クソ野郎はプープソングを歌う
「ミック! なんてエライんだ! きみのウンチは最高だよ!」
おまるから離れた未来に、おまるを掲げて中身を見せつけるバカがいる。大喜びで、でかい声で。
未来はケツを出したまま、きょとんとした顔で首を傾げる。そして褒められたのかと、ケツ丸出しのままキャッキャと飛び跳ねる。
おい、待て! まだケツ拭いてねぇのに!
それに。
「ミックじゃねぇ! みくだ! つーか、みく、待てっ! そっち行くな!」
俺の制止なんざ聞きもせず、未来が歓声をあげながら、バカに駆け寄る。
バカはデレデレと見苦しい顔をして両手を広げ、勢いよく未来を抱き上げ。そしてぶんぶん振り回し始めた。両脇に手を入れて『たかいたかい』から、グルグルと遠心力でぶん回すアレ。
てめえ! 揺さぶられっ子症候群を知らねぇのか!
「おい! やめろっ!」
バカが未来を落とさないように気をつけつつ、バカの肩を掴む。
両眉を上げ、下くちびるを突き出す、腹立たしい顔をこちらに向けると、バカが未来を下した。と同時に、未来のケツから、ぽろりと茶色い固形物が床に落ちる。
コロコロ。
ラグの上まで転がっていく。バカと俺の視線が茶色い物体の行く末を追う。バカは「ウンチが……」とつぶやいた。
てめぇのせいだろ! クソ野郎が!
あーあ……。
あのラグ、君江、気に入ってたよな。泣くかなぁ。まぁ泣きはしねーか。さすがに。これまでも未来が汚してきたもんな。でもなぁ。
いや、未来のクソ、硬そうだし。転がったところ拭いときゃいいかな……。
疲れた。
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いつもいつも、顔を見せるたび。混乱と嵐を引っさげてやって来て、こちらにスーサイド・スクワッドが闘ったあとみてぇな爪痕を残すくせ、自分はクソしたあとみてぇなスッキリした顔で去っていくクソ野郎。誰のことだかわかるだろ。
あのカナダ人ポップスター、ゴシップのプリンスだって日本じゃ大人しくしてる。
それなのにロックスターを自称するアイツは――自称ってだけじゃねぇのはわかってるよ、認めるよ――全く馴染みもねぇくせに、日本語もろくにしゃべれねぇくせに。ここがホームだって大暴れ。
そのクソ野郎が来日する、少し前のこと。
未来を寝かしつけてリビングに戻ると、君江がダイニングテーブルの上でノートパソコンを開いていた。
「おつかれさま」
俺に気がついた君江が顔を上げる。
オレンジ色のダウンライトに照らされる白い頬。目の下にはうっすらと青黒いクマ。肌が白いから、一層痛々しく見える。
普段俺が仕事のときは、どうしても君江に任せきりの育児。まれに早く帰宅できたときや休日。俺にできることはなんだろう。君江が俺にしてほしいことはなんだろう。
「おー。すぐ寝たよ。最近、寝つきいい?」
椅子をひいて君江のとなりに座る。君江はマグカップを手に、少し考えるように首を傾げた。
「うん。そうだね。あったかくなって外でよく遊ぶようになったからかな。日中外に出ると、やっぱり疲れるんだと思う」
「それは君江もだろ」
「うーん。疲れてないわけじゃないけど……」
君江は両手で包んでいたマグカップをテーブルに置くと、ニヤッと笑った。
「それは充もだろ」
一瞬、言葉に詰まった。君江はニヤニヤ、俺の反応を伺っている。
君江は知っている。俺が君江に限って、そういう真似を嫌がっていたことを。
確かに嫌だった。やめてくれとも言った。
「疲れてねぇとは言わねーよ。そりゃさ」
君江の肩に腕を回して頬にキスをすれば、君江はパチパチと目を瞬く。
「……あれ?」
君江が首を傾げる。
おかしいな。俺が嫌がってないぞ。とでも思ってるんだろう。
