会う必要のない男
皆様始めまして。こちらには今回が初投稿となります、まどか風美と申します。以前は、イラストや漫画も投稿可能な「ごたまぜの」サイトで活動していましたが、やはり小説専門の所で腕を磨きたいと思い、このたび引っ越して参りました。
こちらの作品は、以前のサイトで公開したものを大幅に書き直したものです。ジャンルは文学としましたが、当人はファンタジーかも、と思っています。もしお読み頂けたら、とても嬉しいです。更に感想など頂戴してしまった日には、小躍りして喜びます。
総文字数15937文字。400字詰め換算で、約59枚。
ご注意:若干シモがかった表現も含まれています。苦手な方はご注意ください。
1.
彼は輝度を抑えめにした iMac の液晶画面に、感情の一切消えた、虚ろな瞳孔を向けている。
彼の心を凍えさせたのは、一通のメールだった。ダブルクリックによって画面中央に据えられた、四角四面の白い墓石には、おおよそ次のようなことが書かれていた。
…様
お送りいただいた書類を元に慎重に検討いたしました結果、
残念ながら今回は貴意に沿うことが出来なくなりました。
悪しからずご了承下さい。
末筆ながら、貴殿の今後のご健闘をお祈りしています。
○○株式会社
採用担当 ××
不採用通知にも文責者の奥ゆかしさを薫らせることができ、これはその好例のようだが、実際には単なる著作権表示の必要とされない引用で、事実、彼はこの事務仕事の産物を、空で言えるほど繰り返し目にしてきた。応募者には“自分の言葉”を強要し、職務経歴書や履歴書作りに莫大な手間暇をかけさせておきながら、募集側は最小労働の最大効率を持ち出して、例えばビジネス文書のテンプレートを大いに活用しても許されるという、あちらの常識はこちらの非常識。自分は惜しみなく無償の情熱を捧げた。そっちは給料とってんだろう…
駄目だ。こういう時、どうしても考えが暗い方へ暗い方へと潜って行ってしまう。
彼は息を大きく吐いた。そうやってみても、やり場のない怒りはやはり表現通りのものだった。彼は益々苛立ち、そのメールを手荒く削除した。
彼は求職者だ。8年間勤めた職場を辞したのは、およそ3ヶ月前だった。
会社都合のみの人減らしが常態となり、マネジメント皆無で投げ積まれていく一方の負担に、遂に耐えられなくなった。体を壊しかけ、心を病みかけ、ここで人に戻ろうとしなければ取り返しがつかなくなると、痛切に思ったのだった。
入社以来、一貫して営業職にあった彼は、大きなミスとは無縁に手堅く仕事をこなし続け、会社の売り上げに貢献してきた。その間にも、“企画提案型”だの“コンサルティング”だの、彼の仕事にも目新しい呼び名を持った派生種が増えていくようで、彼の勤め先もこれらの職種の導入を気まぐれに思い立ち、益々社員を消耗させることになったが、そんな混乱の中にあっても彼は元からのやり方で、会社の基礎体力である元からの仕事を黙々と売ってきた。場数をこなした豊かな経験を強みにして、同じ営業職で探せばすぐに復職出来る。退職時、彼はせいせいするだけで、不安などは全く感じていなかった。
暫く存分に羽を伸ばしてから、おもむろに次の職場を探し始めた。良さそうな転職サイトを一つ選んで利用者登録し、ハローワークにもたまに足を運んだ。
その間、彼は二つの企業に応募し、どちらも書類選考で不採用になった。実務経験では自信のある彼も、なるほど、こういった書類の作り方には長けていなかった。それならば研究しようと、履歴書・職務経歴書の書き方を指南する本を、何冊か手にした。
3社目の応募では、早速研究の成果を試してみた。が、やはり書類選考で芳しくない結果となる。彼は、登録した転職サイトが無料で提供している、職務経歴書添削サービスを利用した。自分の書類は、まだ客観的吟味の試練を受けていない。その問題点を除くためだった。
コンサルタントがくれた幾つかのアドバイスを元に書類を改良し、いよいよ戦える武器を得たと感じた彼は、意気揚々と4社目に応募した。結果は苦々しいもので、またしても門前払いだった。書類が改良しきれていなかったのか、恐らくそうに違いない。何故ならば、添削の受付は1回きりで(無料だから? いいや、2回目以降は有料で受け付けますとか、そんな事もないのだ)、改良したものが客観的吟味の試練にかけられることはなかったからだ。彼は直ちに、同様のサービスを行っている別のサイトを探し、利用登録を行った。書類選考さえ通ってしまえば。その書類は、2度の添削によって磨き上げられている。彼は最終校正を行いつつ、次こそはの思いを強くした。
5社目にも門前払いをされるに至って、彼は完全に迷宮にはまり込んだ。何故だ。添削で指摘された箇所を、最初の頃参考にした書籍を、何遍見返してみても、自作の応募書類に自爆の美学を感じさせるような所はどこにも無かった。前の職場への恨み言が紛れ込むことはなかったし、身につけたことや実績も、その応募先が特に見そうなことをその都度取捨選択できていて、項目毎のまとめ方が更に要点を分かり易くしていた。新しい職場でも即戦力となることは、明瞭かつ過不足無しにアピールできているはずだった。
それなのに、彼の売り込みは、一向採用担当者の気を引かないのである。
今では10を越える企業に応募し、ことごとく不採用になっている。全て、話をする機会すら与えられない、書類選考による門前払いだった。
俺は会う必要のない男なんだな。
いつだったか、自分をそう揶揄したことがある。
ああ、まただ。一度は胸の奥底に沈んだその時の痛みが、再び疼きだしていた。
2.
