ミズキ
不意に、混じり気のない新鮮な空気が鼻腔に入り込んだ。その冷たさに思わず身震いして、はっ、と我に返る。
頭が重く、脳に膜が張っているみたいに感じる。
神経と神経の間に壁が出来て、情報伝達が鈍くなっている。
彼は瞬きして、伸びをしながら深呼吸した。椅子に座ったまま眠り込んでしまったらしい。自分で眠っていることにも気づかなかった。
ぼんやりとした頭が徐々に覚醒していく。
彼は気だるい体をそのままにする。じきに慣れるだろう。
視線だけを動かして、目の前のベッドに横たわる彼女を眺める。
お世辞にも美しいとは言えない容姿をしていた。
目は一重で細く、鼻は低い。頬には薄くそばかすが浮いていて、少し日に焼けた小麦色の肌をしている。
しかし、明るい髪色や大きめの口から、笑えば愛嬌のある顔立ちになるのだろうなということは容易に想像できた。
彼女は眠っている。
目を閉じ、胸を規則正しく上下させて、無防備に意識を手放している。
「――ミズキ」
彼はぼんやりと、彼女の名前を呟いた。それからまた瞬きをして、ようやく自我を取り戻す。
「ミズキ」
思わず手が伸びて、彼女の茶色い髪を撫でた。
柔らかい、ふわふわとした髪質。
彼はまた口を開く。
「ミズキ」
何度呼んでも、彼女が目を覚ますことはない。すやすやと安らかに眠り続けて、を震わせることも、指を動かして答えることもない。
ただずっと、彼女は眠り続けている。
ミズキ。
彼が彼女を呼ぶ声は切なげに掠れて、言葉にならない。
「…………」
と、背後でするりと動く気配があった。彼が振り返ると、その気配は息をめることもなく、少し開いた窓から堂々と部屋に上がりこんでくる。
黒猫だった。
首輪はついていないが、小綺麗な身なりをしていて、どこかで可愛がってもらっているのだろうと彼は思った。
そうでなければ、悪魔の使者か。
「お邪魔するよ」
猫は言った。少し歩いて、彼と付かず離れずの位置で座りこむ。それから、後ろ足で耳の後ろを掻いたりしてくつろぎ始めた。
彼は何も言わなかった。否、言えなかった。猫が喋っている。
疲れているのだろうなと額に手をやる。……自分の手が冷たい。夢ではない。
猫は困惑する彼の様子を眺め、首を傾げた。
「何故そんな顔をする?」
「……猫が喋っているからだよ」
「動物と喋れる人間がいるのだから、人間と喋れる動物がいたって不思議ではないだろう」
充分不思議だ。
これは夢なのだと自分に無理やり言い聞かせて、彼は彼女の方に向き直った。
夢の中でも、彼女が目を覚ますことはない。
「寝ているのか?」
猫は彼女のベッドの丸い柵に、ひょいと飛び乗った。小さな肉球でうまくバランスを取っていて、体がぐらつくことはない。
「目を覚まさないんだ」
彼は呟くように答えた。
「二十年近く、ずっと」
「それは事故か?」
「違う。ある日突然、目を覚まさなくなった」
「病気みたいなものか」
猫は彼女を眺める。
それから彼女を生かしている栄養剤の点滴を見つけて、苦笑した(と言っても、片方の口端を上げているだけだが)。
「人間は幸せだな」
「?」
「同じようになった猫を知っているが、その猫は眠ったまま体を冷やして死んでいった」
誰にも護ってもらえず、な。
猫は苦笑の形のまま、彼に視線を移す。
「お前がこの人間を護っているのか?」
「分からない」
護っているかどうかという訊かれ方をすると、少し困る。
彼女を生かしているのは栄養剤の点滴で、体を温めているのは温かな羽毛布団だ。彼はその手配をしただけで、実際は彼女のために出来ることなんて何一つない。
ただ、目を覚ますのを待っているだけ。
「では何故、この人間の傍にいる?」
「……分からない」
「大切だからとか、関係性とか、いろいろ答えようはあるだろう」
「ああ。……でも、分からないんだ」
猫は呆れたようにベッドから飛び下りて、彼の座っている椅子のすぐ近くに着地した。
それから、金色の丸い目でじっと彼を見つめる。
「お前は、この人間が好きなのか? 嫌いなのか?」
「――分からない」
もう、何も分からないんだ。
彼は呟いて、彼女の顔に視線を落とす。
