13 謎の物体
変貌を遂げた姿を互いに見交わしてはびっくりしたり呆れたりしていたぼくたちの前に、へんなものがぬっと現れた。色のついた濃い霧のようなもので、ぬらりとしてゆらめき、色とりどりの粉が吹き出している。形があるようでとらえどころがなく、物体としてはっきり同定できない代物だ。自律しているのだろうか。それともこの図書室を流れる空気に動きがゆだねられているのだろうか。
「なんだ、これ」
「わ。わわわわわ」
「よせ! さわらないほうがいい」
すっかり若返った八馬先生が制する。ぼくは伸ばしかけた手をはっとして引っ込めた。しかし一瞬おそかったようで、なにかがぼくの手の皮膚から筋肉、骨なんかを貫通していった。いや、そんな感じがしたんだ。触れたわけじゃなくって、すり抜けた、細胞ではなくて分子や原子や粒子のレベルでそれはぼくの体を通り抜けた。感覚器官は当然なにも感知できていないから、痛くもかゆくもなかったんだけれど。
「だいじょうぶか、小牧」
ぼくはじっと手を見たがなにも変わったところはない。
「はい。穴は開いてないみたいです」
八馬先生はぼくが異常ないと見てとるや、いつも首にかけているカメラを手でたしかめて図書室から飛び出て行った。あの変なものが扉をすり抜けて廊下へ出て行ったので、その後を追いかけていったんだ。
「八馬先生、ずいぶん若返ったね。わたしたちは大人になっちゃったけど」
いつの間にか香山さんが横に立っていた。ほかの新聞委員のメンバーは八馬先生につづいて廊下へ飛び出していき、ぼくたちのほかはだれもいなかった。
「あれってなんだと思う。霧みたいで、ぐにゃぐにゃしたやつ」
「え? なにそれ。わたし見てないわ。どこ。見せて。あっち?」
香山さんはいつになくはしゃいで、ぼくの手を引っ張って廊下へ出た。
「わ」
ぼくは廊下に出たとたん驚いた。向こうに群衆があふれている。二階のここの廊下は特別教室がならんでいて、いつもはひっそりとしている。ふだんは人気がないエリアなのに、どうしたことだ、これは。
「まあ。なぁに、あの人たち」
立錐の余地なく、うごめいている。なにかへんな感じがしてぼくは緊張した。その怪しい群れはこちらへ迫って来ていた。ぼくはあわてて香山さんの手を引っ張って図書室に戻った。
「来るわ。どうしよう」
戸をすこしあけてのぞき見ていた香山さんが心配そうな顔をする。ぼくはここぞとばかり手をつないだまま、扉をロックし窓辺に走った。ガラス越しに見えた校庭の光景にぼくも香山さんも息をのんだ。
「なんなの、あれ」
ぱっと見たイメージはうごめく大群衆だった。のたうち、くねって、方向が定まらず、長方形の校庭から町のほうへはみ出し、校舎にせき止められたほうは積み重なって二階へ三階へと一つの有機体みたいになって這いあがっている。空にはドローンばかりでなくヘリが何機も旋回していた。マスコミが大挙して押しかけているようだった。
「小牧くん、あれ見て」
香山さんの遠くを見つめるその目線を追うと南の校門からお寺の参道に抜ける道のあたりに、霧のような靄のようなものが立ちこめている。彩色豊かで乱雑なその不定形な流体は、さきほどこの図書室から湧いて出たものにちがいない。どこへ行くつもりだろう。明らかに空気の流れに応じて移動しているのではない。自律した動きなのはいまやはっきりしている。
「あれだよ。さっき『あれ』って呼んだの」
「なんなの。細かな粒子みたいなのが集まってる」
「霧みたいなんだ。手をすり抜けてった」
「どういうこと?」
「眼には見えていても、もっとずっと細かな粒子なんじゃないかな。人間の手というか、皮膚や筋肉や骨なんか素通りできるくらい」