ある日の正午近く、彼は電車で都心へ向かっていた。
彼の仕事を引き継いだ元同僚が、ちょっと分からないことが出てきた、お前から説明を受けた時、もしかしたら勘違いしたかも知れん、と連絡してきたのは、3日前のことだった。何回かメールの遣り取りがあった後、結局は昼の休み時間を利用して、直接会って話すことになった。
今の自分には肩身の狭いところがあるから、正直気の進まぬ会見ではある。しかし、あの苛立たしい職場に残った、仲間のことは気掛かりだった。
元の勤め先近くの、隠れ家風な喫茶店が落ち合う場所だった。3ヶ月前までは、休日でも当たり前のように利用していた最寄り駅に着く。ホームに降り立ってみてふと、平日のこんな時間にこの駅を利用するのは初めてだと急に気付き、思わず足を止めていた。見回してみれば、人も時間も、酷く穏やかに歩いているように感じられる。この驚くべき場違いな印象に、きっと足が竦んだみたくなったのだった。
腕時計を見ながら人影まばらな改札を抜け、真っ直ぐ待ち合わせ場所へ向かおうとした。そこへ携帯がメールの着信を告げてくる。開いてみると、件の元同僚からだった。
今朝、問題が解決した。
会って話すのはキャンセルでよろしく。
彼は携帯の液晶を長いこと睨んでいた。強い目付きで念を送るようだったが、どれだけ待ってみてもこれ以外の文面は炙り出されてこなかった。仏頂面で、断ち切るように強く携帯を閉じる。元同僚よ、お前もか。
つまらないことで時間を持て余すことになったが、ここまで来て何もせずに帰るのも癪だった。以前やろうと思い立ったまま、忘れている用事はないか。彼は思い出そうとする。
春はまだ浅いが、穏やかな風は南寄りのようで、日差しも暖かな日だった。何か慰められたような気がした彼は、たまには散歩もいいだろうと、気紛れにしても彼には珍しい選択をした。向かいかけた方角とは、反対の方へ足を向けた。
8年間利用した駅だったが、片側2車線の大通りを渡らずにこちらの方へ来るのは、今日が初めてだった。一旦気紛れを起こすと何やら調子づくようで、こうなったら足の向くまま歩いてみるか、心を空っぽにして行くことにした。
最初は言い聞かせながらだったが、いつの間にか本当に心が空っぽになっていたらしい頃、彼はふと行く手に、ビルの谷間には異質な、小高く伸びる、ひとむらの木立の梢を見付けた。興味を引かれそのまま近付いていくと、それらは公園の敷地の境界に、ぐるりと植えられた木立だと分かった。彼は、こんな所に公園があることを初めて知ったが、自然が不自然に見えるという不自然さにも、この時初めて思い至った。
公園の入り口まで来て、ちょっと立ち止まった。それは、一周歩いても5分とかからなさそうな、小さな公園だった。周りの木立のせいで中は少し暗く感じられる。けれども、それは強い照り返しばかりで痛ましい街の中にあって、ほど良く和らいだ印象の暗さだった。空気の騒がしさも、ここでは落ち着いて好ましくなっていた。
これは居心地が良さそうだ。彼は誘われて、足を踏み入れた。
入ってすぐの植え込みを回った所に、それを背にして置かれた、一脚の木製ベンチを見付けた。座面の安全を確認してから腰を下ろし、一息つく。
彼は首を巡らせた。同じようなベンチが数脚、丸いガラス玉を頭に載せた、3本の背の高い照明は適当な間隔で設置され、地面には落ち着いた色合いの舗装材が敷き詰められている。彼の後で背を覆うような低い植え込みは、他にも似た感じのものが幾つか島のように散らばっていて、それらの根本には乾いた土が覗いていた。
オフィス街の昼食時だというのに、彼以外、この質素な公園には誰もいなかった。ランチを屋外で楽しむのに差し支えない、それくらいの陽気だったが、空調で管理されたビルに籠もっていると分からないのだろう。彼はちょっと愉快だった。
ダウンジャケットのジッパーを全て下ろし、ずるずると尻を滑らせて、背もたれに頭が乗るように座り直した。そうして、向かいのビルのガラスで出来た壁面を、見るともなく見ていた。
後ろの植え込みが、かさかさと音を立てた。暖かな風が優しく頬を撫で、ほのかに甘い、多分何かの花の香りを運んできた。意外な風のようだったが、彼はこの時、この辺りの歩道にも珍しくない、緑化目的の花壇に植えられた草花のことを思った。気の早い春の風が、何処からかその香りを運んできたのだと、ぼんやり考えた。
不意に陽が陰り、額や頬にさらさらと当たるものがある。植え込みの根本の乾いた土が、風に飛ばされてくるのだろうか。その割には刺激が長く続くようで、しかも特に頬の辺りを、集中的にくすぐられるみたいだった。ぼんやりしたまま、彼は指先で右頬を掻いた。
