まさかのお隣さんは、パティシエのタマゴでした。
「ふぐ。……くく、くくくく……」
経緯を聞いて
一ノ瀬さんは『苦しい!』と言った感じで
笑いを必死に噛み殺す。
必死に笑いを抑えるその姿が
いっそ哀れに思えて仕方ない。
「……一ノ瀬さん
もういっそ笑ってしまって下さい」
瑠奈さんにそう言われて
けれど一ノ瀬さんは
肩を震わせながら耐えに耐え、
静かに、のたうち回った。
「……」
もともと笑い上戸なのかも知れない。
ツボに入ってしまったようで
かなり苦しそうにしばらく喘いでいた。
「笑いすぎです……!」
「ふふ。……ふふふふふ。
ん、いやごめん。ふふ。だって一斤だよ。
結構な量あるのに
夜中にどうやって食べたの……っ」
くくくくく……と笑いは止まらない。
仕方がないので、瑠奈さんは
そのまま話を続けることにしました。
「とにかく、フレンチトーストが食べたいって言うから
結構多めに液を作ったのに
パンがなくては出来ないでしょう?
だから買い出しに出たところで
ここに迷い込んだ……と言うわけです。
当初の『フレンチトーストを食べる』は
クリア出来ましたが
問題は家にある卵液ですよ!
さすがにバニラオイル入りの卵液を
卵焼きにするわけにもいかないし
どうしたものかと……」
「ふふ。だったら、プリンにするといいよ」
目を細めながら
一ノ瀬さんは顔を上げる。
事もなげに答えを導き出したのでした。
「え? プリン」
紫子さんの目が輝く。
いやいや、まだ食べる気なの?
と瑠奈さんは眉をひそめる。
それを見て一ノ瀬さんは
再び必死に笑いを噛み殺し
言葉を続ける。
「ふぐっ。そ、そう……プリン。
その卵液は、卵と牛乳と砂糖とバニラオイル。
ミルクセーキとして飲むのもいいけれど
やっぱり俺のオススメはプリンかな。
今日はフレンチトースト食べちゃったし
甘いものをあんまり食べると、女の子としては
ちょっと困ったことにもなりそうだしね?」
要は『太るぞ!』と言いたいらしいんだけど
紫子さんにそんなのは通用しない。
「『困ったこと』?
晩ごはんが食べれなくなるとか……?」
「ふっ、……いや、そうじゃなくて」
ぐふっと笑いを呑み込み
一ノ瀬さんは続ける。
「まぁプリンでも
今日出来上がることは出来上がるから
食べてもいいってお許しが出れば
食べればいいんだけど……」
そう言って一ノ瀬さんは
瑠奈さんをそっと見る。
ふるふると頭を振る瑠奈さんに、
突如呼吸困難に陥ったかのような一ノ瀬さんは
ゴホゴホと咳払いをして、笑いを誤魔化し
真面目な顔で紫子さんに向き直る。
「……ゴホン。
えっとつまりだよ。
君はパンを昨夜ひとりで食べちゃっただろ?
しかも瑠奈さんに内緒で……!」
一ノ瀬さんに言われて
紫子さんはハッとしたように押し黙る。
「……はい」
「君はきっと瑠奈さんに叱られたはずだ。
『夜中にそんなに食べてはいけません!』って」
「……う。その通りです」
しゅん……となった紫子さんを見て
一ノ瀬さんは少し息を吐く。
「……確かにね、美味しいものって、たくさん食べたいよね。
夜中夜更かししちゃうと、お腹も空いてしまうし……。
だけどね──」
一ノ瀬さんは続ける。
「それは多分、
食べ物に対しての冒涜なんだよね……」
「冒涜……?」
「そう、冒涜。
だってさ、無駄に食べちゃった食べ物たちって
多分ほとんど消化されなくって
生き物の『力』にはならないんだよ」
「力にならない……?」
一ノ瀬さんは
紫子さんの言葉に頷く。
「そう。消化されずにそのまま腸に行っちゃうとか
脂肪になって蓄えられるとか。そうなっちゃうの。
フレンチトーストとかプリンとか
所詮はお菓子だからさ
本当はあまり食べない方が
良い奴なんだろうけど、でも、……」
そう言って一ノ瀬さんは遠くを見た。
「でも、……食べると幸せだなぁって思えるから、……。
そうだなぁ。なんて言うんだろ?
『幸福を感じる程よい量』? は、
守って欲しいなって思う。
そう。……作る側からするとね
確かにたくさん食べて欲しいって思うし
残さないで欲しいって思う。
だけどさ、適量ってあるだろ?
本当に心の底から喜んで食べて欲しいし
しっかり体の『力』にもして欲しい。
だから、無理してたくさん食べるんじゃなくて
ちょっと足りないかな……でも満足。
美味しかったな、また食べたいなって思うような
そんな量を食べて欲しいなって」
「……」
「……」
ジーッと見つめる二人を見て
一ノ瀬さんは我に返ってハッとする。
「あ、あっ! ごめん!
なんか俺、変ななこと言った……!」
真っ赤になって口を塞ぎ、顔を背けるその姿が
なんだかとても好感が持てる。
確実に年上なのに
可愛いとすら思ってしまう。
「違う! 違う違います。そうじゃなくて
一ノ瀬さんの言葉って
その通りだなって思ったんです」
紫子さんが、ふるふると頭を振った。
「だって私って、すぐ美味しいものに飛びついちゃって
たまに後悔する。
きっと、そういう事だったんだなって
今思ったから……」
その言葉に、瑠奈さんがウンウンと頷く。
「そうです。紫子さんは
特に注意が必要です!
ところで一ノ瀬さん?
私、プリンは学校の授業でしか作ったことがないんですよ。
アレって難しいんでしょう?
先生が言ってました。
『火加減を気をつけないと、すぐスが立つ』って」
「『す』?」
紫子さんが首を傾げる。
一ノ瀬さんは笑って説明する。
「鬆……『気泡』のことだよ。
高温で蒸すと、いわゆる沸騰してしまって
そのまま固まるんだ。
口触りも悪くなるし、味も落ちる。
低温でゆっくり火を通せば『鬆』は入らないよ」
「……」
ニッコリ微笑んで言うけれど
そもそも『蒸し器』なんて
紫子さんと瑠奈さんは持っていない。
「あ……。蒸し器がなくても
普通のお鍋にお箸を底に置いて……。
…………あ。うん、いや、
……もうそれ作ってあげるから
ここにその卵液って、持って来られるかな?
家はここから近いの?」
その言葉に、二人の顔がパッと輝く。
「もちろん持ってこられます!!
まさかのお隣さんです! よろしくお願いします!」
かくして、瑠奈さんの作った
フレンチトーストの卵液は
一ノ瀬さんに
託すことになったのでした。