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15 架空社

 まばたきするうち、その光は情景になった。戦闘機が街の低空を飛び、機首になにかぶら下げていたが急旋回して地面に激突した。耳をつんざくキーンという音がようやく届き、轟音とともに火柱が噴いて黒煙がもくもくと上がる。煙のなかから極彩色の霧が現れ、大きく羽ばたくようにゆらゆらと空を泳いでいく。どこだ、ここは。

 霧がぎゅっと凝縮したかと思うと空に穴をぶち抜く勢いで何かに突進していった。やがてもう一機の戦闘機が現れたが、煙を引いて高度が保てないのか超低空を街の屋根すれすれに滑空している。これは墜落する前に強烈な閃光を放って空中で爆発した。そこからまたも極彩色の霧が離れていった。ここは地球上のどこかだ。

 爆発の衝撃波が襲いかかる。頭を両手で覆って腰をかがめる。しかし、かがめたはずの腰が浮いている。宙に浮いて、重力がない暗闇の空間に漂っている。どうなっているんだろう。たしかに目に見えている光景は眼前にあるのに体がない。体は暗闇の無重力空間に留まっているのか。そんなことあるわけない。ほら、音も聞こえてる。耳もここにあるんだ。焼け焦げる臭いが鼻をついたりもしているから鼻もここにある。炎の熱い風の感触もある。これだけそろっているのだから体がここにないとおかしい。五感がここにあって体の感触もあるのに実体が存在しないなんておかしいだろ。

「幽体離脱とか死後浮遊とかってこんなじゃないかな」

 どちらの空間にあるかわからない口で声に出してつぶやいてみる。その声はちゃんとぼくの聴覚に届く。ええい、ややこしいな。ぼくがどんな状態であろうと、そんなことはどうでもいい。肝心なのはぼくが見て聞いて感じているもののことだ。ぼくは、ともすればバラけそうな感覚を引き寄せて統一を保ち、その場で起きていることを理解しようと努めた。

 高速道路が落ちてきたことは言ったっけ。まだ? うん。高架が崩壊したんだ。

 そこは崖の縁にへばりつくように建てられた事務所なんだけど、どうしてそんなところに居るのかなんて知らない。とにかくガラス戸を押して幹線道路に面した歩道に出ると、黒煙とともに道路が落ちてきて、その向こうにヘリコプターやドローンが何機も旋回していた。地震かと思ったがちがう。足下のアスファルトは元からひび割れている以外なんの兆候も示していなかった。つまり揺れてないってことだ。雲が重くたれこめた空から大きな白い薄片が舞い落ちてくる。雪かな。まだ早いような気がするけど。紙片の燃え残りや灰のようにも見える。その雪だか灰だかはひらひらと尽きることなく空をおおう。

「これがみんなお札だったらいいねえ」

 振り返ると、ヒゲもじゃの人がお酒くさい息を吐きながらウインドーガラスを透かして空を見上げていた。ガラスドアから出て歩道に足を踏み出していたのはここの従業員らしい。ぼくかと思ったがぼくじゃなかった。視覚なり皮膚の感覚が偶然なのか当然なのか重なったのだ。

「雪になりましたね」

 ガラス戸を閉めながらその従業員、まだ歳若い、ワープ成長したぼくと同じくらいの青年はとんちんかんなセリフを言った。そのとき、閉めたガラス戸を叩く者があった。

「わ。俺はいないぞ。後は頼む」

 ヒゲもじゃのおじさんは奥へ分け入ってトイレに飛び込んだ。借金取りかなんかだと思ったんじゃないかな。青年はチェッと舌打ちして、めんどくさそうにドアに寄って行った。訪問者を見ると、それは、なんと橋口先生だったんだ。どうしてここへ。

「うん? きみは。小牧か。おまえ、なんでここにいるんだ」

 橋口先生はガラスドア越しにぼくを見つけ、入ってくるなり言った。おとなの姿になったぼくを見るのははじめてのはずだけど、八馬先生と同じくあっさりと見破った。でもここでは、ぼくは見えていないんじゃなかったっけ。先生にはぼくが見えているんだ。

