14 亜空間
その声にびっくりしてぼくはバランスを崩し、危うく窓の下へ落ちかけるのを香山さんが手を引っ張って支えてくれた。声の主はだれあろう三上君だった。図書準備室の奥の書庫からぬっと現われたのだ。
「こっちだ。さあ、急いで」
三上君が手招きする背後にぽっかりと空間があった。書庫になんでそんな空間があるのかわからないが、うす暗い光の下に下へ伸びる階段があるとわかった。小学生のままの三上君の後について階段を下りる。暗闇にうっすらと外光が忍び入ってるので、眼がだんだんなれてくる。
「そんなに急がないで。滑るわよ、この階段」
香山さんが言うとおり、黒光りする階段はクルミ材の木製で、そうとうな年月が経っていそうだ。
「三上くん、これって、どこまで降りるの」
図書館が二階だから、フロア二つ分降りれば地上階のはずなのだ。でも、とうに二階分は下りて、三階、四階とまだまだ降っていきそうである。
「だいじょうぶ。いまは地下のほうが安全さ」
ちょっと振り向いたかと思うとまたテンポよく階段を下りていく。
『え。それって、地上は安全じゃないってことだよね』
ぼくも香山さんも三上君の後ろ姿を目で追いながら顔を見合わせたが、ヘリの墜落なんて事件を目の当たりにした後だから、おとなしく階段を降りつづけた。
「さあ、着いた。ここだよ」
もうたっぷり十階分は降りてきたころ、やっと三上君は足を止め、ぼくらを振り返った。ざっと見積もって地下三十メートルはゆうに超える地点だ。人工照明の光が階段室を隅々まで明るくしている。ほっとしてステップを降りていくと、三上君は階段の踊り場から向こう側へ不意に消えた。
「三上くん!」
香山さんが不安そうに暗闇のほうへ身を乗り出し、吹き上げてくる風に髪をなびかせ、いっそう闇のほうへ重心をかけた。危ないとぼくは手を差し伸べたが、彼女のしなやかな指先がわなないていたのを感じるや、指はするりとすべって虚空に遊び、香山さんは暗闇のなかへ吸い込まれていった。
「香山さん!」
香山さんといっしょなら、たとえどうなったってかまうものかともう一度ぼくは思い直し、闇のほうへ足を踏み出した。
「わあ」
浮いた。猛烈に吹き上げる風が体を一瞬で巻き取って放り投げた。その後は、よくわからない。あまりにも深い暗闇に、落差の空気抵抗が体を支えると錯覚しているのかもしれない。ほんとは落ちてるのか、しかし落下の感覚はない。真の暗闇である。なにもない。だれもいない。香山さんもいない。手を伸ばしたとき一瞬触れたのに、いまはもう永遠の彼方へ去ってしまったかのようだ。
「ここはなんなんだ」
小学校の地下なのはたしかである。実際にぼくたちはこの足で降りてきた、あんな階段の存在は知らなかったけれど。三上君は再入院中だったはずなのに、なぜ図書準備室に現れたのか。こんどこそは本人がワープしたってことなんだろうか。いや、そんなことより、ここはどこだ。いやいや、小学校の地下だってのはわかってるんだけど、この空間の仕組みはどうなっているんだろう。
「おおーーーい」
大声を出して呼んでみる。反動で首がのけぞった。声は返ってくるどころか、どこまでも遠ざかっていく。
「声は出るんだ。だから空気はある」
もちろん呼吸もできている。手足をばたつかせて空中に立っているという自覚はあるものの、寝ている状態なのかもしれない。でも頭に血が上ってないので逆さではない。待てよ、ひょっとしてここには上も下もないのかも。ということは、重力がないんだ。重力がないから浮いているんだろう。そう思うと落下の恐怖からはひとまず解放された。
ここの空間に働いている力はなんだろう。自由落下での無重力だろうか。空間全体がいわばボックスになっていて、ボックスごと落ちている、そういう状態なのかもしれない。でもずいぶん時間が経っているのに同じ状態が続いている。ここは地下空間にちがいないのだから、それほどの落下空間があるとも思えない。それとも反重力かな。あの、SFの世界に登場する不思議な力が働いているとか。
