19 地球からのメッセージ
どこか遠いはるかな高みへ吸い寄せられるような感覚があって浮遊感にふたたび浸っている。居心地がよくてふわふわ漂うに任せて体を遊ばせる。これは三上君を追って落っこちた空間だろうか。そうだとしたら戻ったことになる。目を凝らしても真っ暗闇なのでなにも見えない。耳を澄ますと遠くで唸るような音がしている。機械の音かもしれない。手足をジタバタしてみてもなにも触れない。足も着かない。取っかかりがないのは不安だ。漂っているだけなのはわかるが、底なしの墜落感を排除できない。恐ろしい奈落の底へまっしぐらなのではないか。
「大丈夫だよ」
ぼくの気持ちを察したような言葉が聞こえてきた。三上君の声だ。
「みんなここにいるんだ。眠っている。小牧、きみも眠るといい」
「三上くんか! 香山さんは無事か。どこにいる?」
「香山さんもいるよ。もう眠ってる。心配はいらない」
その声には信頼に足る健全さが満ちていた。ぼくはほっとした。
ずいぶんと疲れていたのもあって素直に三上君の言葉に従うことにした。三上君はぼくの肩をポンとたたいて遠ざかっていったようだった。目を閉じても暗闇なのは変わりなかった。遠くで唸る音だけが感覚器官を満たしていた。うとうとしかかったとき、また声が聞こえた。こんどは三上君ではなかった。
「小牧! 無事か。無事に逃れたんだな」
菊池君だった。
「菊池くん! きみこそ無事なんだな」
「おれは変わらず調査中さ、地球で」
「なんだって!」
ぼくは絶句した。菊池君がまだ地球にいるとすれば声が届くはずがないからだ。
「ははは。ここだよ」
肩に触れるものがあった。目を凝らすと真っ暗ななかにさらに黒く影が潜んでいた。
「菊池くんか?」
「そうだよ。おれだよ」
「地球で調査中ならここにはいないはずだ。ここは。えーと、宇宙船だっけ」
「そうさ。移動中の校舎型宇宙船さ。移動といっても考えも及ばないシステムで空間を制御している」
「地球から離れてるんだろ。ならきみはここにはいないはずだが」
「これは僕の実体さ。地球ではぼくの虚体が活動しているんだ」
「え。へーえ、そうなんだ」
「きみも香山さんも虚体のほうを亡くしたんだ。気の毒に」
「あれは一体どういうことなんだろう。スタジオの中に戦車って」
「相互嵌入だ。よその戦場から迷い込んだんだろう。時空が大混乱だからな」
「ぼくたちが狙われる謂われはないぞ。迷い込んだだけなのに」
「向こうからしたら戦場の怪しい人物だったのさ」
「戦場? スタジオだぜ」
「空間も時間も移動変遷を凄まじい早さで展開しているんだ。常態とはちがう」
「場が目まぐるしく替わるとしてもあれはひどいよ」
「運が悪かったとでも思うことだ」
「それより菊池くん、きみはいったいどういう仕掛けで喋っているんだ」
「簡単なことさ。虚体の本元は実体で互いに繋がっているんだ。いまのおれは実体を利用して虚体からコミュニケートしてるのさ」
てことはぼくがいま話しているのは実体の菊池君だ。しかし話の内容は虚体の菊池君からの地球報告なのか。なんかややこしいな。
「聞いてくれ。聞いて脳裏に焼き付けといてほしい。いまの状態では文字や音声データが残せないからね」
「うん、わかった。でも菊池くんの実体のほうで記憶できるんじゃないの」
「あ。そうか。しかし話すためには聞いてもらわないと」
「うん。聞いてるよ」
で、ぼくたちは会話を始めた。会話といっても菊池君が一方的に話してぼくが時々相づちを打つって状態なんだけどね。どういう仕掛けかもよくわからないし聞いてもわかんないし、まあ、真っ暗闇の中での気晴らしのつもりだった。
