17 TV局
ぼくは菊池君と別れて地下鉄の駅のほうへ歩きだした。人をかきわけて改札に入ろうとしてICカードもお金も持っていないことに気づいた。
「どうしよう」と足を止めようとしたが前後を人に挟まれて改札を通ってしまった。また擦り抜けたのかなぁ。気持ちわるい。変な感じだ。ぼくは電車に乗ると乗降口の窓にへばりつくように立った。外は地下の暗がりで窓ガラスにはぼくの顔が映っている。
『あなたはいったいだれなのだろう』
慣れない容姿の自分に向かって問いかける。その問いかけに答えるのはぼくしかいない。
『これはぼくなのだ』
自分の顔を見ていると頭がくらくらしてくる。数時間前は小学生だったのにとんでもない飛躍だ。これがぼく自身の姿だとどうして認識できようか。
『どこへ行ってしまったのか、ぼくは』
正気を保つアイデンティティの連続が吹っ飛んでいた。しかし、ふと車内に眼を転じてみるとそこには見慣れた車内風景が展開しているのだ。外では崩壊現象が起こっているというのに日常は平穏無事なのだ。二重三重のギャップにますますぼくの頭は混乱する。
「おかしいだろ!」
思わず声に出してしまった。近くの乗客が聞きとがめて顔をあげる。ぼくは目をそらし、素知らぬ風を装う。暗い壁が延々とつづく窓外に目をもどす。そこに映る乗客の一人と視線がぶつかった。ひと目で外人とわかったが、どことなく見たことがある風貌だ。
「あ」
セルゲイだ。なんでこんなところに。セルゲイはぼくが気づいたと見るや立ちあがってこっちへ来た。先に向こうはぼくに気づいていたようだ。ぼくを見張って尾行してたのかな。尾行にしてはちゃっかりシートに座り込んでいたのが笑える。
「アナタ、コマキさん」
ずんと迫って来たセルゲイは、どデカくなってぼくを見下ろした。日本語のたどたどしさはそのままだ。
「三上サん、ドこ?」
「セルゲイ、きみは三上を追ってるのか。ぼくも三上を追って、そうして暗闇へ」
「ワタシのターゲット、ミスター三上。どコ?」
「わからないな。菊池くんならさっき会ったけど」
「ソうデスカ」
がっかりしてうなだれて、いかにも悲しそうな顔をするのでぼくは気の毒になって同情してしまった。
「香山さんといっしょに彼を追って来たんだ。暗闇で見失ったけど、香山さんがなにか知ってるかもしれない。これから香山さんがいるテレビ局に行くつもりなんだ」
「わたしモ行きマス!」
「え」
しまったと思ったけどしょうがない。それに心細くはあったので、気心は知れないけど見知らぬ者ではないし、いざとなれば逃げてしまえばいい。でも、どうしてセルゲイはこの電車に乗っていたのだろう。それを聞くと本人も首をかしげた。
「ワかりません。学校デ気ヲ失ッて気ガつイタラここデシタ」
ふーん。不思議なこともあるもんだなと感心していたら、次の停車駅ですごい美人が乗ってきた。目を奪われているとなんとまっすぐこっちへ向かって来たのでびっくりした。どうやらセルゲイに引きつけられたようだ。
「あなた、セルゲイです」
セルゲイの前に立つなりその美人は言った。知り合いなのかと思ってじろじろ見ていたら、やおらぼくのほうを振り返った。
「あなた。あなたは小牧さんです」
「え」
しげしげと見てなんとなく見覚えが。あ。
「楊さん! か」
「そーです。わたしは楊小鈴です」
たしかに楊さんだ。でも完璧だったはずの彼女の日本語が怪しくなっている。やはりいきなり大人になったショックの影響だろうか。見るからに飛び抜けた美女になってたから、セルゲイがいなければ見惚れるばかりで気づきもしなかっただろうな。
楊さんは日本語の言い回しがヘンだと気づいて照れくさそうにくすっと笑い、照れ隠しのつもりか典型的なチャイナ訛りで問いかけてきた。
「小牧さん、三上さんはどこアルか」
「いま、セルゲイとも話してたんだけど」
三上君を追ってここに至ったことや、これから香山さんを訪ねてみるつもりだと話した。
「私も同行します」
やがて次の駅や、そのまた次の駅なんかでアメリカのスパイ三人組やイギリスやイスラエルの情報機関員が乗って来たりした。さら伊藤君と水野君たち同級生もばらばらと乗り込んで来て、ぼくらと行動を共にすることになった。にぎやかでいいや。ぼくらは十数人あまりでテレビ局に押しかけることになった。
そのテレビ局は全国ネットのキー局で、香山さんが出ていたのはワイドショーだった。特派員レポートで欧州を取材した模様が放送されていたんだけど、実際に彼女がスタジオからコメントしていたからまだ局内にいるにちがいない。
