序ノ巻 我物語、我無用
予兆もなく唐突に、日干しレンガのビルが真っ二つに割れた。
臓腑めいて吐き出された建材に往来の人々が呑み込まれていく。
その痛ましい光景を、少年はスクリーン越しに見ていた。
立ちこめる土煙が夜の街を暗灰色に塗り潰す。
煙幕の中で、砕けたビルにも届こうかという大きさの影がもぞりと動いた。
だが直後に巻き起こった突風が土煙を拭い去ったとき、その向こうにはなにもいない。
べきんべきんと、アスファルトに穴が穿たれる。
等間隔に並ぶ穴は、まるで巨人の足跡のよう。
もちろん、足跡の主はどこにも見えなかった。
ヘイアンティス大陸中央部の大砂漠に位置する、都市国家キョートピア。
昼間の熱暑が嘘のように、夜の空気は凍てついていた。
しかしこの夜、人々を震え上がらせているのは、自分たちの周囲を駆け回り街を破壊する、見えないなにか。
こちらからは見えない、触れられない、感じとれない、そのくせ向こうからこちらへは見えるし触れられるし感じとれる――そういう理不尽な存在だ。
人々にはもはやどこへ向かって逃げればいいかもわからない。
逃げ遅れた人々は路上で、ビルの中で、サイバネ牛車の車内で、すくみ、怯え、あるいはすべてをあきらめたかのように虚ろな目を浮かべていた。
だが、一部始終を見守る黒縁眼鏡の地味な少年――根生将吾郎には、街中で争い合う2つの影がはっきりと見えていた。
1つは象よりもずっと大きい、蜘蛛のような物体。
それは小さな鉄屑や歯車が無数に積み重なってできていた。
身体の周囲には人魂めいた青い炎をいくつも引き連れている。
もう一方は、木目のある鋼鉄で組み上げられた瑠璃色の鎧武者。
全高はおよそ7メートル。不自然なまでにくびれた腰、蛇腹関節構造でできた長すぎる腕、大きく開いた股関節と、やや人体から逸脱した奇怪な体型をしている。
蛇鱗模様の大鎧には、釣鐘めいて巨大な大袖。
兜はなく、頭部はサンバイザーを目深に被った貴婦人といった装いだ。
そしてやはりこちらも、関節から鬼火を噴き上げていた。
鉄屑の蜘蛛は、憑鉧神と呼ばれる怪物の1体である。
古代の地層に眠る先史機械文明の遺物と、人々の怨念が結びついて生まれた、鋼鉄の器物霊。
そして鋼鉄の武者は、憑鉧神に対抗すべくキョートピアが作り上げた軍用人型機動呪器の1体『94式X-1 清姫』であった。
「とっとと成仏させてやるぜ!」
清姫の中から、思念が弾んだ。
どこか戦いを楽しんでいるかのようにさえ聞こえるその声は、将吾郎の親友のものだった。
「……裕飛」
有田裕飛。
瑠璃色のマジンナリィ・フレンズに乗る、小柄な赤毛の少年――今、彼の口元に浮かんでいるであろう不敵な笑みを、将吾郎はまざまざと瞼に思い描くことができた。
憑鉧神は、幽世の存在――いってしまえば幽霊であり、常人には視ることすらかなわない。
視えたとしても、攻撃することはできない。
だがMFは、特殊な能力を持つ人間が乗ることによって半幽体化を果たし、憑鉧神と同じ階層に立って戦うことができるのだ。
その『特殊な能力』が、裕飛にはあった。
将吾郎には、ない。辛うじて彼らが見えるだけ。
だから彼には、親友が命をやりとりするのを、ただ指を咥えて見ていることしかできなかった。
「いっけえ! プルガパンチ!」
喚き散らしながら、裕飛が乗機に拳を突き出させる。
念仏も祝詞も憑鉧神には通用しない。
生物としての理からして異なるものに、通じる言語はたった1つ。
肉体言語のみである。
先端に鉤のついたワイヤーが、憑鉧神の背中から発射された。
大きく振り回されたそれが、清姫の足を払う。
仰向けに転倒する瑠璃色のMF。
憑鉧神は素早くのしかかる。
振り上げられた怪物の右前肢、錐のように鋭く尖った先端が、迫る。
「裕飛!?」
だが次の瞬間、憑鉧神は清姫の上から叩き落とされていた。
裕飛を守るように立つのは、深緑色に塗られた清姫。
「参号機……逸花か!」
裕飛がほっとしたような声をあげる。
「米河さんが、間に合ってくれたか……」
将吾郎もまた大きく息をつく。汗に濡れた掌を、ズボンで拭う。
起き上がった瑠璃色のMFの、3本指の機械腕が左肩に伸びる。
そこには日本刀状の武器が接続されていた。
清姫の左手が柄を握ると、朱鞘が左右に開き、内部に納められていた刀身が月明かりの下に踊り出る。
かまえられた白刃に、怯える魔物の姿が映った。
「『オレの反撃は、まだはじまったばかりだ!』」
裕飛が暇なときいつも考えている決め台詞の1つが、瑠璃色の清姫から発せられる。
意味がわからんと将吾郎は思うのだが、決め台詞だとか必殺技の名前だとかにこだわるのは裕飛の趣味だ。
もうおまえはそれでいいや、と匙を投げるしかない。
「砕け! 清姫!」
バイザーの下で清姫の双眼が光を放つ。
怨みが鉄を鬼と化すなら、闘志が刃を焔と成すも、また道理。
大上段に振り上げられた刀身が青く輝く炎に包まれる。
それはやがて、星空を覆いつくすかのごとき巨大なる蒼光の剣と化した。
「必殺のォ! エセリアル斬り(仮)だぁぁぁあ!」
いまひとつしまらない叫びとともに、雷をはねて浄化の炎刃が疾る。
左と右に生き別れた鋼の怨霊は、一拍の間をおいて、無数の鉄屑となって散った。
――終わった。
清姫の格納庫で、将吾郎は耳の穴にねじ込んでいたイアホン型のデバイスを抜き取る。
現場を飛ぶ式神ドローンから彼の網膜に送信されていた映像がかき消えた。
「……いやはや、君のお友達は大活躍だねえ」
一緒に事態を見守っていた中年男性が、将吾郎を振り返って言った。
たるんだカワウソのようなとぼけた顔が、自分を責めているように将吾郎には思えて仕方ない。
将吾郎、裕飛、そして逸花。
3人がこの世界――ヘイアンティス大陸に連れてこられてから、2週間ほどが経つ。
だが他2人が超常の力を得て勇者のような活躍をしているのに対し、なんの能力もない将吾郎は毛ほどの役にも立てていなかった。
彼のために用意された深紅の清姫は格納庫で埃を被っている。
幸い、それで裕飛たちが特に困ることはなかった。
それはそれで自分の存在が根本から不要だと言われているみたいで哀しい。
「いや……。みたいじゃなくて、実際、僕は要らない存在なんだろうな……」
帰ってきた裕飛を出迎えようとして、後ろからはね飛ばされる。
裕飛を慕うこの世界の女たちだ。
いずれも美女とか美少女といった類の見目麗しい女たちに囲まれ、鼻の下を伸ばす裕飛。
そんな親友の姿に微苦笑して、将吾郎は独り自室に引き返した。
陰陽暦0794年。
異世界の大地、ヘイアンティス大陸。
この世界に、将吾郎の居場所はなかった。
だがそれでも。この物語は、彼の物語である。