彼は我に返った。いつの間に回ったのか、太陽が向かいのビルのガラス面に強く反射して、彼の目を焼いたのだ。顔を背けながらちょっと悪態をついて、きちんと腰掛け直した。
彼ははっとして立ち上がる。相変わらず彼以外誰もいない、貸し切り状態の公園だったが、他のベンチに移ってゆっくりし直そうというのではなかった。彼は気忙しくならざるを得ない人だった。それを急に、思い出したようだった。
何故普段の彼を忘れていたのか、その疑問も既に他の関心事の下に塗り込められてしまっている。彼は足早に、公園を後にしていた。
帰りがけに、今日が特売日のドラッグストアへ立ち寄ったのは予定通りだった。5箱組のティッシュの束二つと日用品あれこれ、一人暮らしのアパートに戻るとすぐ、玄関先の床に無造作に放り投げた。苛立ちは、いつものようにどこかへしまい込まれていくどころか、一切の分解作用を受け付けないまま、いつまでも喉元に居座るようだった。単に時間を無駄にさせられただけではない不快感が、それ故に、彼にしつこく付き纏っていた。
部屋に上がり、ハロゲンストーブのスイッチを入れた。ダウンジャケットを脱いでポケットを探る。財布と IC カードを収めた定期入れはすぐに出てきたが、携帯だけが定位置になかった。彼は長く重々しく息を吐きながら、他のポケットにも手を突っ込む。最後に乱暴にまさぐった内ポケットに、それの感触を認めた。
携帯を一気に引き抜くと、一緒に飛び出たそれが床に落ちたのだった。怪訝な目を向ければ、小さく折り畳まれた紙片のようである。彼は片方の眉だけを上げる。全く見覚えのない物だった。
拾い上げ、表、裏と返してみた。素性を明らかにするような手掛かりは何も見えず、ただそれの淡い桜色の地だけが目に留まる。しかし、その折り畳まれ方は特徴的で、角を上手く自身の中に折り込んで、自然と開かないようになっていた。何やら封筒代わりの折り紙にも見えるが、全体を指先で探ってみても、何かが包まれているような感触は無かった。
ためつすがめつしている内に、その紙片からほのかに甘い、多分何かの花の香りが立ちのぼってくる。
彼はちょっと虚を衝かれるが、その香り自体には心当たりがあった。
場所はあの小さな公園だ、ベンチにいる時、風が何処かの花壇から運んできて…
彼は我が内で突如始まった、異様な出来事に目を見開いた。
記憶を手繰っていた理性が、手を止めておののいている。
それの指先で、記憶が二つに、つぅと剥がれていくのである。
彼はダウンジャケットのジッパーを全て下ろし、ずるずると尻を滑らせて、背もたれに頭が乗るように座り直した。そうして、向かいのビルのガラスで出来た壁面を、見るともなく見ていたのだった。
後の植え込みが、かさかさと音を立てた。彼女がゆったりとした足取りで現れて、ベンチと植え込みとの間の、彼女の細身なら通路にもなる隙間に入り込んできた時に、常緑の葉を揺らしたのだった。
彼の真後ろで立ち止まるまでに、その優雅な動きで彼女は風をそよがせる。彼女の温もりが、優しく彼の頬を撫でていった。ほのかに甘い、彼女という花の香りが後に残った。まるで気の早い春の風が、何処かの花壇から草花の香りを運んできたようだと、彼はぼんやり考えた。
不意に陽が陰る。彼女が膝を折り、後から彼の顔を覗き込んできたのだった。肩よりも長く伸ばした黒髪の、左手だけでは押さえきれなかった一房が、彼の額や頬に軽く触れる。彼女は最初びっくりして、けれどすぐに身を引くことを止めた。笑いを堪えるような表情で、暫くの間そのままの姿勢でいる。彼は何も抗議できなかった。ただ指先で、右の頬を掻いてみた。
それまでは軽く折った膝の上にあった彼女の右手が、急に閃いた。封筒のように折り畳まれた淡い桜色の便箋が、彼の上着の内ポケットに滑り込んでくる。彼は戻っていく細い指先に、薄く何かの傷痕が残っているのを認めた。追った視線は自然と彼女の、逆さに見ても整った顔に辿り着く。そこには思い掛けず、親しみの籠もった笑顔が浮かんでいた。見蕩れようとして、それは視界の外へ引いていく。更に追いかけようとして、彼は我に返った。いつの間に回ったのか、太陽が向かいのビルのガラス面に強く反射して、彼の目を焼いたのだった。
回想をしていた彼も、ここで我に返った。額にじっとりと汗をかいていた。
彼がやって来てから立ち去るまで、あの公園には彼以外の誰もいなかった。だらしのない格好でぼんやりしていた間さえ、ビルのガラス、小鳥の小さく鳴く声、目にしていた景色や耳にしていた物音の記憶ははっきりしている。誰も彼に近付く者などいなかったし、足音すら聞かなかった。何度思い返してみても、その点に間違いはなかった。