「おれはいまラボのなかにいる。持ち帰った試料を分析しているところだ。メールで報告したとおり採取した物質は無機物や有機物といった分類ができない状態で安定している。さらに分析してみると地球では未知の素粒子が検出された。地球上で未発見のまま存在していたとは考えにくい。どの物質も安定性がなく、せいぜい数日しか物質として存在できないからだ。消えてしまうのさ物質が。素粒子は定性が保てなくてくるくる性質を変え、光のようになったり重力そのものになったり、やはり消滅してしまう。消滅するとき負の引力を発生させるものがあって危険なんだ」
「負の引力? ブラックホールってことかな」
「そう。極小のレベルだからまだいいけど。これが連鎖して極大になると」
「どうなるんだ」
「ラボが飲み込まれてさらに負のエネルギーが取り込まれてどんどん力が大きくなって」
「まさか地球が」
「地球、月、金星、水星、火星、小惑星帯とつづいて太陽もだな」
「まさか。太陽が」
「否定できない。いまの段階ではな」
「じゃ、ぼくたちも」
「いや。おれたちの宇宙船はとっくに太陽系を出てるから」
「そうか。しかし、地球はどうなるんだ」
「太陽系全体が銀河中心に向かっているから、力の場がどうなるかしだいだね」
「負のエネルギーが増していくとしたら」
「消滅することになるのさ、太陽系全体が」
「局所のブラックホールにそんなことができるのか」
「わからない。銀河中心のブラックホールとの関連もあるからね。あ」
「どうした菊池くん」
「あれは」
しばらく沈黙がつづいた。暗闇のなかで菊池君がその場を離れる気配はなかったが、やがて、ばたばたして怒号が飛び交う声が聞こえてきた。マイクを仕掛けたんだろう。菊池君の声もそこに紛れていた。
『緊急の案件だ。急いで解析に参加してくれ』
『死体ですか』
『ただの死体じゃない。れいの彼らだ』
『というと』
『異星人だよ。ほら、テレビに出てた』
ここで音声が途絶えた。マイクどころじゃなかったのだろう。ずっと聞き耳を立てていたけど、そのまま気が遠くなって眠ってしまった。どのくらい経っただろうか、呼ぶ声に目が覚めた。
「小牧。おい、小牧ったら」
菊池君に揺さぶられて眼をあけたが、もちろん真っ暗闇で見えるものはなにもない。菊池君の気配があるばかりである。その背後には広大な空間が感じられた。移動体が小学校のあのロボット校舎だとしても大きいもんね。ゆったりとした広さを感じたことでぼくは少しほっとする。
「菊池くんか。すまん。寝ちゃってたんだ」
「眠ったほうがいい。用があれば起こすからさ。いま運ばれてきた死体なんだけど、きみと香山さんのだった」
「え」
ぼくは絶句する。菊池君がべらべらと喋っているが、あの撃たれたときの感触がよみがえって苦痛と絶望感に襲われる。撃たれたのは虚体だと言われても感覚は一体性を保っている。虚無感に耐えきれなくてぼくは呻いた。
「う。うわぁ」
菊池君にもぼくの恐怖は伝わった。
「すまん。きみらは殺されたんだったな」
「いいんだ。ただ、記憶が鮮明によみがえって」
「わかるよ。遺体の状態から即死は明らかだから一瞬の場面がそれだけ強く焼き付いてるのさ」
「うん。うう」
「ごめん、また要らんことを。事実だけを手短に伝えるよ」
ぼくと香山さんの遺体はビニール袋に入れられていたそうだ。血液を抜き取る作業から始まり、皮膚や毛髪、筋肉や脂肪、神経や骨のサンプルが各班に振り分けられた。それぞれの専門領域で解析するためだ。内臓はまず解剖斑が外形や機能について分析し、次いでサンプル化されて同じように各班に振り分けられた。どの班も外国から派遣された研究者がイニシアティブを取っていた。
得られた結論は求めようとしていた仮説に沿って出された。つまり異星から侵入した者の正体を探ろうとしたんだ。その結果、血液や皮膚の組成、遺伝子に地球人との違いは認められなかった。
「そうか。地球人とぼくたちは同じってことなんだな」