だけど君江は知らない。
俺の存在と影響がまるで真っ白なキャンバスに描かれていくように、目に見えてわかること。俺が君江に限って、そういう真似を喜んでいることを。
「なに?」
わかりやすく戸惑う君江に、もう一度キスをする。今度は額に。君江が笑った。
「ううん。充さん、機嫌いいね?」
「やっと休みだからな」
やっと週末。ようやく家族だけで過ごせる時間。それから。
「そうだね。二人きりの時間も、できたね?」
君江の手が俺の頬を撫で、それから耳をくすぐる。顔が近づいてきて、鼻先が触れて、目が合う。君江の吐く、湿った息が唇にかかる。ほとんど唇は触れていて、そのまま会話だけを続ける。
「する?」
「しない」
唇に触れる息は熱を帯びていたのに、君江は即座に断った。
「なんだよ。誘ってんじゃねぇのかよ」
不満は口にするものの、君江がそういう気分じゃねぇのは、なんとなくわかっていた。
「したかった?」
「……そりゃぁ……。でも無理させたいわけじゃねぇから」
「ごめんね。今日はしたくない。でも触れ合いたい」
「ワガママ」
「知ってる」
君江は少しも悪びれずに、いたずらっぽく笑う。生ぬるい吐息がふわっと口の中に入ってくる。君江の細い指が俺の首すじを、上から下へ、ゆっくりなぞっていく。
まじでワガママ。そう思う。だけど。
「いいよ。それで。じゃあ君江は何してほしい?」
疲れているだろう君江に、ゆっくり休んでほしい。睡眠時間はきっと不足している。
「抱っこ。あとキス」
君江の腕が背中に回される。俺の首の後ろと、腰のあたり。左右それぞれの腕に、ぎゅっと力が籠もった。
「未来みてぇなこと言ってら」
肩を抱いていた手はそのままに、左腕を君江の膝裏に入れて抱え上げる。それから君江の座っていた椅子に座り直し、膝の上にのせた。
「いいんですぅー。今はあたしが充さんに甘えていい時間なんですぅー。お母さん業は明日になるまでお休みなんですぅー。充さんはあたしを未来以上に甘やかさないといけないんですぅー」
「ふーん。んじゃ、このまま寝かしつけてやろうか? 子守唄いる?」
「ヤだ。夜更かしする」
「夜更かしって、おまえ……」
君江の頬をブニブニと揉んでいると、君江が拗ねたような調子でねだった。「キスは?」と。
鼻をつまんでやってから唇を塞ぐと、君江が「殺す気か!」と俺の胸を叩いた。
「いや、寝ろよ」
「えっ。死ねってこと? だから息させないようにって?」
「ちげーよ。アホ。疲れてんだろ。休めよ」
君江はバツが悪そうに視線をそらす。それから俺の肩に、頭頂部をグリグリと押しつけてきた。
立ち上るフローラルフルーティー。シャンプーの匂い。
シャンプーもリンスも。同じものを使っているのに、君江から香ると全然違うように感じる。
年を重ねても、女を意識し始めた頃の、あの思春期の頃とたいして変わらねぇ単純な部分。それが胸の奥を締めつける。
優しくしてやりたい気持ちと、力いっぱい抱きしめたくてたまらねぇ気持ちと。たかがシャンプーの匂い一つ。それがトリガー。たくさんあるうちの一つ。
肩口が湿る。君江が口を開いたからだ。
「……寝た方がいいのはわかってる。でも、ちょっとだけ。ちょっとだけ、育児じゃないことがしたい」
君江に早く休んでほしいのは本当。
それでも、ただ無為にネットをしたり、読書をしたり、映画を観たり。好きに過ごす時間が欲しい君江の気持ちも、尊重したいとは思う。
「そっか。そうだな」
「うん。だから充さん、ぎゅってして」
理解のある旦那を振る舞いたいなんていう見栄。
そうだよ。見栄だよ。苛立ったり、不満に思うときもある。当たり前だ。聖人君子じゃねーんだ。
どんだけ下手に出てんだとか、尻に敷かれてんぞとか。
いいだろ、それでも。