しかし、たった今回想された彼女の一連の振る舞いも、夢で見たことの取違えや、この場の幻視などではないのである。確かに彼と彼女は、誰もが訪れられる当たり前の公園で、在り来たりの時計が刻む一時を消費していた。こちらも何度思い返してみた所で、疑い得ない事実だった。
要するに、経験がセル画のように重なっているのである。まるでこの時だけ、違う二つの人生を同時に生きていたみたいだった。彼は暫く、身動きが出来なかった。
どれくらい硬直していたものか、彼はようやく、手の中の紙片が混乱収拾の鍵でもあることに気が付いた。
紙片を開きにかかる。指先が震えている以外にも、案外手の込んだ畳み方で、広げるのに苦労した。
何度か破りかけ、その都度息を整えて、ようやく開いた。それは確かに便箋だった。
もどかしく目を走らせる。そこに瑞々しい手で書かれていたのは、こんなことだった。
『私の物語を作るのを、手伝って欲しいのです。
明日、お返事をください。』
たっぷりと5分は、この短いメッセージを見詰めていただろう。
しかしこの鍵は、どんな扉も開かなかった。
腕組みをしてみた。髪を掻きむしってみた。他の役立たない行為もあれこれ、馬鹿みたく半時間の内にやり尽くした。
結局、それは単純に四つ折りにされ、普段はパソコンデスクとして使っている机の引き出しの奥の方へ、そっとしまい込まれることになった。
3.
翌日の夕方、彼は近所の公立図書館で知的欲求を満たそうとしている。ここへは最近良く立ち寄るようになった。考えると気が滅入るが、これまでの短期的(楽観的)貯金運用計画に加えて、中長期的なそれの必要性も強く感じ始めているこの頃だ。節約出来ることは、全てしたかった。
ダイヤモンドとエコノミストの週刊経済誌2種、ナショナル・ジオグラフィック日本版、そして新潮社のガルシア=マルケス全小説の中から、『コレラの時代の愛』を借りた。
時間を見計らって出掛けてきたので、買いつけのスーパーのタイムセールスには、当然最初から参戦した。
借りた書籍と合わせて、思ったより多くなった荷物を抱えて一人住まいに戻った頃には、辺りは暗くなっていた。
早速夕飯の支度に取り掛かる。今夜は安かったホッケがメインだ。そしてニンジン、タマネギ、キャベツ、ピーマン、シメジ、その他もろもろ、彼お得意のごたごた炒めを山盛り作った。小分けして食べていけば、数日分のビタミン・ミネラル源になる。
ささやかではあるが、バランスの良さそうなメニューがローテーブルの上に並んだ。さてあぐらをかき、一人で食べる侘びしさを紛らわせるために、借りてきた雑誌を読むことにした。ナショナル・ジオグラフィックを選んだ。
片手で最初のページを開こうとしたら、不自然に開きやすい箇所があった。気になって調べてみる。花の香りが、ふわりと漂う。
封筒みたく折り畳まれた淡い桜色の便箋が、しおりのように挟まっていた。
彼は弾かれたように立ち上がり、机の引き出しを開け、乱暴に引っ掻き回した。
昨日の便箋がごく常識的な四つ折りのまま、小物の下から見付かった。雑誌の間から出てきた物と、疑いようも無く2通になった。
彼は図書館にいる間、これら借りてきた資料を片時も手放さなかったし、貸し出し手続きの際にも、作業する職員の手元をずっと見ていた。借りた後は、すぐに水濡れ対策のビニール袋に包み、蓋のついた肩かけ鞄の中にしまっている。
つまり、雑誌が手に取られてから彼の目を盗もうとするのは、ほぼ不可能だったはずなのだ。しかし彼女は、こうして2通目の手紙を届けている。こちらの行動が予見されていたのか。馬鹿な、と言いたいところだが、彼女との出会い方を考えれば、むしろそれも可能性の一つと見なければならないようだった。
気が付けばまた指先が震えだしている。再び苦労して新しい手紙を開き、彼は彼女の言葉を聞いた。
『なぜ、お返事をくれなかったのですか?
と思ったのですが、良く考えたらどうやってお返事すればいいか、言ってませんでした。
書いたお返事を持ち歩いてください。
じゃあ、私のお手伝いをしてくれるのかどうか、明日はきっと教えてね。』
安物の事務用椅子に、彼は倒れ込むようにして身を預けた。その拍子にアームレストが机にぶつかって、iMac の脇にあったペン立てがひっくり返る。机の引き出しを勢いよく開けて、B 5 のレポート用紙を引っ張り出した。扇状に広がったペン立ての中身から、使い慣れたシャープペンを探し出した。用紙を1枚破り取る。
君はだれ?