「いやまあ。ほんと言うと、みんな、化けの皮を剥がそうとしたのさ」
「え?」
「火星人の典型的なイカタコタイプとかプレデターみたいのとか」
「つまり、ぼくらが本当の姿を隠して地球人に化けていると思ってたのか」
「みな、そうに違いないと考えてた。だから躍起になって変異点ばかりを探したのさ」
「菊池くん、きみもそう思ったのか」
「そんなこと考えるわけないじゃないか。おれはきみらと同じなんだから」
「じゃ、きみも違いを見つけられなかったんだ」
「いや。見つけたんだよ、これが」
「へー」
「おれのアプローチは彼ら地球人とは自ずと異なっていた。違いを見つけようとするんじゃなくて同じところをどんどん見つけていくようにしたんだ。そうすると違いが出てくる臨界点があってさ」
「臨界点?」
「そう。もう同じでいられなくなる極限のことさ。そこから違いが始まっている」
「どういう違いが見つかったのさ?」
「いや、それがさ」
「うん」
「よく分からないんだ。たしかに違うんだけど、その違いがよくわからない」
「?」
「不分明なんだ。どう違うのか。違うのは違うんだけど。認識できないのさ」
「わからないな」
「おれにもわからん。違うと断言できるのは一致しないからなんだけど、その不一致というのは、いわば書体の違いみたいなもので、同じ漢字でもゴシック体と明朝体では違うだろ」
「うん」
「でも『犬』と『太』は違う漢字で異なる意味だけど、同じ意味の『犬』で書体が違うだけなら本質、つまり意味は変わらない」
「そうだね。『犬』は『犬』で変わりない」
「そこがね。意味に視点を置くか、外形に視点を置くかで異なってくるのさ。意味は同じでも外形に焦点を当てればまったく別のものとして認識される」
「それって屁理屈じゃないの」
「観方のズレだよ。ズラすことで見えてくることがあるんだ。そして、そのズレが意味を持つこともあるのさ」
「ふうん」
「素粒子ってさ、十七種類が見つかっているけど」
「素粒子?」
「うん、素粒子。もう分解できない物質の最小単位だけど、ほかにもあるんじゃないかな」
「他の素粒子、素粒子よりもっと小さい単位とか」
「あとダークマターね。不可視の物質で存在も実証されていない」
「それが、その素粒子が異なっているのか。つまり、ぼくや香山さんの体の構成物質の最小単位が地球人のそれとは異なると」
「わからない。けど、可能性は否定できない。まったく同一じゃないから」
たとえばニュートリノは重さがとても小さくて安定しないんだけど他の惑星では安定する場合もある。レムの『ソラリス』の世界だ。しかしそれはSF小説の世界での話で、現実世界ではどうなのか。イマジネーションの世界が現実にも起こりうるのだろうか。
「人がすでに考えた以上のことが当たり前に起こるのが現実世界だ。そうでなきゃ生きてる甲斐なんてないだろ」
『おーい菊池! なにやってるんだ。次のサンプルが待ってるぞ』
どういう仕掛けか菊池君の聴覚が得た情報がぼくにも伝わってくる。
「いま行きまーす! 小牧、また後で」
そう言い残すや菊池君のこっちの実体というか本体はまた沈黙した。ぼくは菊池君の言ったことを記憶にとどめ、同時にぼくなりの解釈を試みた。真っ暗闇で眠るほかすることはなにもない。眠くなるまであれこれと考えてみた。
どうしてここはこんなに真っ暗闇なんだろう。うすぼんやりとでもどこかに光源があれば、あのTV局のスタジオみたいにおぼろげながらなにか見えるのに、ここは目をあけても閉じても変わりない世界だ。菊池君の実体は近くにいるはずだが手を伸ばしても触れない。すこし距離をとっているのだろう。探って動くとどこか変なところに浮遊して行ってしまいそうでぼくはじっとしていた。気配さえ感じられれば落ち着く。これが菊池君じゃなくて香山さんならもっといいんだけど、仕方ないね。