そもそもここは空間なんだろうか。手足を伸ばしたりバタつかせたり、くるりと転回してみたり、動いている感覚はあるんだけど、なにしろ真っ暗闇だ。感覚は錯覚にすぎないのではないか。たしかな感覚にすがりつきたくて、ぼくは、頬をつねるという原始的な方法をこころみた。
「痛ッ!」
頬っぺは痛かった。現実である。手探り、足さぐりで、伸ばしたり、引っ込めたり、頭突きしたりしてみても、当たるものはない。無辺の広さがあるのか、ぽっかり浮いていてその場にとどまっているだけの限定空間なのか。まあ、いいや。広さがあるのはたしかなんだ。すくなくともぼくの体積はそこに収まっている。
『これって多次元宇宙の高次元空間が関係しているんじゃないんですか』
菊池君がエッフェル塔のことでそう質問したのを思い出した。あのときはどういうことかピンと来なかったけれど、いまなら実感できる。折りたたまれた五次元とか八次元とか、とてつもない広大な容積を秘めている場所って、こういうところなんじゃないか。
『こちらに見えているのはほんのすこしで、本体は異次元にひっそりと収まっている』
そんなことを橋口先生が言ってたように記憶している。いや、国語の松浦先生だっけ。SFにも詳しいから松浦先生が『異次元』なんて口にしても不思議ではない。
あーあ、みんなどうなったのかな。無事ならいいけど。みんなはともかく、ぼくは無事なんだろうか。こんな状態では果たして無事なのかどうかはわからない。生きているんだからそれでいいとは思うものの、ひょっとして、これって、死んでるんじゃないのかなとも疑う。
「こんなー こんなことー あるわけない!」
口に出して叫んだ。聞こえる。叫ぶそばから耳に届いては闇に染み込んでいった。自分の声以外は静寂にしずみ、体はどんな向きだかわからない位置でほぼ静止している。宇宙で暮らすためにこういう訓練があったはずだ。闇に潰されそうな錯覚に、気が狂いはじめる寸前の状態にじっととどまる、その重圧に耐えなければならない。
いや、待て。ぼくは宇宙飛行士ではない。こんなことはまっぴらだ。だれか操作しているのなら止めてくれ。いますぐ止めてくれ。
「うわああああ」
ぼくの意思に関係なく口が、喉の奥から叫んでいた。アイデンティティの危機である。ただでさえ図書準備室での年齢の急激な進行で頭をガツンとやられているのだ。小学生からいっきにおとなに成人して、本体は小学生のままかと思いきや、習った覚えのない言葉や感情が身についている。これはもう別人なのだと諦めるしかないような事態だ。あふれた人、人、人に、あの極彩色の霧の出現による騒動がつづき、三上君を香山さんと追っかけてこの暗闇である。まともな思考はとうにぼくの頭からは遠のいている。
そんな状態の頭にふと、あの『校舎ロボット説』が浮かんだ。
『地面の下にもっと埋まっているんじゃないか。本体がさ』
『だとしたら、上が三階建てだから、下は五階分くらいありそうだな』
みんなとの会話が思い出された。地下五階どころか十階以上の深さである。空間の横への広がりは校舎の範囲を越えているかもしれない。
『あと、脚もあるだろ。腕はどこだ』
脚って。脚はどこに埋まっているのだろう。もっと下か。腕も埋まっているとしたらこの辺りかも。だとしたらぼくは孫悟空よろしく、お釈迦様の手のひらの上でもてあそばれているってわけか。ぼくは手を振りまわしたり体に沿って撫でてみたりした。体は、手のサイズにもよるのだろうが、大きくなったはずなのにその感触がよくわからない。ぜんぶ錯覚だったのかもしれない。ここも錯覚ならいいんだけど。でも頬は痛かったんだ。痛覚まで錯覚ということがあるだろうか。もう、ほんとになにがなにやら。
「あ」
もがいていたら光が見えた。