受付で香山さんに面会に来たとストレートに申告した。
「ファンの人たちか。いま入館が厳しくてね。外で待ってもらえますか」
ファンじゃなくてクラスメートで急用なんだと話しても取り合ってもらえない。見かねたセルゲイとモサドのメンバーがエージェント特有の専門用語で警備員の注意をそらし、その隙にぼくも楊さんもMI6もCIAもゲートをすり抜けた。入館するやこんどはCIAが館内から局の関係者の振りをして警備員を引きつけたのでセルゲイとモサドもするりと中へ入ることができた。さすが各国の諜報部員だけのことはある。ぼくたちは怪しまれることなく警備員の視界から逃れた。
「どのスタジオだろう」
不法侵入なんだけど警察が来るまでには間があるし、各フロアの警備員に気をつければいいかなぐらいに思ってたんだけど、モサドとCIAが監視カメラをスリングショットで、パチンコって言ったほうがいいかな、それで狙いを定めて次々に破壊しはじめたのでなんかヤバい事態になってきた。
「ここだ。急ごう」
社員らしき人に聞いてぼくたちはそのスタジオにたどりついた。まだ本番中の標識が灯っていた。ぼくは躊躇したが、楊さんはするりと前に進み出るや警備員が制止する間もなく、ドアから押し入った。
「本番中です。入れません」
背後で声がしたけどそのときにはもうセルゲイやCIAに押されてぼくはスタジオの中に入ってしまっていた。ぼくは目ざとく香山さんを見つけた。彼女はタブレットを持った局員となにか話していたんだけど、もう遠慮なんかしている場合じゃない。
「香山さん!」
静かに! と諫める言葉に追われながら直進した。
「香山さん」
局員を押しのけてぼくたちは香山さんを取り囲む形になった。
「え。なに? 小牧くん? それにみんなも」
フロアディレクターや警備員が近づいてくるとMI6やモサドの連中が問答無用に一瞬で失神させてしまう。ただならぬ気配にスタジオがざわめき、司会の人がちらちらとこちらに視線を向けるんだけど、もうなりふり構っていられない。
大きなカメラが一台こちらへやって来た。香山さんの前で止まると、同時に『ON AIR』を示すランプが点いた。香山さんの表情が変わった。急に真顔になって喋りだした。
「ここにいるのは今まさに映像でご紹介した小学校の児童です」
香山さんはぼくたちを撮るようカメラに目で合図する。しかし児童って紹介が的外れなのに気づいて「児童でした」と小さな声で訂正した。自分だってテレビ局のキャスターになっているのにさ。異変はなかなか受け容れにくいものらしい。とくに自分の身に起こったことについてはそうだ。
「あのときなにが起こったのか。ほんの数時間まえのことなのに、わたしには何十年も前のことのように記憶が定かではありませんでした。でも今、はっきり思いだしました。ここにいるクラスメートのおかげです」
ぼくたちはカメラに向かって香山さんを中心に左右に居並ぶかたちになっていた。ぼくたちはみなTVカメラをにらんだ。ぼくは目をすえて緊張しながらなんか変だと感じていた。
菊池君や香山さんはぼくたちと同じように瞬時に大人になったはずなのに、どうしてキャスターとか研究者になっているんだろう。菊池君はともかく香山さんはぼくといっしょに急激な成長を経験したんだ。で、三上君を追って暗闇へダイブして、それから。えーと、離ればなれになって暗闇に光りが見えて、あの極彩色の靄が戦闘機と格闘しているシーンが眼に飛び込んできた。そこが架空社だった。菊池君も香山さんも研究者やキャスターに一瞬にしてなったのだろうか。うーん。わかんないな。
「つづけてください、香山キャスター」と司会の人が呼びかけた。
「何が起こったのか話してください」
香山さんは戸惑っているようだったが、ちょっと頭を振ってすぐ決心したらしく、ことばを探しながら話しはじめた。
「あのときわたしたちは、わたしと、ここにいる小牧くんは図書室の控えの部屋にいて」
もう遙かな昔のことのように感じたけど、ちがう。数時間も経っていないのだ。いや、でも。ほんとはいろんなことを経験したのに記憶を失って、ぼくの時間感覚がおかしくなっているだけなのかもしれない。でも一瞬だったけどね。変身ていうか変容、メタモルフォーゼか。
「控え室から校庭を見ていたときだわ。わたしも小牧くんもいきなり大人になって。つまりいまのわたしになったんです。言ってることわかります?」