「怖いわ。でも、きれいね」
極彩色のその霧は、薄いところや濃いところ、ゆっくりのところや速い動きのところなどがあって、どこで途切れているのか明確に分別ができなかった。参道には騒ぎを聞きつけた野次馬やマスコミの中継車、警察車両などでごった返していたが、霧はすべてを覆ってそのまま突き抜けてお寺の境内へと進んでいる。その手前にはコンクリートの鳥居があったんだけど、ぼくは思わず眼をパチクリさせた。
「香山さん。あの鳥居の足、見える?」
「え?」
はっとした顔で香山さんはじぃーっと眼を据えた。その顔からみるみる血の気が引いていった。透きとおるような白い顔でぼくを振りかえって言った。
「柱の根元、鳥居の足がないわ」
足がなくなって鳥居は揺らいでいた。極彩色の霧が寄せては返す波のようにどんぶらこと鳥居をもてあそんでいるみたいだ。鳥居は次の瞬間に崩壊し、霧のなかへ落ちていった。鳥居のむこうで霧が舞い上がるとともに、土煙がもうもうと立ち上りはじめた。
「神社の建物もやられたみたいだ」
霧はさらに上昇しドローンの一機を巻き込んで落下させ、ヘリのほうへ向かった。霧は空中にあるときには部分によって透過率が異なるのか光の濃淡が著しく、まだらの極彩色となっていまや空いちめんに広がろうとしていた。ヘリはそいつに呑み込まれて方向を失い、民家や小さな会社ビルが雑居する市街地の真っただなかへ落ちて大きな火柱をあげた。轟音が地を覆って伝わり、黒煙が狼煙のように天を衝いた。
「小牧くん」
香山さんの手がぼくの手をぎゅっと握っていた。
「これって、ほんとうなの。ほんとに起こってることなの?」
たしかにこんなことってスクリーンの向こうとかディスプレイのなかに収まって展開されるような出来事だ。これは窓に映る二次元映像なのではないかと疑ってぼくはロックを外して窓を開けた。埃や土煙に混じって校庭の密集し圧縮された熱気が押し寄せる。
「ごほ。げほ」
錯覚でも錯視でもなく現実の破壊や崩壊が校庭のまわりで起こっていた。あの極彩色の霧が跳梁跋扈するさまが遠くに見えていた。赤く染まる黒煙がいくつも立ち昇っている。焦げ臭い風が吹き寄せてくる。その風に乗るかのように群衆の一翼が窓に迫ってくる。
「どうしよう。入ってくるわよ。なんなのあの人たち」
香山さんが心配しているのは窓のほうではなく、廊下の群衆のほうだ。図書室のドアが破られようとしている。カギはかけたがミシミシと圧力を受けて弾け飛びそうだ。もうこちらから出るわけにはいかない。そんなことをしたら呑み込まれて押し潰されてしまう。
「こっちへ」
準備室のドアをあけて入り、段ボールや本をドアの前に積み上げた。ぼくたちは追われているわけじゃないけど、向こうがどんどん浸食して来るのだから逃げざるをえない。群衆に飲み込まれたらどうなるかわからないのだ。しかし、この小部屋にも迫ってきたとしたら、もう窓から飛び降りるしかない。
「きゃ」
すでに群衆の波はドアを破って図書室に侵入し、あふれんばかりにどんどん押し寄せて来る。その圧力がギシギシと準備室のドアを押し始めた。破壊されるのも時間の問題だ。窓を開けて下を見ると校庭を埋める群衆は飛び降りてもクッションになってくれそうだが、後が怖い。群衆のなかには同級生や先生たちもいるかもしれないが、だれがなにやら区別のつかない状態なので、そんなところへダイビングするなんて危険すぎる。
「来るわ。もうダメ」
香山さんの手がいっそう強くぼくの手を握りしめる。香山さんといっしょなら、たとえどうなったってかまうものかとぼくは覚悟を決めて窓枠に片足をかけた。まさにそのとき、宙空から声がした。
「待て! 早まるな」