「ぼくは香山さんと三上くんを追って来て」

「なんだって。三上は病院にいるんじゃなかったのか」

「それが図書準備室に現れて、ワープだと思うんですけど。わけのわからない人たちが図書室にあふれていて、ぼくも香山さんも校庭に飛び降りようしたのを三上君が止めたんです。手招きされるままに階段を降りると、深い暗闇があってそこへ香山さんが飛んで、ぼくも続いて」

「小牧、落ち着け。準備室に階段なんかないぞ」

「だからヘンだと思ったんですけど。暗闇に浮かんで光が見えて、まだそこにいるはずなんですが、どうしてここにぼくはいるんでしょう。ここってどこなんですか」

「ここは架空社だよ。うちの学校の印刷物をときどき引き受けてもらってる。小牧も来たことあっただろ」

 思い出した。架空社ね。小さな出版社だ。ここの社長が橋口先生の友だちでクラスのみんなと社会見学に来たことがあった。おもに絵本を出していて目の前にも在庫が山積みになっている。でも、なんでこんなところへぼくは現れたのだろう。

「いらっしゃい。どうぞ。てきとうに座ってください」

 青年が丸イスを本棚や作業台のすき間に並べてくれた。

「八重乃さーん! だいじょーぶですよ。橋口さんです」

 奥に向かって叫ぶと「がちゃ。ジャー」と水が流れて隠れていたおじさんがでてくる。

「お。よおッ」

 照れくさそうに猫背の背をいっそう丸めてぼくらの間を通り、破れ目だらけの黒いビニールクロス張りの椅子に座った。手にはグラスを持っている。ウィスキーかな。琥珀色でなみなみと、あふれそうだ。

「また酔ってるな。例のパンフレットだけどだいじょうぶか」

「なーにおれにとっちゃ酒は燃料だからな。素面だと話もできやしねえ」

 長い手足を持て余して窮屈そうなこのおじさんは橋口先生の友人で、社長の八重乃さんだ。

「原稿と写真を持って来たんだ。これなんだけど」

 USBスティックを渡し、スマホとタブレットで確認しながら説明しようとすると、八重乃氏はめんどくさそうに手を振る。

「おい、間市。これ、ラフで組版な」

 スティックがぽいっと宙を飛び、はっしと受け止められてPCに突っ込まれる。橋口先生はその間市と呼ばれた人のところへ行き、大きな画面を見ながら指示を出す。

「ま、飲みなよ」

「いや、いい」

 橋口先生は八重乃氏のウィスキーを断って外のようすをうかがう。地震のような地響きは相変わらずつづいていたが、いくぶん遠のいたようだ。

「キミ。キミはどうだ、一杯」

 八重乃氏は突っ立っていたぼくにグラスを差し出す(え。ぼくが見えてるの)。ぼくはとんでもないと両手で制して首を振った。八重乃氏は「あ、そ。ふん、気どっちゃって」とつぶやきながら橋口先生に向きなおる。

「橋口、おまえの学校はヒドいね。おかげでこのありさまだ」

 八重乃氏は汚いガラスウインドーから外を透かし見て言う。炎や黒煙が大通りを埋め尽くし、向かいの建物が崩壊している。

「うちの学校は無関係だぞ。もう跡形もないけどな」

「一瞬で校舎が消えたそうだな。クレーターみたいになってる」

「え。どういうことですか」

 ぼくは話に割り込んだ。八重乃氏は古めかしいパソコンのキーボードを一本指でかちゃかちゃ操作した。いまどき珍しいブラウン管のモニターにぼぉっと映像が結ばれて焦土と化した運動場が見えた。

「えええ」

 そこがぼくたちの学校の運動場であることはすぐわかった。大きな三本松が空しく立っていたからだ。でも、三本松が無傷なのが不思議だった。爆撃で校舎がやられたのなら、校舎に接して立っている三本松も、直撃は免れたとしても爆風で吹っ飛んでいるはずだ。すくなくとも何らかのダメージは負っていなければおかしい。それがなにごともなかったように静かに立っている。