スタジオは凍りついたままだったが、カメラの横に居たディレクターらしき人がうんうんとうなずき、話をつづけるよう促している。
「図書室にはアルバム委員が集まっていましたが、そこでも混乱が起きていました。児童はみなわたしたちのように大人になり、先生は見る見る若返っていきました」
だれもが戸惑っているのが空気で分かった。そりゃそうだ。こんな話、だれも信じられるものじゃない。ぼくだって自分の身に起きてなけりゃバカバカしいとしか思えないもの。
「同時に校庭で異変が起きていました。どこから湧いたのか大勢の人々があふれて校外や校内になだれ込んで来たのです。わたしと小牧くんは逃げ場を失って窓に足をかけようとしていました。するとそこに三上くんが現れて導いてくれました。あるはずのない階段があって、そこを降りてどんどん校舎の底のほうへ降りて、三上くんを暗闇へ追いかけていって、そこで」
暗黒の空間に跳んだんだとぼくも記憶を反芻していた。広大な闇の空間にちりぢりになったんだ。でもすぐぼくはあの架空社という小さな事務所で光を見ることになった。
「その三上君というのはクラスメートですね。その彼はここにはいらっしゃらないんですか」
司会者の問いかけに香山さんやぼくたちは互いに顔を見合わせた。もちろんここに三上君はいない。
「はい。三上くんはここにはいません」
香山さんがそう答えると一瞬の沈黙があって、スタジオの照明がゆらめいて明滅し始めた。生放送中なので灯りが点いたり消えたりしていたら大変だ。ディレクターらしき人があわてて指示を出している。ところがあわてるほど明滅は早くなり、やがてふっと消えて真っ暗になった。騒然とするスタジオ内は緊急避難指示灯だけがぼんやりと灯っていた。
「皆さん、その場で待機してください。灯りはすぐ復旧しますから」
CMにでも切り替えるのかなと思ったがカメラはそのまま暗いスタジオで映像をつないでいる。ぼくたちは香山さんを中心にして放送中を示す赤ランプの点いたカメラを前に緊張したままだった。ぼくたちの姿が全国放映されているのだ。司会者は冷静に香山さんに問いかけ、香山さんも落ち着いて過去のワープ現象のことなどを話した。
そこへ空気の振動が頬にピリピリと伝わったかと思うとスタジオが揺れた。重低音が響き、天井に設置されたライトが一斉に点いた。それも最高出力というのはこれだと言わんばかりの強烈な光が炸裂した。眼が眩んでぼくらだけでなくスタジオのだれもが目をつぶったにちがいない。恐る恐る目を開けて見ると、スポットライトが一点に集中していた。そこには司会のアナウンサーがいるはずだったんだけど、なんと三上君がそこにいたんだ。彼だけは元々の小学生の姿だった。だからぼくたちには彼だとすぐわかった。
「三上!」
「三上くん!」
いきなりスポットライトを浴びて三上君はすこし戸惑っていたが、ぼくたちを見つけるや、あわてて呼びかけるのだった。
「みんな! なぜこんなところに! ぼくたちはもう出発しているんだ。早く戻ろう」
ぼくたちには三上君の言っている意味がわからなかった。
「きみ。きみが三上君なのか」
三上君の足下に倒れていた司会者が顔をあげた。三上君に跳ね飛ばされたらしい。イテテと呻きながら立ち上がった。
「くわしい話を聞かせてくれないかな。いまちょうどきみの仲間たちに話を聞いていたところなんです」
司会のアナウンサーのことなど三上君は目に入らないようだった。
「さあ、みんな。行こう」
一歩踏み出してぼくらのほうに歩み寄ってくる。その背後で司会の人は三上君の肩に手を掛けようとしたんだけど、その手はするりと肩のあたりを通り抜けてしまった。行き場を失った手は床めがけてすとんと落ちた。アナウンサー氏はバランスを失なって前のめりにまた倒れた。
「さあ行こう。戻らなきゃ」
三上君が近づいてきた。背後でアナウンサーが身を起こし、三上君に近寄ってもういちど三上君の肩に手をかけようとした。そのときだった。
「わ」
消えた。アナウンサーの姿がふっと消えてしまった。見なれた光景のはずだったけど、目の前で人が消えるのはやはり衝撃だった。ぼくたちは一歩後ずさりした。三上君は怪訝な顔をして足をとめ、ぼくたちを見あげた。
「どうしたんだ、みんな」
背後で人が消えたことには気づいていないみたいだった。
「こんなところに居ちゃいけない。実体はもう飛び立っているんだ」
え。実体って。
「ぐずぐずしてちゃいけない。さもないと」
実体が飛び立っているって?