彼女が眠り込んでしまった二十年前から、毎日のようにここに座り、彼女を見てきた。一日一日、彼女は眠ったまま少しずつ成長して、十五歳の可愛らしさはいつの間にか失せ、美しさを見せるようになっていた。
そして今はもう、その美しさが枯れる間際である。
「でも、好きだからこの人間の傍にいることを決めたんだろう?」
「ああ」
確かに彼は、彼女が好きだった。
いつも明るく、冗談を言っては笑っている彼女が好きだった。
でもそれは、十五歳の“起きている”彼女だ。眠り続けている彼女はその面影を持ってはいるが、もう別人のようになってしまっている。彼に言葉を掛けることも、笑顔を見せることもない。
それに、この二十年間で、彼はたくさんの人と出会った。その中で、思い知ったのだ。十五歳の時の自分がどれだけ未熟で、子供だったのかを。今思い返せば、自分で自分を殺してしまいたいぐらいに恥ずかしく思う。
そうして、思ったのだ。
あの頃彼女を好きだったのは、思春期の少年の、幼稚な妄想だったのではないのだろうか、と。
「じゃあ、お前は何を望んでいるんだ?」
「望んでいる?」
「そう。彼女に、どうなって欲しいんだ?」
「……」
「また、『分からない』?」
「……目覚めて、欲しいとは思う……」
即答できなかった自分に、彼は驚いた。それだけを望んで、今まで傍にいたはずなのに。いつの間にかそれさえも、分からなくなってしまっているなんて。
彼は目を閉じる。
――もしも彼女が目覚めたとして、彼女は何と言うだろうか。
目が覚めればもう少女ではなく、一番美しい頃も通り過ぎて、おばさんになっている。そして近くにいるのは親でも友人でも想い人でもなく、自分に片想いしていた、貧相なおじさんなのだ。
彼女にとって、これほど苦痛なことはないだろう。
そして彼女が苦痛に感じることを、彼は、恐れている。
「なあ、黒猫」
彼は初めて、自分から猫に話し掛けた。猫は少し意外そうに目を見開いて、「ん?」と首を傾げている。
いざ話し掛けると、口内が乾く。声が掠れないかと不安に思いながら、彼は言った。
「彼女は、目覚めない方がいいんだろうか」
「それは……このまま眠っていた方がいいか、ということか? それとも、永遠の闇に葬った方がいいか、ということか?」
「どちらでも構わない。大差はないし」
「うーん……」
猫は悩むように床の一点を見つめて、それから飽きたように後ろ足で耳の後ろを掻き始めた。
「別に、お前が決めることじゃないと思うがな」
伸びをして、欠伸をしながら猫は答える。
「人間だって、自分で決めることぐらい出来るだろう? 起きるも寝るも、生きるも死ぬも」
「…………」
「それじゃ、この辺で」
猫は立ち上がり、またほんの少し開いた窓から出ていく。細い体をくねらせて隙間を通り、それに合わせて尻尾が揺れる。彼は窓を開けようかと少し悩んだが、立ち上がるのも面倒で、その様子をじっと見守る。
ようやく体の半分が窓の外に出た頃、猫は不意に振り返った。見守っていた彼の目と、金色の視線がぶつかる。彼は思わず身を固くした。
猫は目を細めて、言った。
「好きだろうと嫌いだろうと、目覚めて欲しかろうと欲しくなかろうと、二十年間お前が傍に居たことは、“愛”だと思うぞ」
「あい?」
「それ以外に何がある。お前は『分からない』と言いながら、ずっと待ち続けていたじゃないか」
「…………」
「それじゃあ、あの人間によろしく」
半分からだが通ってしまえば、あとは勢いのようなものらしい。彼が引き止める間もなく、猫はするりと窓の外へと通り抜け、地上にダイブして視界から消えた。
後に残されたのは、混じり気のない新鮮な空気と、言葉の余韻だけ。
彼は彼女の顔を眺める。いつもと同じ、安らかな寝顔。規則正しい寝息。
「ミズキ」
彼は彼女の名前を呼んだ。
「ミズキ」
十五歳の彼女がありふれていると言って笑った、三文字の名前。
「ミズキ」
もう彼しか覚えていない、ひとりぼっちの女の名前。
「ミズキ」
何度も何度も、声が掠れても、ずっと。
彼は彼女を呼び続ける。
目覚めて欲しいと祈りながら。声が震えるぐらい強く願いながら。
「ミズキ」
――その声に答えて、長いがぴくりと震えた気がした。
「ミズキ……!」
物語が始まる前の、奇蹟の話。