さて、ぼくは考えてみた。まずは事象の時系列を整理しよう。頭のなかで時系列を箇条書きにしてみた。
○おすもうさんがグラウンドに現れた
○以下、落語のおじさんや猫
○漱石さんや鴎外さん、有名人が現れた
○アマゾンなど辺境の子どもたちも現れた
○エッフェル塔など有名建築物がミニチュアで現れた(同時に現地で実物が突如消えた)
○いきなり大人の姿になったり若返ったりした
○校舎ロケットが発射される
○三上君を追っていったら真っ暗闇のへんな空間に落ちる、ふわふわ浮遊
○ぼくは架空社とかで香山さんはTV局のキャスターになってた
○菊池君と会う。菊池君は科学者になって異変を調査中
○散り散りバラバラになってたクラスメイトが地下鉄で揃い、TV局へ
○みんな揃ったところで三上君があらわれ戻るよううながす。実体虚体論
○香山さんとエレベータに乗り、降りたスタジオ空間で戦車に襲われる
○ぼくと香山さんの虚体が撃たれて死んだ
○再び真っ暗闇の亜空間に漂う。三上君、菊池君と再会
○菊池君の虚体が地球上で活動中。その報告をぼくは受けている
こんなところかな。これは地球上でつい最近に起きたことにすぎなくて、すべては菊池君の提案が始まりだったと三上君が言った。それは一体どういう意味なのか。
ぼくたちは別の星から地球にやって来た。それは確からしい。ぼく自身が地球で殺されてしまったのに、こうして生きているのがなによりの証だ。殺されたのは地球上での虚体で、いまのこのぼくは実体らしいが、このへんの区分けがよくわからない。
三上君は何なんだ。児童のうちで彼だけが真相を知っていて、みんなを導く役目を負っているらしい。だからこそ『目印』になるように彼だけが子どもの姿のままなのだ。そして、異変の現場には必ず彼がいた。磁場の中心、おかしな力がはたらく場を取り仕切る役目も果たしていたのかもしれない。
うーん。整理して考えてもなにもわからないな。菊池君が言ってたぼくと香山さんの虚体の構成粒子が地球のものとは異なるとしたら、それはぼくたちが地球人ではないという証明にはなる。異星人という実感はまるでないけど。
地球由来の粒子ではないということは安定性に問題があるかもしれない。ほら、ニュートリノって地球上では安定を欠くので結合が困難だって聞いたことがある。逆にニュートリノが安定する星もあってそこでは物体の構成粒子にもなる。星系ごとになにが異なるのかよくわからないけど、粒子にはたらく力は恒星との関連や銀河レベルでの位置によって異なってくるのは予想できる。磁場に変化が生じて電荷も影響を受けるからだ。電子の役割も見逃せない。
ということはぼくたちは地球上では安定を欠く存在だったのかもしれない。数十年は耐えるがそれ以上は分からないってことかな。逆に地球由来のものはぼくたちの星では安定を欠くかもしれない。素粒子レベルでの結合力が地球上とは異なる力にさらされるからだ。
地球由来の物質がぼくたちの星に運ばれてきたらどうなるか。構成粒子の安定を欠くとしたら、存在の持続に関係してくるだろう。存続できる期間は数日か数年か、あるいは、ぼくたちの星の力場におよぶや消滅することもありうる。
地球の建造物や過去の有名人がこの宇宙船に同乗しているらしいが、到着後にどうなるのかわからない。
あ、楊さんとかセルゲイたちのことを忘れていた。彼らエージェントは途中からいきなり転入してきたんだった。じゃ地球人なんだろう。時空の混乱はぼくたちによってなされたとして、その効力は地球人にも及んだってことだ。だから楊さんもセルゲイも成人化したんだ。