「さもないと」
ぼくたちは顔を見合わせた。三上君の言うことを頭のなかで繰り返し反芻した。実体って。ほんとうの体っていうことかな。その体が飛び立っているってどういうことなんだ。では、ここにこうしているぼくたちはいったい何なんだ。実体じゃない体ということは、触れないはずだ。ぼくは香山さんの横にいて手をにぎっていたんだけど、この手に実体がないだって?
「きゃ」
小さく香山さんが叫んだ。ぼくが手にいっそう力を込めたからだ。しかし香山さんはその手をにぎり返してきた。セルゲイや楊さんたちも互いをたしかめるように身を寄せ合って三上君と対峙することになった。
「きみたちはいったい、どうしちゃったんだ」
三上君は両手を前で大きく広げてつぶやくように言った。どうかしちゃったのは三上君のほうだ。思い返せばいつも彼の近くで異変は起きていた。何者なんだ君は。陸上部のエースってだけじゃないんだな。
「よく聞いてくれ。きみたちはもうここにはいない。遙か彼方の宇宙を航行する船に乗ってるんだ」
なにをばかなことを。そんなはずがない。ぼくたちはこうしてここにいる。ぼくたちはまた顔を見合わせた。みんな狐につままれたような顔をしていた。
「きゃ」
また香山さんが叫んだ。今度もぼくが手に力を込めたからだ。香山さんはいっそう強くその手をにぎり返してきた。セルゲイや楊さんたちも互いをぎゅっと抱き締めていた。ぼくたちは三上君を怪しいと思い始めていた。ワープだけでなく、街の崩壊も彼が引き起こしているのではないか。三上君はそんな不穏な空気を読み取って慎重にぼくたちに近づいてきた。
「もう一度いう。実体はもう出発しているんだ。ここにいちゃいけない」
三上君はひとりひとりそれぞれに目を据えてゆっくりと言った。ぼくたちは顔を見合わせて混乱するばかりだった。三上君が何を言っているのか理解できなかったからだ。
「どういうことなんだ。実体って何のことだ。実体が飛び立っているだって」
「体はこれこの通りここにあるぞ。いいかげんなこと言うな」
「出発したって。どこへ。どうやって飛んだんだ」
「そうだ。どこへ向かったのさ。実体っていうのがそこにあるなら、ここにいるこの体は何なのだ」
伊藤君と水野君が三上君に詰め寄ろうと一歩を踏み出したとき、ふたりの姿が消えた。ぼくたちは弾かれたように後ろへ飛び退いた。三上君は距離を縮めようと迫ってくる。セルゲイや楊さんたちはこんどはバラバラになって背走した。ぼくも香山さんの手を握ったまま闇雲に走った。背後で三上君が叫ぶ声が聞こえた。
「待ってくれ! みんな! 止まれ!」
三上君がどっちへ行ったかわからなかったが、ぼくと香山さんはスタジオを出てエレベーターホールに走り込んでいた。ちょうど目の前で扉が開いたので乗り込んだ。
上昇する箱のなかで香山さんの肩を抱いたまま底知れぬ不安に駆られた。
『実体はもう飛び立っている』
『もうここにはいない』
三上君が放った言葉が頭をくるくる飛び回る。実体がないのなら何の感覚もないはずなのに、ぼくの手の下で小刻みに震える香山さんの体の感触がたしかにある。
「出よう」
扉が開くやぼくたちはエレベーターを降りた。異様な空気を感じた。そこはビルのなかのはずなのに土の匂いがする。足を踏み出してみるとほんとうに土の上だったので驚いた。風が渡り、ぼんやりとした光が辺りを満たしていた。人工の光源がどこかにあるのだろう。
「ここは?」
ここはテレビ局だから香山さんなら知っているはずだが、彼女にも心当たりがないらしい。
「スタジオのセットかしら。荒野のセットを作ったのかもしれないわ」
「すごく広そうだ。ちょっと歩いてみようか」
「ええ」
