五ノ巻 再会、御姉様(二)
化粧のせいか、それともこの世界での日々が彼女を変えたのか。
奈々江は、将吾郎の記憶とはがらりと印象を変えていた。
あまりお洒落に気を使わず、髪の毛は輪ゴムで留め、ジャージでうろつく。
不敵で、強気で、いたずら好きで、喧嘩っ早い。
それが将吾郎の知っていた奈々江だ。
今はどうだ。
艶やかに髪を整え、きらびやかな衣に身を包み、物静かに微笑をたたえている。
裕飛はまだスーツに着られている感が強いが、彼女はすっかり着飾った格好が板についていた。
本当に彼女は、有田奈々江なのか。
なぜだろう――うれしいはずなのに、感情がついてこない。
「ビックリしただろ? オレもそうだったもんな! 死んでるなんてこれっぽっちも思わなかったけど、こういうかたちで化けて出てくるとは思わなかったぜ」
「どういう意味だい、この愚弟が」
昔ならその台詞は、肉体言語と一緒に叩きつけられていたであろう。
今は思念だけが、そよ風のように優しく流れてくる。
「母上」
足元から小さな思念。
水干と呼ばれるタイプの平安装束を着た4歳くらいの男児が、奈々江の影に隠れるようにしてこちらを見上げていた。
カワイイー、と逸花が相好を崩す。
「……このかたも、わたしの叔父上なのですか?」
「違いますよテンロウ。この者は叔父上の友人で、将吾郎というのです。ご挨拶なさい」
「はい、母上。――ショウゴロウ様、お初にお目にかかります。テンロウマルと申します」
「……な、な、奈々江さん、結婚、されたん、ですか」
「ああ」
奈々江は少し照れくさそうにした。
「こっちでいい人を見つけてね」
「…………!」
足から力が抜けるのを、将吾郎は感じた。
「おーい、置いて行くぞー?」
気がつくと将吾郎以外の全員がエレベーターに乗り込んでいた。
将吾郎は慌ててあとに続く。
広いエレベーターだったが、さすがに7人乗り込むと狭い。
奈々江とぶつかりそうになった将吾郎の鼻を、香の匂いがくすぐる。
元の世界にいたときは、コロンさえ使ったこともないのに。
エレベーター壁面の1枚はガラス張りになっていて、そこから市街を見下ろすことができた。
景色に見とれるふうを装い、将吾郎は会話から逃げる。
「――これからみなさんには、フジワラ社専務ミチナガ・ノ・フジワラに会ってもらいます」
ダイヤル式の階数表示がカウントアップしていく中、奈々江が言った。
「ミチナガ・ノ・フジワラ……? それって、藤原道長じゃないですか?」
驚く逸花に、裕飛は「なに、知ってんの?」と小声で問う。
「歴史の授業で習ったでしょうが。ほら、平安時代の人で。望月がどうのこうのって。後は……なんだっけ?」
「……平安時代に権勢を誇った貴族、藤原氏の1人だ」
いつものくせで、将吾郎は会話に混じる。
「娘3人を天皇と結婚させて、摂政として権力を握った人だよ。他には御堂関白記を書いたり、法成寺を建立したり――」
そこで裕飛が「ソーセージ?」などと返したので、なけなしの気力は尽きた。
「……ああ、おまえはもうそれでいいや……」
「あの、母上」
母の袖をテンロウマルが引っ張った。
「ショウゴロウ様は先程からなんと申されているのでしょう? わたくしめにはショウゴロウ様のお言葉がわかりませぬ」
「なにを言っているのですかテンロウ」
「いえ、ナナエ様。わたくしたちも、ショウゴロウ様の言葉は――」
後ろに控えていた女官たちがテンロウマルに加勢。
「あなたたちまで、いったいどうしたというのです?」
「――いや、いいんだ奈々江さん。どうやらこの世界の人間には僕の言葉が通じないらしい」
「言葉が通じない……?」
奈々江と裕飛、そして逸花までがそれぞれに驚きの表情を浮かべる。
どうやら将吾郎だけらしかった。
「マジでか……。あたしもそこそこ渡界人には会ったけどさ、初耳だよ」
「母上」
テンロウマルが不満げな目を母に向ける。
「ああ、いけませんでしたね、テンロウ。いつも言葉遣いに気をつけなさいと言う母が、荒い喋りかたをしては」
奈々江は苦笑して息子の頭を撫でた。
将吾郎の知らない『母親』の顔。
どこがといわれても説明に困るのだが、幼い将吾郎や裕飛に向ける顔とそれは、やはり明確に違っていた。
自分だけ言葉が通じないことより、そんな奈々江の姿にこそ、将吾郎は嫌な気分になる。
「御心中お察しいたしますが、あまり案じなさいますな、ショウゴロウ殿」
将吾郎の心中などまったく察せていない不快感の大元――テンロウマルが励ますように言った。
「父上なら、きっとなんとかしてくださいます」
「……父上?」
「はい。ミチナガ・ノ・フジワラは、わたしの父です」
「じゃあ、奈々江さんの旦那さんって――」
「そうです。ミチナガはわたくしの夫です」
「…………」
将吾郎は天井を仰ぎ、肺の中の空気を吐き出した。
奈々江がこの世界で家庭を持った以上、元の世界に連れて帰るのはほぼ絶望的。
しかも相手はフジワラ社の幹部。
裕飛にフジワラ社の打倒を持ちかけるつもりだったのに――それでは、奈々江の生活が滅茶苦茶になってしまう。
「それにしても、安心しました。ユウとショウは相変わらず仲良さそうで」
「……そりゃ、約束しましたしね」
奈々江がヘイアンティスに旅立つ直前に託された言葉を、将吾郎が忘れたことは1日だってない。
『ショウ。悪いけど、ユウのこと、頼むよ』。
奈々江さん。僕、うれしかったんだ。誰かに頼ってもらえたなんて、生まれて初めてで。
でもって、その相手が奈々江さんだったのは、本当に良かったと思ってる。
ちゃんと僕、約束守ったよ。
かたちはどうあれ、裕飛のことを守ってきたつもりだ。
その代わり好きになってくれ、なんて大それた見返りは求めないよ。
だけど、ただ――。
はにかむ将吾郎に、奈々江は小首を傾げる。
「約束って? 誰と?」
「…………」
将吾郎はまた足元がおぼつかなくなるのを感じた。
「……なんでもない。……秘密、です」
鈴が鳴り、エレベーターの扉が開く。
この先にフジワラ社の重役がいる。きっと油断のならない曲者だろう。
そう頭でわかっていても、なぜか将吾郎の胸には恐怖も怒りも――、感情と呼べるなにかはまったく浮かんでこなかった。




