四ノ巻 遭遇、鋼鉄死霊(三)
窓の外にそびえる巨大な影が、腕を振り上げる。
真ん中で不自然に折れ曲がった、身長の倍ぐらいある細い腕。
アンバランスに肥大した拳。
その右腕の形状に、将吾郎は見覚えがあった。
パワーショベル。
似ているというものではない。怪物の腕は、重機そのものの形をしていた。
そういうものが、城壁目がけてまっすぐに向かってくる。
逃げろ、と将吾郎は叫んだ。
自分の言葉がこの世界の人間には通じないとわかってはいたが、それでもなお叫んだ。
『腕』を指差して、逃げろと叫んだ。
だが、衛兵たちにも周りの入国者たちにも、彼の声は通じなかった。
言葉がわからないのではない。
彼らは将吾郎の指の先を目で追ってなお、「なにを言っているんだこいつは」という顔をした。
将吾郎が横合いから突き飛ばされたのは、そして『腕』が城壁内にいた人々を押し潰したのは、次の瞬間だった。
轟音と土煙がすべてを塗り潰した。
そのあとはもう、なにも聞こえない。
死んだか、と思ったとき、頬がはたかれた。
痛みが――生きている証左が、将吾郎を現実に引き戻す。
麻痺していた聴覚が元に戻ったのはそのすぐ後だ。
「――大丈夫?」
仰向けになった将吾郎の胸の上で、土埃塗れのポンテが微笑んでいた。
彼が自分を押し倒して、腕の一撃から救ってくれたのだと将吾郎は理解する。
「……すみません」
「ありがとうって言ってほしいな」
「……いえ、謝るところです。僕はなにもできてないのに、助けてもらうばかりで……」
「だけど、助けようとしてくれたでしょ? 『やめろよ』って言おうとしてくれた」
「でも結局言えなかった。言えたところでどうせなにも……。無意味ですよ」
「違う!」
予想外に強い否定を受けて、将吾郎はたじろいだ。
怒ったようなポンテの瞳。
「姐さんが言ってた――たとえ結果が同じでも、最初からなにもしようとしないのと、しようとして届かなかったのは、全然違うって!」
半歩でも、1ミリでも、君はちゃんと前に進んだよ――。
そう言って頭を撫でると、ポンテは将吾郎の上からどいた。
その時だ。重い音を立てながら壁が動く。
いや、それは壁ではなく、『腕』の一部だった。
グロテスクな表面。
無数の細かい鉄屑や歯車を接着剤かなにかで繋ぎ合わせたような、あるいは鋼色の昆虫が群れ集まっているかのような。
アルチンボルド、あるいは歌川国芳――美術の教科書で見た、野菜や小さな人間を寄せ集めて構成した人物画を将吾郎は連想する。
床板と、自らが押し潰した者たちの屍を削り取りながら『腕』が外壁から引き抜かれる。
――こちらはキョートピア国営放送です。
脳内に思念が染みこんできた。
――ただいま、ホリカワ・ナインズストリートで憑鉧神の発生が確認されました。周辺にいる国民のみなさまは、至急、該当地区から避難してください。繰り返します……。
「憑鉧神……?」
あの怪物のことだろう。MFとは違うのか。
憑鉧神が再びパワーショベルめいた腕を振り上げた。
ショベルの先端の直撃を受けて、ビルのひとつが砕け散る。
悲鳴が上がり、近くにいた人々がクモの子を散らすように逃げていく。
だが彼らの中には、自ら怪物の足元へ飛び込んでいく者もいた。
新宿やエルフの村の時と同じだ。
「……みんな、あれが見えていない……」
「あれは憑鉧神。まあ、早い話が悪霊よ」
「悪霊……?」
時刻はまだ昼過ぎだ。鉄屑の集積体に幽霊らしさはまったくない。
身体が透けてもいなければ、足だってしっかりついている。
現実離れしているが、しっかりした現実感を伴っている存在だ。
「見ちゃ駄目!」
ポンテの警告は遅かった。
髑髏に似た憑鉧神の頭部、そこに蠢く生物的な眼球と将吾郎の視線がぴたりと合う。
憑鉧神の眼窩を構成する鉄屑の輪が、丸く広がった。
それは怪物の、驚きの表情だったのか。
おまえ、おれが見えるのか――、と言いたげだ。
「ポンテぇ」
カルネロが情けない声をあげたが、ポンテはそれを一喝する。
「カルネロはこっち来ないで! 走るよ、ショウゴロウ!」
将吾郎の手を引いて、ポンテは走る。
そんな2人を、憑鉧神が目で追う。
怪物の進路が変わった。城壁にそっぽをむいて、将吾郎を追いかける。
遠くから見る分にはその動きはスローモーションのようだったが、歩幅が違う。
あっという間に距離が縮まっていく。
「あいつには意志があって!」
走りながらポンテが叫ぶ。
「自分を認識できる奴を、優先的に狙うの!」