「これって、爆撃でこんなふうになったんですか」

 ブラウン管に眼をぐいと近づける。こまかな走査線が見え、ぼやけた輪郭に校舎の建物はない。ぽっかりと穴が空いているばかりである。

「爆撃じゃねえだろ。ここに立ってる松が無傷なんだから。目撃証言でははっきりしないな。だいいち消滅の瞬間を見ている者がいない。監視カメラやドローンの映像もヘンだからな」

「映らないのさ。消える瞬間は映らない。校舎があって次の瞬間にはクレーターになっちゃってるだろ。ワープを記録した映像もそう。あれと同じで決定的瞬間はなにも映らない」

 橋口先生が振り向いてなぜか自慢げに言う。校外の監視カメラもしらべたが爆撃のミサイルもなければ、校舎の異常もない。ちゃんと建っていて次の瞬間には消えていたってさ。

「そんなことって。あるんですか」

「小牧、きみがいま見ているとおりだ」

 ぼくの頭には再び、学校でのみんなの噂がよみがえっていた。

『校舎は仮の姿で、じつはいざとなったら飛ぶ。ロボロケットだ』

 そっと立ち上がるロボが、炎につつまれて落ちていく戦闘機を尻目に、ゆっくりと飛び立っていくイメージがうかんだ。ふわりと宙に浮いて音も立てず、バランスをとりながらそろそろと上昇していく。でも実際にはそうじゃなくて、とうとう校舎もワープしちゃったのかな。でも、どこへ。

「ワープなんてへんてこな異変がつづいたときに閉鎖しときゃよかったんだ」

 八重乃氏は声を荒げて汚ないガラス窓の向こうを示した。

「見ろよ。街がめちゃくちゃじゃねえか」

「だから、この現象はうちの学校とは無関係だって」

「ほんとにそうか。でも何なんだ、あのへんなもやっとしたやつは」

 極彩色の霧のことだ。もうみんな知ってるんだ。

「あれが破壊を誘導しているそうじゃないか。分散して世界各地で暴れまわってるとさ」

 霧だからばらければちりぢりになる。そうかあの霧が犯人なんだ。でもあの霧ってどこから来たんだろう。図書室にいきなりあらわれてぼくの手をすり抜けていった。

「たしかにあの霧はうちの学校で出現したらしいな。おい、小牧。あのへんなもん見たんだろ。出てきたところをさ。八馬先生とアルバム委員会やってたとき」

「ええ。手を貫通していきましたけど。なんともなかったです」

「どれどれ。うん。なんともないな。でも、遺伝子レベルではわかんないぞ。なにかいじられたかもしれない」

「そんな」

「いきなり成長しただろ。逆に八馬先生やおれたちは若返ってしまった」

 八馬先生は一目瞭然だけど橋口先生はもともと若いから一見しただけでは変化が感じられない。それはともかく時間が変になったと思ってたんだけど、そうか、そんな見方もあるのか。あの霧が関与して急に成長したり若返ったりしたのかもしれないんだ。

「きみはこいつの小学校にいたのか、あのとき」

「ああ。彼はおれの生徒で六年生なんだ」

「なんだって。どう見たってりっぱな成人だ」

「霧の出現現場に居合わせた生徒はいきなり大人になって、先生たちは若返ったんだよ」

「へえー。やっぱり尋常じゃねえな、おまえんとこは。責任とれよ」

「知るか!」

 一瞬の間があってふたりとも笑い出した。

「わはは。おれは知ってるぞ」

「ふん。バレたか。あははは」

 なんのことだかよくわからないけど、ふたりはしばらく笑っていた。

「じゃあな。あとは頼むよ。追加請求はなしで」

「ああ。納期はわからんがな」

 橋口先生はそれは勘弁してくれと手を振って出て行こうとしてぼくのほうを見た。ぼくはなぜここに来たのかわからないし、もちろんここに用もないので橋口先生について出ようとした。すると入り口まで見送りに出て来た八重乃氏が叫んだ。