書き殴って頭を振った。破って丸め、屑籠へ投げ入れた。最初からやり直す。
分かった。手伝うよ。
右手を押さえつけるようにしながら、1字1字苦労して書き付けた。小学生が書き取りの練習をやらされているような惨めな有様だったが、書き終わった後、彼の心は満たされていた。何故かは分からない。彼女を受け入れられた自分が、なんだか誇らしく思えたのだった。
とにかく、彼は催促された返事を書いた。折り畳もうとして手を止める。素っ気ない折り方はやめて、彼女の折り方を真似てみようと思い付いたのだった。
何度かお手本を折ったり開いたりして、折り方を研究した。うん。初めてにしては、上手く折れたんじゃないか。
便箋にも気を遣おう、明日、出先で買おう。そんな考えも浮かんできた。
その翌日。彼の姿は、開館のその時からハローワークにあった。新しい求人は出ていないか、めぼしい求人を見逃してはいないか。いつもの精査である。
しかし、今日は全く身が入らなかった。鞄に入れた彼女への返事が気になって仕方なく、5分に1回は中を覗いていたからだ。折れてしまわないようにとクリアファイルに挟んだ返事は、確認をする度に相変わらずそこにあり続けた。
いつもと同じように午前中一杯を活動に当てるつもりで来ていたが、結局やり切れなくなってしまった。すっかり重くなった頭を振りつつ、中途半端な時間にハローワークを後にした。
昨日プログラミングしておいた通り、足は自動的に文房具店へ向かっている。規定の歩幅で歩く間も、きっちり2分38秒に1回、鞄を開け閉めしていた。
向かった文房具店は、3フロアでかなりの床面積を誇る、漫画の道具や本格的な画材なども扱っている店だった。ここならレターセットもたくさん扱っているだろう。昨日頭の中でハローワーク周辺の地図を思い浮かべた時、いくつかある店舗の中で、そう見当を付けていたのであった。
店内には、想像以上に豊富な種類のレターセットが取り揃えてあった。最初は途方に暮れたが、やがて吟味に没頭した。両手に見比べては思いに沈み、時折天を仰いだり溜息をついたりした。ふと人の気配を感じて顔を向けると、少し離れた所にいた女子高生が二人、慌てて顔を背けた。その後もお互いを肘で突き合い、ちらちらとこちらを見ては、クスクス笑っていた。
急に決断の神が降りてきた。青インクの不規則な滲みが、上手く意匠化されている商品が彼の手元へ飛んできた。彼女が使っているものに似て、シンプルな印象が好ましかった。
会計を済ませ、鞄の中へしまおうとしてはっと思い出す。
返事は、まだあった。
返事を持ち歩け、と彼女は言っていた。机の引き出しにでもしまっておいて、たまにチェックする以外は気にも留めずに普段通り過ごすとか、そんな片手間なことでは駄目だと思った。彼は用も無い街を、切実な用を抱えてさまよった。
そうこうしている内に昼時になってしまったが、いつもの節約自炊という訳にはいかない。侘びしさと経済的妥協点を秤にかけて、ファストフードでテイクアウト、ただし飲み物は自販機で、と方針を決めた。
店を出ると、駅前のアーケード街へ向かった。軒を連ねる店には未だに昭和の面影が残るようだが、数年前の改修によってアーチ型の天井自体は明るく、元から通路幅もある場所だった。その中の酒店に、店先に自販機と平台のようなベンチを並べている所がある。そこで昼を済ますつもりだった。
自販機の前では、たくさん歩いたし、この後も歩き回るかも知れないので、500 ml のお茶を選ぶことにした。ごとり、とくぐもった音を確認して、取り出し口のプラカバーを持ち上げる。
ほのかに、花の香りが立った。
彼はゆっくりと鞄を開いた。彼女への返事は、いつの間にか無くなっていた。
『返事のこと気にしすぎ!