お父さんとお母さんじゃなく。俺と君江、夫婦二人。男と女、二人。
そういうのがあったっていいだろ。
もたれかかってくる君江の頭を撫でて、そのまま胸に寄せた。
「んで、君江はなに見てたんだ?」
「うん、あの。それがね…………充さん、これなんだけど……」
目に入ってきたのは、ネットニュースの見出し。『ジョン・バーガー、おまるを購入! 新恋人との間にベイビーが!?』という太文字。海外セレブゴシップサイトの一ページ。
ジョン・マシュー・バーガー。クソ野郎。
そこそこ有名なロックバンドのギタリスト。結婚と離婚を繰り返してるクズ。
そのうち慰謝料で首が回らなくなるだろう。いや、それはそれで迷惑。
理由は、このクソ野郎が俺の生物学上の父親だから。
君江が眉をハの字にして、俺を見ている。ため息が口から漏れ出た。
「このおまる、間違いなく未来のだろーな。……きっと近いうち、ここに来るんだろ。エリックからはまだなんの連絡もねぇけど」
エリックはクソ野郎の事務所で働くコウモリ野郎。
俺とクソ野郎と。エリックが楽しいと踏んだ方に肩入れして、あっさり裏切る。
腹も立つが、エリックが飛び回ってるおかげで、俺がクソ野郎と深刻な関係に陥らなくて済んでいるのも事実。
振り回される苛立ちがクソ野郎とエリックとで分散されて、結局怒りなんだかなんだかよくわからなくなる。いつの間にか、ただの喜劇を演じている。
「新恋人って、ホントかな?」
君江はワクワクするように。一方で少し不安そうに記事を読み進めた。
院長先生――君江の叔父さんのことを憂慮しているんだろう。院長先生は俺のハハオヤの昔の恋人で現恋人。復活愛。
浮気相手の赤ん坊を妊娠したハハオヤに、院長先生が「産め」と言ったから、俺が生まれた。生まれる前にハハオヤは逃げ出した。そういう、めんどくせー経緯。
そんな最悪クソ女なのに、院長先生はハハオヤと復縁した。そして全く必要ねぇのに、寝取り男のクソ野郎にまで引け目を感じている。
理由は、このクソ野郎が俺の生物学上の父親だから。
ゴシップ曰く、噂の相手は女優。ハリウッドでそこそこ名前が売れてきたアジア系。だいぶ若い。俺とほとんど年が変わらねぇ。
アイツ、ほんとにクズだな。
「さーな。ゴシップなんざ、どこまでホントでどこから嘘か、わかりゃしねぇし」
君江にはそう嘯きつつも、アイツのことだから、どうせ一度は関係してるんだろうという確信があった。
なんらかのパーティーイベントで撮られただろうアジア系女優の写真。派手な化粧に派手なドレス姿。不敵な笑いとポーズ。いかにもハリウッド女優というような。
それから公式アカウントのインスタ。その記事のシェア。白い砂浜、青い海。自分はセレブだと主張せんばかりの、振り向きざまのポーズ。
どこかの誰かさんに似ているような気がしたのは、きっと気のせいだ。
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クソ野郎と一緒に来日したエリックは、俺が新人時代にお世話になった、会社の先輩とデートに。
いつの間にあの二人、連絡取り合う仲になってたんだ?
君江はユミと莉奈と遊びに。
……いつの間にあの二人と、連絡取り合う仲になってたんだ?
昔関係した女と奥さんが仲良しこよし。
そりゃ俺のせいだけどさ。だけどさ。
「ユミさんから充さんのホスト時代の話聞くの、すごく楽しい! 底辺って充さん言ってたけど、すごーく重宝されてたって聞いたよ? 最高のヘルプだって」とか。
「莉奈さんは、充さんが子供の頃からすごくモテたって言ってたよ。やっぱりね! でも繊細な美少年って感じで高嶺の花? 王子様だったって」とか。
奥さんから聞かされる気持ち。わかる? わかってくれる?