「おい、間市。どこ行くんだ。仕事、しごと!」

 振り返るとぼくに言っているらしい。ぼくを『間市』って呼んでいる。酔っ払ってるから間違えたのかな。でも間市って人の姿がない。八重乃氏の前にはぼくしかいない。ぼくは小牧で間市じゃないぞ。どうなってんの。ぼくが間市って人になってるのか。橋口先生はうんうんと頷いてぷいと行ってしまった。瓦礫に覆われた歩道をひょいひょいと避けたり、飛び越えたりしながら小さくなる後ろ姿をぼくは見送ってしぶしぶ事務所の中へ戻った。

 観念してPCの前にすわるとすらすらと指が動いた。ディスプレイにはやりかけのレイアウトが表示されている。PCなんかろくにさわったことはない。こんなMACのコンピュータなんて間近に見たことさえない。いつもスマホかタブレットだからね。マウスもキーボードも馴染みがない。まして『InDesign』なんてアプリ、いやソフトだっけ、知らないよ。でもマウスをすいすいと操作して切った貼ったを繰り返して、ぼくはちょちょいのちょいと作業をすすめているんだ。

『なんでこんなことができるのかな』

 まるでぼくじゃないみたいだ。橋口先生の指示書がフォルダ内に入っていたのでそのイメージでレイアウトしていく。何ページくらいあるのかな。パンフっていうから小冊子でせいぜい数十ページだろう。さっさと終わらせてしまおうとピッチを上げると、奥から声がした。

「おい、いいかげんキリのいいところで上がろうか。また明日やりゃいい」

「はい。でももうちょっと」

「日が暮れるまでに終われよ。一杯やっていこう」

「開いてる店なんて、ありませんよ」

「駅裏へ行けばいくらでもあるさ」

「半日で世界が変わっちゃいましたね」

「ふん。人間世界なんて案外もろいもんかもな」

 ぼくが八重乃氏と会話をしている。八重乃氏のことや世界でいまなにが起きているかということなんかもまったく知らないのに齟齬なくスムースなやりとりをしている。おかしいだろ。ぼくは、ぼくはどうしちゃったんだろう。

「こんちわ。八重乃君、いる?」

 お客さんだ。ひげ面でおかっぱ頭の大きな人がぬっと入ってきた。八重乃氏がイスから立ってドアまで飛んでくる。

「ヨージさん。どうしました。避難しなかったんですか」

 その人は架空社から絵本を何冊か出しているイラストレーター、絵描きのヨモギ・ヨージ氏で何度も来訪しているのでぼくも知っている。え? なんでぼくが知ってんの。

「見物に来た。街が壊れていく有り様なんて滅多に見られるもんじゃないからね。この目でたしかめておこうと思ってね」

「ふーん。絵描きの血が騒ぎますか。でも危ないですよ」

「けっこう人でてるよ。人間にはあまり害がないようだし。探検だ。行こう」

「もう飲んじゃってるからなあ」

「そんなこと言わずにさ。ひと回りだけ行こうよ」

「仕事が。週末までに片付けなきゃいけないんで」

「ふーん。僕の本もずいぶん遅れてるもんね」

「だから急いで仕事終わらせないと」

「八重乃君なにもやってないじゃん。こっちの彼氏がやってくれてるんだろ。行こ」

 八重乃氏は気がすすまないようだったがグラスを持ったまま強引に連れ出されてしまった。ぼくは行ってらっしゃいと言いながら作業をつづけた。

 手が慣れてくると原稿の文字列や写真、図版が意味を成して頭へ入ってきた。これは政府が組織した諮問会議の議事録やシンポジウムのようすだ。橋口先生も参加していたんだった。政府のサイトや新聞ですでに公開されたはずなんだけど、橋口先生独自の編纂てことかな。学校で開かれたSF作家の人たちの講演や討論会の写真や記事もある。今回の一連の騒動をまとめたパンフレットてことか。おや。これはなんだろう。