いつまで経っても受け取れませんから。』
急いでベンチに腰掛け、今はもうだいぶ慣れた手付きでスマートに折り目を開き、いきなり突っ込まれた。自らさまようことを求めていたのかと、彼はがっくりする。
『でも、手伝ってくれるんだね。ありがとう。』
彼はほっとした。こちらの間の悪さに、特にお冠という訳ではなさそうだった。
『じゃあ、改めて相談なんだけど。
私の物語を、一緒に紡いで欲しいんだ。』
そのために必要な彼女の数年間を、彼は既に知っていた。たった今、ふと知っていることに気が付いたのだが、異なる人生を同時に生きているかのような危うさは最早感じない。心理学の教科書でおなじみの“ワイングラス、もしくは向かい合った二人”のイラストは、ご存じの通り意識の仕方で見え方が違ってくる。人の記憶の中にも、そのような意識の切り替わりによって“思い出され方”が全く異なってくる記憶がないと、何故言い切れるだろう。彼は見えてきたばかりの古い記憶を、穏やかな気持ちで思い出した。
彼女は、中堅の工学系単科大学を首席で卒業し、大手精密機器メーカーに就職、一貫して電子回路の研究開発を担当してきた才媛だった。女性でバリバリの理系とはかっこいいと、文系の彼は子供っぽく感心する。
彼女は勤勉で独創力があり、活発で、人の意を汲むのも得意なら、そうして誰かと議論を交わすのも好きだった。だから社内では信望もあって、若くしてプロジェクトリーダーの地位にある。最初の手紙を渡す際、見せてしまったあの薄い傷の痕は、徹夜で部下の回路デバッグに付き合って、ついぼんやり、ハンダごての先(ハンダを融かすのだから当然熱い)を握ってしまい、やけどした痕だった。
『これから先、私はどうしたらいいだろう?』
続きを読み始めて、彼はぎくりとした。追憶の中の彼女は、憧れるほど順風満帆で輝いて見えたが、彼は表面的なことしか覚えていなかったのだ。彼女が急に本音を打ち明けてきて、打たれたような気分だった。
本当の彼女は、仕事でのこれからに悩んでいる。そう理解した。
『追伸:男の人がこの折り方をするのって、なんだかおかしいね。』
手紙の締めくくり、彼女は晴れやかに笑うようだった。
照れ臭いのと、彼女を身近に感じられたのとで、彼も笑顔になっていた。より良い環境で仕事がしたい、安定のために強く変化を求めた点で、二人は繋がっているのではないかと思われた。こんな相談なら、親身になって返事が書けそうだった。
今は落ち着いた気持ちで昼を済ます。その間に、返事の内容もまとまった。
よし、と立ち上がる。食べ終わった後は全て紙屑だった、丸めて5歩離れたゴミ箱に狙いを定めれば、見事に投げ入れられた。駅に向かって走り出しながら、ナイスシュートを見届けた。
次の日は、セール狙いで煩雑なルート踏破を敢行しなければならないとしても、いつもとは違う軽い足取りで回ることが出来た。
昨日は帰宅してすぐに、彼女への返事を買ったばかりの便箋に書いた。仕事での自分のこれからをどう組み立て、実現していくのか。それは、今の彼にとっても最大の関心事だった。具体的なアドバイスが出来たと思う。
彼は、彼女のキャリアついて二通りの行き方を考えてみた。要約すれば、
A:現職を続けることで更に信頼を積み上げ、裁量権を増していく。
B:経験・実績を武器に、より重用されそうな他社を探す。
妥当ではなかろうか。
返事の内容を反芻している内に、いつの間にかアパートに戻っていた。自室の前に立つが、鍵を取り出す代わりに思案顔になる。
出掛ける時に携えた、その返事は既に消えていた。受け渡しは済んだと思わせる一方で、彼女からはまだ何も返ってきていなかった。
荷物を置いて、もう一度その辺を適当にぶらつこうかと考えていると、郵便配達のバイクが近付いてきた。もしやと思い、ドアの前で様子を窺う。
挨拶をしながら、配達人は何通かの封書を手渡してきた。愛想良く挨拶を返して、それらを両手で受け取った。
早速調べてみると、果たして、宛名無しの彼女からの手紙が、ダイレクトメールの束の間に挟まっていた。
ローテーブルの前にあぐらをかき、いつものように折り畳まれた手紙を、逸る気持ちのまま、ちょっと乱暴に広げた。
そして彼は息を飲んだ。望んでもいないのに空で言えるようになってしまったあの嫌みたらしい文面に、全く無防備のところを襲われたのだった。少々のぼせ気味だった頭から、一瞬で血の気が引いた。
『…様
お送りいただいた書類を元に慎重に検討いたしました結果、
残念ながら今回は貴意に沿うことが出来なくなりました。
悪しからずご了承下さい。
末筆ながら、貴女の今後のご健闘をお祈りしています。
株式会社 ○□
採用担当 □□』
遠くの方から、彼女の溜息が聞こえてくる。
『こんなお返事受け取っちゃったよ。
あなたのアドバイス、無駄になっちゃったみたい。』
吐き気を催すほどの頭痛で我に返れた。心臓がこめかみで早鐘を打っている。一度引いた血が、頭蓋の袋小路へ狂ったように戻ろうとしていた。俺は頭を割られたのではないか。
社会に出た人間にとって、そして社会そのものにとっても、生きた実務によって年輪を太らせた経験は、掛け替えのない財産である。この考えに間違いはあるだろうか。あるならば採用担当者は何を信頼して、応募者の即戦力性を見極めるのか。
これはもう公理のようなもので、彼の中では動かしがたかった。そうだ。彼女は初めて転職に関わったのだ。きっと誰もが一度はやるように、応募書類の書き方という小石に、今回はちょっとつまずいただけなのだ。
だが、自分は。そう考え始めたと気付いた時、いきなり崖の縁に立っている自分を見付け背筋が氷ったが、思考の連鎖は容赦なく背中に刃を突きつける、彼はあっさり落ちた。だが、自分は。応募書類については研究し尽くし、なお開かぬ門の前で立ち尽くし続ける。自分は一体、なんなのか。
そうは思うまいと、繰り返し言葉の届かない深みへと突き沈めていたことが、元からそうであったように、言い表せる場所に置かれていた。8年間、自分が必死になって太らせてきた年輪には、最初から腐りが入っている。それを適材と認め欲しがる人など、誰もいやしない。
やっぱり、そうなのか?