ぼくたちは足をすすめた。どこか休めるところがあればいいんだけど。三上君が登場するに及んで頭がこんぐらかって整理がつかなくなっていた。体を落ち着かせる場所でこれまでの経緯をじっくりたどってみる必要がある。どこでどうしてこんなことになったのか。これからどうすればいいかも考えなければならない。
しかし、いくら歩いても土と草の原がつづくばかりだった。振り返るとエレベーターホールの灯りがかすかに瞬いていた。そこらの草の上にすわろうかと思ったが、なんか光の加減がおかしいし仄明るい草むらも気味が悪く足を止める気にはなれなかった。
「待って。ここはなんだか変よ」
変なのはわかっている。変て言えばそもそも話の端緒からずっと変なのだ。おすもうさんがグラウンドに現れたときから異変ばかりだ。ぼくも香山さんも小学生のはずなのに一瞬でおとなになっちゃったし、おまけに香山さんはキャスターに変身しちゃったのだ。
「休もうか。どこかにすわろう」
といってもすわれそうなところはなかった。道もなく草の原が広がっているだけだ。てきとうにその場にすわるしかない。ポケットをさぐったらしわくちゃなハンカチがあった。
「これ敷いて」
「ありがと」
すわってみると案外に落ち着いた。光が少なくって視界が狭いのがかえって気分を鎮めるのかもしれない。
「ひと休みしたらエレベーターまで戻りましょう」
「うん」
寒くもなく暑くもなくなんという人工的な空間だろう。そういえばいまは冬だった。季節を忘れるくらいめまぐるしくって寒暖などかまっていられなかったんだ。いや待てよ。図書館の準備室で時間が乱雑に変容し、外で人があふれてくるのに恐れおののいていたのはほんの数時間まえのことじゃないか。
「わたしね」
香山さんが手で草をもてあそびながら口をひらいた。
「うん?」
「すとんと落ちてきたの。スタジオに」
「え。ほんとに? 菊池くんの話だと海外ルポなんかもこなしてるって」
「それは記憶にあるわ。思い出せるもの。でもニセものかも」
自分のものではない記憶がインプットされている? ぼくは香山さんの横顔に目を向けたが光がよわくてぼんやりとしか見えない。
「ほんとうに実感できているのはこの数時間だけよ。その前は暗闇に吸い込まれたことと図書室でのできごとが重なって残ってる」
それはぼくも同じで、気がついたら絵本の出版社だった。そこで働いているという感覚はなかったけど、できっこないはずのパソコン操作をすらすらこなしていた。
「やっぱりここは変だわ。ひょっとしてわたしたちも知らないうちにワープしたんじゃないかしら」
香山さんが立ち上がった。ぼくも腰をあげて土を払うと手がポケットの固いものに触れた。引っ張り出してみると菊池君が貸してくれたスマホだった。
「なんだ小牧くん、スマホ持ってたの。早く出してくれればいいのに」
香山さんはスマホを引ったくってもどかしげに操作し始める。この空間にはWifiが通じているとみえて地図を開けて現在地を確認するとテレビ局の位置である。スマホのGPSも機能しているので確かだ。
「じゃあ、ここは確かにスタジオなんだわ。変だけど」
「まだセットが完成してないのかもね。野っ原だけ作って」
「あら。メールが届いてるわ。ほら」
「え。まさか」
ほんとだった。未読メールが何通かあった。このスマホはもとは菊池君のものでメールの設定はそのまま残してあったのだろう。見出しにぼくの名があったのでぼく宛てである。発信者は菊池君だった。
スマホの小さな画面に二人してかがみ込んだ。メールを読もうとして互いの頬がぶつかった。ふっくらしたなめらかな感触、化粧品のにおいが鼻をくすぐる。ぼくは頭がくらくらしてメールどころじゃなかったが、香山さんは気にも留めず画面に目を近づけてメールを読み上げだした。
「テレビ局には無事に入り込めたかな。小牧のことだからひょっとしたらこのメールを香山さんといっしょに読んでいるかもしれないな」
香山さんは顔をあげて笑った。つられてぼくも照れ笑いを返す。