てか、最高のヘルプってそれ、褒めてねぇから。嫌味だからな。
莉奈に至っては、繊細な美少年(笑)、高嶺の花(笑)、王子様(笑)って、ボッチだったのを言い方変えてるだけだかんな。
そんなわけで、エリックも君江もいない我が家に残されたのは、俺。それからトイトレを開始したばかり、二歳の未来。
そこにあのクソ野郎がやってきた。おまるを抱えて。
いらねぇよ、そのおまる。
「Hi! Mick! ゥオッズゥイーツィュェアン、ドワヨッ!」
言うと思った。
未来は何を言われたのかわからず、固まっていた。
まぁそうだろうな。訛りすぎだからな。
そもそも未来は、これまでほとんど『オジイチャン』の単語を聞いてこなかった。
君江の親父さんは、小さい子供と接するのが、おそらく苦手なんだろう。それに、実娘の君江との関係そのものがぎこちない。孫以前の話だ。
クソ野郎はおまるをその場に置くと、両手を広げ、満面の笑みで近寄ってきた。
未来がささっと俺の後ろに隠れる。小さい手は俺の太ももを掴んでいる。
下を見れば、足の間からおそるおそる、未来がクソ野郎を見上げていた。
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固形物をトイレットペーパーでつまんでトイレに流し、転がったあたりを重曹で拭いて消毒。その間クソ野郎が未来の相手をしていた。
キャッキャと未来の嬉しそうに笑う声。未来のたどたどしい日本語と、未来以上にたどたどしいクソ野郎の日本語。
発音が怪しくとも、「スゴイ!」とか「イイコ!」のような単純な言葉は、未来も聞き取れるようで、その都度、未来が「イエーッ!」と返す。
いやいや。イエーッ! って。
これまで未来、そんな反応したことなかったよな? この数時間でいつの間に。
未来はあっという間に大スター様(笑)に打ち解けていた。
グズったりぼんやりしたり、そういった休憩を挟むことなく、ひたすら歓声を上げて走り回って。
クソ野郎が俺のアコギを勝手に持ち出して、『ABCのうた』だとか『あたま、かた、ひざ、つまさき』だとか『幸せなら手をたたこう』みてぇな童謡を弾いて、未来がめちゃくちゃな歌詞で歌って踊る。
見慣れたリビングで展開される、見慣れないセサミストリート。
クソ野郎は実際、セサミストリートに出演したこともあるんだろう。見たこともねぇけど、You Tubeで検索すれば動画が出てきそうだ。
クソ野郎が帰ったあとにでも見せてやったら、未来は喜ぶだろうか。
そんなことを考えながらリビングの扉に手をかける。
「隣んち、謝りに行ってくる。そろそろソレ、やめてくれ。住宅街で演っていい音じゃなくなってきてっから」
ギターにサウンドホールカバーを嵌めてはいるが、締め切った家からも音が漏れ出ているだろう。
俺が隣の家のインターフォンを押す頃には、ギターの音は止んでいた。
人のいい隣人は笑顔で、気にしていない、どうぞ自由に演奏を楽しんでほしいと言ってくれた。
俺は頭を下げて家に戻った。
リビングに戻れば、クソ野郎の腕の中で寝息を立てる未来。
「タカシ。ミックが寝たよ」
クソ野郎が未来の背中をさすりながら、寄ってくる。
「わかった。昼寝用の布団出すから、それまで抱っこしててくれ」
「ベッドに寝かせないの?」
クソ野郎が目を丸くする。
「未来はそんなに長く昼寝しねぇから。ここの方が都合いいんだ。ベッドに一人残すと、起きたときの機嫌が最悪」
「へぇ。ミックはショートスリーパーなんだね」
ちげぇだろ。
壁面クローゼットからベビー布団とタオルケットを取り出す。
未来を受け取ろうと手を伸ばすと、「俺がミックを寝かせる。タカシはコーヒーを入れてきて」とクソ野郎は言った。
できんのかよ、と口をついて出そうだったが、クソ野郎が未来の寝顔を覗き込んで嬉しそうにしていた。噛みつくのはやめた。
「そういえばあの女優? とは、どーなってんだよ」
「女優?」
マグカップに鼻先をつっこんでたクソ野郎が顔を上げる。なんのことだかさっぱりわからない、という顔をしていた。
腹が立った。
三十年近く放っておいたくせ、突然現れて家族だとかぬかして、人の領域に土足でズカズカ踏み込んできて。そのくせ自分の私生活は明かさねぇつもりか。
だけど今はエリックがいない。緩衝役がいない。
その上、言葉だ。
クソ野郎は日本語がほとんどわからない。俺は英語ネイティブじゃない。複雑な事柄を口にするのに、日本語でだって苦労するのに、英語で全て言い表せるか?