テーブルの上に落とした手紙を見詰めたまま、彼は長い時間、身じろぎ一つ出来なかった。
4.
心の底が抜けてしまえば、全ての活力はそこから虚空へこぼれていく。墓石よりものろまな彼を置いて、星は巡りを始め、朝に辿り着く。彼は彼女の手紙の前でうなだれたままだ。そして今日も、彼以外の全てはいつも通り移ろっていく。
彼はふぅっと顔を上げた。100年に一度の花が開くようだった。まどろみと100年の堂々巡り、自分はどちらから戻ってきたのだろう。水底で膝を抱えたまま、ぼんやりと考えた。こんな有様になってから日付が変わり、その日の太陽もとっくに沈んでいることに、彼は思いも寄らない。
胃がぶつぶつ呟きながら自身を咀嚼する音を、彼は聞くともなく聞いていた。余程暫くして、ああ俺は長いこと何も食べていなかった、その事に思い至る。テーブルの上には相変わらず彼女の手紙が落ちているが、今はその脇に、湯気を立てたカップラーメンと箸が添えられている。彼は自動的に箸を持った。黙々とラーメンを啜った。
ようやく人心地がついた。取り敢えず満足の溜息を吐き出すと、それに驚いた小さな人たちが、一人を除き我がちに物陰へ退散していった。残ったそいつは、他の者よりも押し出しが立派そうだった。目の合った彼に親指を突き立ててみせると、悠然と空気の中に溶けていった。
彼は頭を振った。シャワーでも浴びようと思った。
脱衣所でのろのろと服を脱ぎ始める。Tシャツさえ重たく感じた。
最後の一枚、トランクスから片足だけを抜き、下着を引っかけたもう片方を脱衣かごに向けて振り上げた。結果的に股が開く。すると、尻から突然何かが剥がれ落ちる、気持ちの悪い感触が背筋を伝った。
下着がかごの中に入るのと、それが床に落ちたのは、ほぼ同時だった。
封筒みたく折り畳まれた便箋が、彼の足の間に落ちている。尻の割れ目にひっそりと挟み込んであったのが、横着な行為によって発見されたのだった。
そうと知り、彼は情けない悲鳴を上げ、無様に尻餅をついた。
シャワーはやめにして、彼はハロゲンストーブの前に正座している。ストーブと彼との間には、先程の便箋が置かれてあった。それはしんなりしている。すぐに広げようとは思えなかった。
額に汗が噴き出てきた。彼自身に充分熱は通り、便箋も少し波打ち始めている。恐る恐る手に取って、開いた。二重の意味で緊張した。
『あなたが落ち込むことはないと思う。
私もね、ちょっと考え無しだったんだよ。』
自分の不甲斐なさに今更気が付いて、唇を強く噛みしめた。何で俺が励まされているんだろう。誰が彼女を励ましたというんだろう。
『手堅い展開のお話は好き。
でもね、もっと好きなのは、目の前に新しい世界が開けるような、そんなお話。
実りが約束されてるって思えるなら、多少の冒険だってどんと来いだよ。
あなたはどうかな?』
どうなのだろう?
正座をしたまま、彼は考え込む。
翌日の朝早く、彼はもうろうとして頼りにならない自分を持て余しながら、部屋着に上着を引っかけただけのだらしない格好で、朝食の入ったレジ袋を提げ、コンビニからの帰り道を歩いている。
あなたはどうかな? その問い掛けに答えるために、昨夜は徹夜だった。二日間、ろくに寝ていなかった。
朝食の買い出しというのは方便だ。彼女へ伝えるために書いたのだから、やはり折り畳んだ物は持ち歩かなければならないような気がした。だから彼は心地よい失神に抗って、ようやく起き出しつつある住宅街の中を、覚束ない足取りで歩いている。
不意に後ろから呼び止められた。緩慢な動作で振り向くと、先程買い物をしたコンビニの店員が、息急き切って走ってくる。
追いついた店員は、簡単な刺激にしか反応してくれなさそうな彼の前に、レジカウンターにお忘れです、遠慮がちに何かを差し出してきた。
懐かしく感じる花の香りが、ふわりと漂う。
幾らか目の覚めた彼は、ジャージのポケットに手を入れた。
案の定、返事は無くなっていた。
走ってアパートまで戻ってきた。早朝だというのを忘れて乱暴にドアを開け、自室に飛び込んだ。
運動不足の彼の心臓は、とうの昔に張り裂けそうになっている。それでも深呼吸一つせずに、震える手で淡い桜色の便箋を開いた。
『素敵なお話をありがとう!