『地球の人たちへ』

 なんか変なタイトルだな。それはパンフレットの末尾に配置されていた。パンフレットは科学者やSF作家の仮説や推論を顔写真入りで紹介して締め括られていたが、その後のページを改めて付録みたいに付け足されたものだった。冒頭部分がまた変だった。

『みなさんがこれを読まれるころ、わたしたちはもう地球にはいません』

 え。どういうことなのかな。小説の書き出しだろうか。橋口先生ならSF小説を書いてもおかしくはないけど。意味深だな。

『謎解きをしましょう。わたしたちの正体を明かします。わたしたちがだれなのか、どこから来たのか、どういう目的で来たのかなどすべてありのままにお話します。その前に宇宙の構造や成り立ちについて簡単に説明しなければなりません。これは必要なプロセスです』

 フィクションじゃないらしい。だとしたらますます変だ。まるで異星人からのメッセージじゃないか。わたしたちっていうのがぼくたちも含んでいるとしたら、ぼくたちも地球人じゃないってことになる。そんなバカな。

『宇宙の構造はきわめて恣意的です』と始まった文章に面食らった。難しそうで先へ進むのがためらわれる。目をそらしたら、ある文字列が飛び込んできた。

『卒業アルバム文集』

 それは橋口先生のUSBスティックにあったフォルダ名だった。これってぼくたちの卒業アルバムなのかな。開けてみるとたしかにそうだった。写真や作文がクラス別に整理して保存されている。個別の写真を開いてみた。

「わぁ、これ、いつ撮ったんだろ」

 一覧表示をざっと見ると、夏前の以前のクラスメート、もう引っ越して行ってしまった子や、秋になってからの転校生たちもすべて写っている。楊さんやセルゲイももちろんいる。

「これぜんぶアルバムに載っけるのかな。将来の夢の吹き出し付きか。おもしろいな」

 三上君は『陸上の選手になってオリンピックでメダルを取る』。瀬戸君は『ノーベル文学賞作家』だし、友川さんは『アニマルセラピストになりたい』。菊池君は『科学者になって宇宙のなぞを解き明かしたい』そうだ。えーと、セルゲイは、あ、あった。これロシア語かな。

『Я хочу быть капитаном и бегать по миру.』

 ちょっとわからない。ちなみに楊さんは中国語だった。

『我想成為一名學校老師,並教我的孩子們有關世界事務的知識』

 これもなんだかわからないな。意外だったのが学級委員の久地君で、『ユーチューバーになって良心にもとづいた発信をする』んだそうで、どこまでまじめなのかよくわからない。ちなみにユーチューバー志望はほかにも何人かいた。ナゾの転校生だった穂坂さんのも残っていて、『下町にお嫁に行っておだんご屋さんになる』って、いやに具体的なんだな。ちなみにぼくのは、『編集者になって絵本の出版社ではたらく』とは書いてなくて、『建築技師になる』だった。

 ぼくは香山さんのクラスをさがした。

 あった。香山さんはちょっと斜にかまえて気取って写っていた。その吹き出しにはこうあった。

『夢はニュースキャスター。モデルもやりたいな』

 あの暗闇に飛び込んでから香山さんはどうなったんだ。どこへ行ってしまったのか。ぼくは泣きそうになってモニターから目をそらした。そのとき不意に体が軽くなって呪縛から解放された気分になった。ちょうどそのときドアが開いて八重乃氏が戻ってきた。

「なんだ、きみ。まだいたのか」

 八重乃氏は酔っ払ってふらつきながらぼくに言い、狭い通路を横切って奥のフェイクレザーのイスにどしんとすわった。ぼくは従業員の間市とかいう人の後ろに立っていた。ぼくは自分の手を見て、さらに脚を見た。独立したぼくの体がそこにあった。分離したのかな。

「間市ぃ~、もう終わろうぜ。一杯やっていこう。おう、きみもどうだ」

 またしても八重乃氏はぼくに酒をすすめる。ぼくは手を振って断り、出て行こうとした。どこへ行こうかと考えながらガラス戸を押す。

「失礼します。さようなら」

「うん。じゃあね~」

 もう引き留められることなく外へ出た。

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