「おれなりにフィールド調査で得たものがある。それを元に仮説を立ててみた。物と時間のこれまでのあり方に異議を唱えるような出来事を前にして、否定してみたところで始まらない。ただあまりに雑然としているからノートとともにメールで残しておく。小牧だけでなく香山さんやほかのだれでもいいから読んでもらってくれ。ランダムに転送してくれてかまわない。こっちでも出せる限りの宛先に送っているし、ブログにも載せて自由に閲覧できる。いまのところ反論はない。だれもが事態の推移を黙って見まもっているところなんだろう。何が起こっているか判断を下せるまでに至っていないのさ。
それはそうと、もう三上から聞いたか。実体と虚体の話さ。三上はおれの前に現れて、もう実体は出発しているから戻ろうと言うんだ。なにをバカなと取り合わなかったんだが、三上はとてもあわてていて早口で何か言うんだけどよく聞き取れない。おれが肩をすくめると三上はため息をついて諦めたのかな、姿を消しそうだったのでとっさに三上の腕をつかんだ。言いたいことだけ言って消えるなんてバカにしてるだろ。腹が立ってさ。こっちだって聞き捨てならないんだからな。以下はそのときの三上とのやりとりだ」
「待てよ! なんだよ、その実体てのは」
「実体は実体さ。決まってるだろ。本来の体のことさ」
「それが出発してるって、どういうことなんだ」
「わからないのか。校舎だよ」
「校舎って? まさか。あの噂はほんとうだったのか」
「菊池、きみだってあのとき、暗闇の亜空間に入ったじゃないか」
「暗闇? ああ、おれは理科室にいたんだった。それがいきなり暗闇になって体が浮いた。あれは亜空間だったのか」
はっきりしたことはよくわからないが、校舎は亜空間を制御する宇宙船だってことらしい。
「学校にいたみんなはそのとき出発したんだ」
「あのとき時間の混乱や群衆の乱入があった。おれたちは大人に変貌したが若返った先生もいたと聞いたが」
「出発に際してぼくたちのオリジナルの時間が混入したのさ。宇宙船がスタンバイしたとき、地球の時間軸と異なる系が混入して起こった現象だ」
「でも、三上。きみは小学生のままの姿じゃないか」
「ぼくは皆の目印だから子どもの姿でないといけないんだ」
「目印?」
「この物語のアイデンティティなんだ。ぼくだけが真相を知っている」
「物語? 真相? わからないな。なんのことだ」
「姿形なんて仮のものだってことさ。見えない存在なんていくらでもあるし、見えないもののほうが宇宙では主流なんだ」
「ダークマターか」
「ふん。名前がついていないものは遙かに豊富で多様なんだ。ダークマターなんて仮に措定されたにすぎない。きみはすっかり地球人の考え方に染まっちゃったな」
「え。いま何て言った。地球人の考え方って」
「いいかげん思い出してくれよ。課題を忘れちまったのか」
「課題? なんのことだ」
三上はやれやれといった顔をしたが詳しく話してくれた。それによるとだな、事の真相を知っているのは三上と先生たちだけってことだ。三上以外のおれたちは先入観なしに地球に生まれ育って文明を一から吸収することになっていたってさ。そのとおりにおれたちは地球人として生まれ育ち、地球の一文明を体現することに成功した。
いや、にわかには信じがたい話で、おれは三上の作り話じゃないかと疑っている。しかし半信半疑で聞いているうちに、リアルとフィクションの境界がわからなくなった。話の内容は荒唐無稽でふだんなら歯牙にもかけない話さ。でもこんな状況だから一考には値するかなと思って備忘録としてここにも載せてる次第だ。
でも、三上の話が本当だとしたら、ここでこうしてフィールド調査に打ち込んでいるおれは何なんだろう。その動機、モチベーションは何なんだ。
話半分、いや一割くらいで聞いてくれ。