待てよ。楊さんやセルゲイはこの宇宙船に乗ってるのかな。ぼくや香山さんと同じような状況だとしたら紛れ込んでいるかもしれない。いまのぼくらが実体だとすると、楊さんやセルゲイの場合はどうなんだろう。彼らは地球人なので地球にいるのが実体で、ここには虚体が乗り込んでいるのかな。虚体ならいいけど、ぼくらと同じく実体がこの船に乗り込んでいるとしたら、下船してぼくらの星に降り立つとその瞬間に消滅してしまうかもしれない。
「おい小牧! なんだまた寝ちゃったのか」
菊池君の声がしてぼくは目を開けた。しかし真っ暗闇には変わりなかった。
「起きてるよ。あらためて考えていたんだ、これまでの出来事を。で、ほかになにかわかったかい」
「次々と運ばれてくるんだ、遺体が。それも確認するとクラスメートばかりだから驚いた」
「まさか。なぜぼくたちが狙われるんだろう」
「いま起きてる地球の異変の原因と思われているのさ。だから生死にかかわらず収容しているんだ」
「きみは? 菊地くん、きみはだいじょうぶなのか、逃げなくても」
「ぼくはテレビには出てなかったからね。TVに映ってた者だけが標的になってるんじゃないのか」
なるほど。それなら顔が丸わかりだから防犯カメラなんかで追跡しやすい。橋口先生はスタジオにはいなかったから追われてはいないかな。菊地君に訊いてみると先生たちは誰も運ばれてこないそうだ。ぼくと香山さんはスタジオのビル内にいたから真っ先に狙われたにちがいない。
「でも、いきなり殺すことないだろうに」
「みんなパニクってるからな。判断もなにもないのさ。まともじゃない」
「生きて収容された者はいるのか」
「ああ。何人か運ばれてきたけど虫の息で、意識不明のまま亡くなった」
「そんな!」
ぼくは絶句した。虚体とはいいながら仲間にはちがいないのだ。
「意外だったのが楊さんやセルゲイ、CIA、MI6だった連中さ」
「地球人だったんだろ。構成粒子のレベルまで」
「え。ああ。そのとおりだよ。なんでわかった?」
「彼らのことを考えていたところさ。彼らは途中から転校してきたからね」
「運ばれてきた彼らが実体だとすると、この船にもし乗ってたとしたらそれは虚体てことだ」
「いや、逆かもしれない。ぼくらと同じくこの船に乗ってるのは実体で、地球に戻ったのが虚体じゃないか」
「うーん。虚体っていっても完全コピーだから、構成粒子も地球人のそれだったのかな」
「そうだとしたら向こうへ着いたら彼らはどうなるんだろう」
「実体にしろ虚体にしろ、安定した存続ができるかどうかだ」
「まてよ。完全コピーだって言ったよね。だとしたら実体と虚体の区別自体に意味がないぞ」
「それは物質上の話だから。構成粒子もゲノムもまったく同じで互いにクローンだとしても決定的にちがう何かがあるのさ」
「なんだろう、それは」
「さあ、なにかな」
まったく同じ構成のコンピューターやスマホだっていい、ロボットでも同型のものなら同じ機能を果たすはずだ。しかし生物となるとまったく同じ構成物で同じ造りで成り立っているとしても個体のひとつ一つが別ものと見なされる。人間はもちろん動物も個体差があると認識されている。植物でさえも個体による識別がなされる。目に見える大きさなり形なりで識別されるのは分かるが、構成粒子から同一だとするとクローンの本物との区別はどうなるのだろう。
ぼく自身の体験から言うと宇宙船の中の実体のときも、地球に戻った虚体のときも、ぼくはずっとぼくだった。アイデンティティは維持されていたのだ。暗闇に飛び込んでから視界が真っ暗闇になっても、光が見えて小さな会社の中に居ても意識は連続してて、途切れることはなかった。いまここにいるぼくが実体とすると、光が見えたときの、架空社っていったっけ、あの会社に居たぼくは虚体ということになるが、移り変わる過程で意識は途切れることなくぼくのままだった。合理的な解釈ができるとすれば、それは実体の意識が虚体へ移ったということだ。意識のない実体のほうは文字どおり意識を失って眠っていたのだろう。
