこから来たんだ。」
と声をかけてきた。
「吉田郡の鳴鹿村だ。」
と答えると
「田舎もんか。武器はあるのか。」
と蔑んだ言い方をするので
「鳴鹿は昔、永正の一向一揆で合戦があったところだ。村にはその時の刀や槍が置いてあったんだ。」
と与蔵が誇らしげに答えた。
「そんな昔の刀なんかサビてて使いもんになんねえさ。せいぜいがんばれよ。」と鼻で笑った。腹が立ったが喧嘩しても仕方ないので我慢していると順番が来た。
「吉田郡の鳴鹿村から10人来ました。」
と伝えると係の人が
「遠くから来てくれてありがとう。一向衆の力を見せつけてください。」
と励ましてくれた。
夕方になったころ堤防の上に陣取ったお坊さんが河原に集まった2万人近い百姓に何か言い始めた。しかし人数が多すぎて何を言っているのかさっぱりわからない。わからないから
「あの人、何って言ってるんだ。」
とお互いに聞きあうからざわざわして余計に聞き取れない。きっと一向衆のために死ぬ気で頑張れと言っているのだろう。しばらくすると前の方で聞き取れた人が後ろの人に伝えてきた情報で
『明日の朝、総攻撃をかける。決して下がるな。』
と伝言が伝わって来た。与蔵は
「明日なんだな。今晩はこの河原で寝るのかな。」
と心配になって話しかけてきた。栄吉は
「でもあっちの方で飯炊きを始めたからきっとメシは食わせてもらえそうだぞ。」
と答えた。鳴鹿から来た10人はまとまって行動した。飯炊きの場所も何十か所も設けられたが、その中の一つに近づいて握り飯とたくわんをもらって河原の草むらにしゃがみこんで食べ始めた。与蔵は
「この握り飯が最後の飯になるかもしれねえな。」
と気弱なことを言い始めた。
「確かにそうだな。恐ろしいところに来ちまったかもしれないな。俺たちは百姓なんだから戦さなんか、やりたくねえよ。誰が守護でも構わねえ。年貢さえ払えば気軽なはずだよな。死にたくはねえよ。」
と栄吉もしみじみと語った。
翌日の朝、一斉攻撃が始まった。北の庄から一乗谷まではさほど遠くはなかった。幸い桂田様の抵抗はほとんどなく、一日で呆気なく一揆は終わった。後で知ったのだが桂田様の大将の桂田長俊様が病気で戦さに出陣できず、桂田勢は総崩れだったそうだ。栄吉と与蔵の初陣は見事な勝利を飾った。しかし、2人の仕事は握り飯を食ったことぐらいだった。
しかしその後、情勢は大きく変わった。味方であった富田氏は越前での地位を確立するため周りの豪族たちを次々と裏切り、打ち果たしていった。さらに織田信長に忠誠を誓い人質を岐阜に差し出して越前守護の地位を約束させようとした。そのことが一向宗徒の怒りを招き、一向衆は富田氏との決別を決定した。栄吉たちには関係のない話でどうしてそうなったのか知らない間に次の相手が変わってしまった。
また戦さがあると言うので翌月2月再び各村に兵を出すお触れが来た。前回は戦うことなく勝ったのでまた勝てるだろうと鳴鹿の村からは20人が集まった。前回同様に北の庄に集まり握り飯を食べて朝を待った。
今回の戦いは本願寺派は越前の一向衆と加賀からの援軍の一向衆会わせて5万人、対する富田氏の軍勢には本願寺派と対立する真宗高田派や真宗三門徒派が加わって予断を許さない状況であった。ただ数では本願寺派が富田氏側を圧倒していた。
2月17日の早朝、戦いは始まった。北の庄から北陸道を南に下り、府中方面から北へ上って来た富田勢と北陸道の浅水で相まみえることになった。栄吉たちは浅水川の草むらで息をひそめて号令を待っていた。相手の中には切れ味鋭い刀や槍を持った武士もいるが、自分たちと同じような百姓の足軽たちも多い。
「絶対、生きて帰ろうな。」
栄吉は隣で顔面蒼白になって息をひそめた与蔵に声をかけた。
「ああ、絶対死なねえぞ。おれは昔から亀屋の千代のことが好きでいつか夫婦になるって決めてるんだ。おめえだって高砂屋のおひなのことが好きなんだろ。もう、一回ぐらいやったのか。」
「まだだよ。はやくやりてえけどなかなかやらしてくれねえんだ。やるまでは死ぬわけにはいかねえだろ。」
仏の名に懸けて命がけの戦いをする前に不届きな話だが、若い2人には切実な問題だった。
大きな音でほら貝が鳴り、司令官が合図をして突撃が始まった。勢いよく走りだす仲間たちがいたが、栄吉も与蔵も出来るだけ前に出ないように後ろからついて行った。戦場で自分の身を守る大切な方法を自然と身に着けていた。何人もの首をあげて戦功をあげる手柄は武士に任せておけばよいのだ。百姓はとにかく生きて帰ることに徹したほうが勝ちだ。
相手の足軽たちも同じ考えなので結局は足軽たちは少しずつ前進して陣地を確保することに徹し、実際に戦うのは武士が先頭に出ていった。圧倒的に数で上回る本願寺勢はいくつかの戦いを経て富田勢を数日で打ち破ることに成功した。この一連の戦いで越前の国は織田信長の領地から解放され、百姓の持ちたる国として独立することになった。信長の勢力がすぐに領地を奪い返しに来なかったのは、当時、甲斐の武田、長嶋の一向一揆、摂津の本願寺との戦いが激しく、家臣たちがすべて出払っていて信長も手が回らなかったのが真相だった。
栄吉と与蔵たちは意気揚々と鳴鹿の村に帰って来た。与蔵は亀屋の千代に、栄吉は秋田屋のおひなにすぐに会いに行った。2人とも死を覚悟した時に早く彼女たちと夫婦の契りを結びたいと願ったが、戦さが終わるとすぐには言い出せなかった。
戦いを終えた栄吉と与蔵、それぞれ生きて帰ってこれたので思いを寄せる娘と結ばれるのか。