決まってる。無理だ。
つっかかったところで、苛立ちはさらに増すだけだろう。
皿からクッキーを一つ手に取った。
君江が未来と一緒に焼いたクッキー。粘土遊びの要領で未来が型抜きした、星型らしきもの。角が欠けて丸まったそれを口の中に放る。
不毛な言いがかりは、クッキーと一緒に噛み砕いて飲み込んだ。
「今はまだ、その段階じゃねぇかもしんねーけど。再婚すんなら、一言いえよ。…………その、一応、家族、なんだし」
いや。ダメだ。ジョークみてぇなノリで、安易に再婚されても困る。
相手がとんでもねー女だったら。最悪、君江や未来にまで余波がきたら。
クソ野郎は呑気にニヤニヤ、「そうだね! 家族だ!」とか合いの手を入れる。うるせぇ。
「でもアンタ結婚離婚、繰り返しすぎだからな! 少しは落ち着いて考えて――」
「うーん。タカシが可愛いから、もうちょっと聞いてたいんだけどさ。その彼女とか結婚とか。心当たりがないんだよね。なんのこと?」
クソ野郎が俺の怒気を遮る。睨みつけると肩をすくめた。
まだ隠す気かよ。
「アンタ、ゴシップにすっぱ抜かれてただろ。未来のおまる購入したとかなんとか。そんで、アジア系のあの女優とガキでもできたのかって書かれて――」
「ああ! 彼女のことか!」
ようやく見当がついたとばかりに、クソ野郎は指を鳴らした。
「まさか! とっくに別れたよ! 今はモデルのコと仲良くしてるよ!」
「はぁ!?」
「だって、俺のホームはもう、ここにある。女性とホームを作る必要はないんだ。女性とは明るく楽しく遊べたらいいよね!」
クソ野郎の顔には邪気一つ浮かんじゃいなかった。ヤツにとって至極当然の権利を口に出しただけ。
権利とすら感じていねぇのかも。当たり前すぎて。そうであることが自然の理だというような。
この女好きの自信過剰クズ男の血を引いてるとか。ウンザリする。いや、ハハオヤもクズだった。
なんだよ。俺、クズのサラブレッドかよ。最悪じゃねぇか。
いや。でも。
「……俺もランさんも、アンタほどクズじゃねぇなってつくづく思うわ」
「俺がいい男過ぎるのが運の尽きさ。俺にとってもね。仕方ない、もう俺自身、これは諦めてるよ」
息子相手に気色悪いキメ顔すんな。流し目やめろ。なんだ、その訳ありげなため息。ふざけてんのか。
――こいつが悔い改めるときなんざ、死の間際でもねぇんだろう。
ため息が口から漏れる。
「そうかよ。なんだっていいけど、事件に巻き込まれたり、物騒なのは勘弁しろよ。もしなんかあったら――あっちゃ困るけど――隠さねぇで言えよ。アンタほど金も人脈もねぇし、どんだけ力になれるのかはわかんねぇ。でもさ、離れちゃいるけど、家族だから」
「心配してくれるの?」
てっきり、あの厭らしいニヤけ顔を向けてくるかと思った。だけどクソ野郎は「思いもよらない」という顔をしていた。
目を丸くして俺を見てる。うさんくさい驚きじゃなく、純粋に驚いたって、ただそれだけ。
「……まぁ、一応」
視線をそらしたが、クソ野郎に見られているような気がして、妙にすわりが悪かった。
「ギター片付けてくる」
ケツがむず痒くなって、立ち上がる。ソファーに立てかけてあったアコギを手にリビングを出た。
「――だってさ。俺がランの最後のパートナーになってみたいなんて言い出したら、みんな困っちゃうだろ?」
リビングを出てすぐ、アイツの声がした。自信過剰男の頼りなげな、今にも消えていきそうなつぶやき。
息が止まる。耳に残る言葉に身体が固まった。廊下に足がはりついて離れない。
気づかれないよう、慎重に息を吐き出す。それから閉じていた目を開く。
――俺は何も聞かなかった。
拳を軽く握る。全身に血が巡りだす。
だが、足を踏み出そうとしたところで、再びアイツのぼやきが聞こえてきた。
「まぁ、メリッサでもいいんだけどさ」
記憶から抹消しようと思う。
(了)