「量子もつれかな」
菊地君がぽつりと言った。ぼくはあわてて記憶をたぐりよせてみた。
『量子もつれとは粒子どうしに強い結びつきができる現象で、いったん量子もつれの関係になると、どんなに遠く離れていても互いのことがわかる。片方の粒子の状態が変化すると、もう片方の粒子も瞬時に変化する』
「なるほど。それなら実体と虚体は離れていても互いに同じ変化を共有するんだ」
「そうなってくると、どちらかが実体で一方は虚体ていう区別は意味がない」
「じゃぼくが銃殺されたのはひょっとしてぼく自身だったってことか」
「実体虚体の別なく、小牧、きみ自身なんだよ、どっちも」
「でも銃殺されたのなら死んでるはずじゃないか。でもぼくは生きている」
「ああ。こうしておれと話してるもんな」
「ぼくはいったい何なんだ。本物なのか偽物なのか」
「きみはきみさ、小牧」
「菊池くん、きみはどうなんだ。虚体は地球に、実体は宇宙船で移動中でぼくと話している。どっちが菊池くんなんだ」
「ここでこうして話しているのがおれさ」
「じゃ地球上の菊池くんはニセ者かい」
「虚体てことではそうだけど、いまおれは地球上でしゃべってるんだ。わかるかい。ここにある実体はいまはスピーカにすぎないのさ」
「実体虚体の区別は関係なくて意識がその時々に拠っているところが菊池くんてことかな」
「そうだね。あらためて自分の体を意識するようにしても、自分が分裂しているという感覚はないな。話している自分が置かれた環境、いまなら地球の環境が体感されているようだ。白衣に染みついた薬剤の臭いが鼻孔を刺激してる」
「声はぼくのすぐ近くでしているから、菊地くんの実体が喋っているのは確かだね」
「こちらのおれもしゃべってるから、同時に同じ動作をしてるってことだ。まさに量子もつれだな」
ぼくが笑うと菊地君も笑った。笑い声がぼくたちのまわりを満たし、しずかに暗闇の彼方へと広がっていった。
「さてと、おれは調査に専念させてもらおうかな。この体が虚体である以上、いまにも消滅するかもしれないけど、おれの時間がつづく限りはやるぜ」
菊池君の声がだんだん遠ざかっていくようだった。実体の菊池君が離れていってるのだろう。ぼくもなんだか眠くなってきた。うつらうつらしながら考えた。声が聞こえる以上、ここには空気はあるってことだ。無重力だからふわふわしているけど抵抗があるはずだから摩擦もある。ためしに両足を曲げてから思い切り伸ばしてみた。すかっ、と空振りに終わったみたいな、なんの反動も得られなかった。そんなはずはないとぼくは手足を四方八方むやみに振り上げたり、蹴ったりした。左足が固い抵抗を感じた。
「痛い! いててて! なにするんだよ」
おや、三上君の声だ。ぼくは三上君を蹴飛ばしたらしい。
「三上くんか。暗闇だからわかんなくて。すまない」
「いいから寝てくれよ。話し声がするから来てみたらこれだ。誰と話してたんだ」
「菊池くんだよ」
「菊池か。あいつ、まだ地球でなんかやってるんだよな。困ったやつだ」
「菊池くんの虚体が地球に留まるとなにか不都合でもあるのか」
「虚体と実体が分裂した状態だと存在論的に二律背反で」
「むつかしい話はいいや。とにかく支障はないんだろ」
「いや、どうなるかわからないというのが正確なところなんだ」
「じゃあ今後なにかわかるかもしれないね。菊池くんの犠牲的献身のおかげで」
「うーん。そうかもな。じゃ、もう寝てくれよ」
「ああ、おやすみ」
もう虚空に返事はなく、人の気配もなかった。暗闇にほのかな光がときどきちらちらした。ふわふわした感覚はずっと続いていた。揺りかごがこんなふうなんだろうと想像しながらぼくは深い眠りに落ちていった。