私の先には、こんな世界もあったんだね!』
瑞々しい手が小躍りしいている。彼は一瞬息が詰まるようだった。そして盛大に、肺が空っぽになるまで安堵の息を吐き出した。膝が急に笑い出す。尻が沓脱ぎに、すとんと落ちた。
彼は知っている。彼女は電子回路のエキスパートだ。その分野での豊かで揺るぎない経験と、独創力を併せ持つ人だった。
そしてまた、彼女は話し好きでもあるようだった。人の意を良く汲めるから、会話を化学反応的、創造的なものとして、楽しんでいるように見えるのだ。
彼の中で、彼女が多角的に見え始めた。そこから想像が広がって、彼女のこれからが紡がれた。大学・高専・専門学校、活動の場は何処でもいい、工学系の教育者を目指してみるのはどうだろう。
部下に付き合って徹夜して、うっかり自分が痛い目に遭ってしまうような彼女だ、きっと生徒にも親身になれるだろう。研究者としては刮目され、教壇に立てば慕う生徒たちに囲まれる。遂に描けたと思った時、彼は天を仰いだ。眠りたがっている脳の反乱を恐れながら、必死になって彼の便箋に彼の思う未来の彼女を書き留めた。その間のことは良く覚えていない。白々と夜が明け始めた頃、ようやく彼は、自分が泣き続けていたことに気が付いた。
思い描かれた未来の自分へと、はや彼女は冒険を始めようとしているみたいだった。彼女の前に、ささやかでも新しい世界を開けたようだった。
彼女の喜びに、彼の心も共鳴している。へたりこんだままなのは、そう、今は苦しいからじゃないんだ。
それから一週間余りが過ぎた。
かつて無かったほど、有意義な時間であったように思う。この間に彼は、自分の前にも新しい世界が開きつつある、その確信を徐々に深めていた。彼女のこれからを考えたことで、自分についても色々なことが見えてきていた。
思えば、彼がこれまでの求職活動で主張していたのは、新しい職場でも今まで通りのことがしたい、突き詰めればその一点に尽きた。経験や実績、それらが大切なのはやはり間違いないが、そうやって今までの自分を恃みすぎることで、これからの自分(ひいては転職希望先のこれから)をほとんど提示できていなかった。微視的・巨視的に成長という視点が欠けていたのである。
しかし、中途で人を欲しがっている側から見て、そんな新しい何物をももたらしてくれなさそうな人間に、一体何の魅力があるだろう。それが空いたポストを埋めるための求人だった所で、やはり新味の無さはプラマイ0、結局は何もしてくれない人と等しくされるだろう。彼女と教育者という組み合わせは、既にそれ自体が新鮮な力に思えた。彼の場合は前職と同じ職を希望するのだから、なおさら自分はこんな新しい何かを持ち込める、その点のアピールは必要不可欠に思えた。
要するに経験を積む一方で、その経験を活かす知恵も身に付けなければならなかったのだ。ところで、自分の新味とは一体何なのか? 例えば、前職の営業活動で培ってきた人脈を新しい顧客として転職先に持ち込めれば、それまではその職場に無かった、新しい仕事を提案できるかも知れないな。そんな事は思い付くが、念には念を入れて、彼女の知恵も借りてみたかった。
彼は相談の手紙を書き、持ち歩いた。今までもポケットや鞄の中に、彼女との繋がりはあったのだ。
帰宅して、その手紙を挟み込んだクリアファイルを鞄から取り出す。今日もそのままあった。どうしてか、彼女が受け取ってくれないまま、時間ばかりが過ぎていた。もうかれこれ一週間以上、彼はあの花の香りを、新たに胸に吸い込めないでいた。
彼は思案した。忙しいのだろうか、それとも。暗澹たる気持ちになりかけるが、実にいいタイミングで素晴らしいことを思い付いた。もしかしたらそうかも知れないぞ、彼は目を輝かせる。この一時的な不通は、彼女とごく平凡な仕方で出会える、その前触れではないのか。
そう思うと居ても立ってもいられない。次の日、彼女との始まりだったあの小さな公園へ、早速出掛けてみた。植え込みを回って、あの時と同じベンチに腰掛けた。
勿論、時間も合わせている。今日は斜向かいのベンチに制服姿の OL が3人いて、昼食を広げていた。
ベンチの背もたれに頭を載せた。そうして、向かいのビルのガラスで出来た壁面を、見るともなく見ていた。
後ろの植え込みが、かさかさと音を立てた。彼は勢い良く振り返った。
コンビニの袋を提げた、背広姿のおじさんが立ち竦んでいた。そこに思いがけず人がいて、しかも待ち構えていた様子を見せたから、驚かされたようだった。
おじさんは不満げな目付きを見せると、奥のベンチを目指して行った。察するに、お気に入りの場所だったらしい。
彼は拍子抜けした。顔を戻し、座り直した。
そこへ風が来た。正面から、彼の頬を優しく撫でていった。
人肌の温もりを感じた。あの花の香りを吸い込んだ。
あっと思うと、彼女が囁いた。
『ありがとう。
そして、ばいばい。
自分のことには鈍ちんの、お人好しさん。』
彼は暫く呆然としていた。そして一転、弾かれたように大きな声で朗らかに笑った。 OL たちの視線を感じたが、気にしなかった。
うん、その通りだ。まだ喉で笑いながら、彼は今、彼女と自分に頷いていた。
なるほど、“会う必要のない男”か。
一頻り笑った後、一人静かに空を見上げた。
それは澄み渡り、とても高く見えるようだった。
(了)