16.食事をしたらお勉強(2)
「おい、大丈夫か?」
揺すられて我に返る。戦術講義は終わったらしい。慌てて周囲を見回すと、満足げに教科書らしき本を片付けるシフェルと、青ざめた顔で気遣ってくれるノアがいた。
内容、まったく覚えてない。不思議に肩と背中が痛い。何があった?
状況が理解できないオレが震えながら、目の前の本を掴む。戦術理論がびっしり書かれた本を手にしたとたん、震えが酷くなった。
「治癒魔法使える奴のところへ行くか?」
え? 治癒……魔法? なんで?
顔中疑問だらけのオレが首を傾げる。と、引き攣れて背中が痛かった。なんでだろう、ちょっと震えが止まらないんだけど。
「キヨ、鋒矢に対する陣形は?」
「鶴翼! 誘い込み、翼の先から回り込んで後方を突く」
「よろしい。ではまた明日」
ご機嫌で去るシフェルを見送ると、身体の力が一気に抜けた。崩れるように倒れこむと、ノアが慌てて支えてくれる。
「あ、ありがと……なんか足の力が」
「抱き上げるぞ」
焦った様子で抱き上げられ、そのまま運ばれる。どこへ向かうのか聞く気力もなく、ぐったり抱き上げられたままうとうとする。
手荒く……と表現するのはおかしいか。足で乱暴にドアを開いたノアが、室内にいたサシャに声をかけた。
「悪いが、治療してくれ」
「何があった?」
異常を察したらしいサシャが足早に近づき、背中を見て顔色を変える。唸るような声を上げたあと、手早くシャツを脱がされた。
「ん……寒っ……」
ぞくぞくする。具合は悪いし、何があったのかわからない。ぼんやりする頭の中で、図形のような陣形が踊りながら流れていた。
あれは偃月だっけ? Vが逆さまになった形。いや回転したら鶴翼か……。
「痛ぇ……」
背中に焼けるような激痛が走り、顔を顰めて振り返る。自分の背中は見えないが、サシャが真剣な顔で手をかざしていた。緑色の光が注いでおり、触れない距離の手のひらを翳された場所が痛い。
「シフェルの奴、無理やり詰め込みやがった」
舌打ちしたノアが、珍しく声を荒げた。普段淡々とした態度の奴だから首を傾げるが、痛みに動きを止める。何を怒っているのか、まったく理解できない。
「……確かに、無茶な方法だ」
サシャが眉を顰める。
「オレ、何か酷いことされた?」
熱があるのか寒いし背中が痛いけど、それ以外は座学だった筈だ。早朝の訓練みたいに銃で追い回されたり、爆発に巻き込まれた記憶はなかった。
「ああ」
一言で肯定される。そこにジャックが駆け込み、青ざめた顔で覗き込んだ。手に持っているのは、大きな籠で果物が入っている。
「まさか術まで使って詰め込むなんて」
渋い表情のジャックが大きく溜め息を吐いた。
異世界人であるキヨヒトは知らないが、この世界には短期間で教養や学問を叩き込む方法が伝わる。魔法の一種ではあるが、普段は『術』と呼んで区別されていた。
特殊な読み聞かせ法により、対象者の脳を揺さぶって記憶の奥へ直接知識を詰める。表層意識の記憶ではないため、基本的にこの術で覚えた知識は焼付けとなり、消える心配がなかった。便利な方法で、一度に大量の知識を覚えさせたり、覚える時間を短縮できて利便性が高い。
しかし、この世界で術が多用されることはなかった。
便利なものは、必ず代償を必要とするからだ。その代償が『勉強時間の記憶の欠け』や『背中の痛み』だった。正確には代償として奪われるのではなく、無理やり脳を操作した影響が身体に現れただけだ。
影響は対象者により異なるため、同じ知識を覚えた場合に同じ症状が出るとは限らなかった。筋肉痛のように足を使えば足に出るというルールがない。
「あ、みかん食べたい」
大きめのみかんらしき果物に手を伸ばすが、サシャに「動くな」と引き戻された。呆れ顔のノアがみかんを手に取り、皮を剥いてくれる。面倒見のよさはピカイチのオカンだ。
「ほら」
差し出されたみかんを口に放り込む。柑橘系のすっぱい味を期待してたオレだが、驚くほど甘かった。砂糖を詰め込んだ? と聞きたくなるほど、ひたすら甘い。
「あっまぃ」
なぜ『みかん』と翻訳した……酸味が欠片もない。
こんなに甘いのに外見だけで『みかん』と自動翻訳した能力に悪態をつきながら、水分が多い果実を再び口に放り込んだ。甘いが、喉の渇きは癒せる。
「よし、これでほとんど塞がった」
サシャが額に浮いた汗を拭きながら、オレの手からみかんをひと房奪って口に放り込む。疲れたとぼやきながら、オレの顔を覗き込んだ。
「ん?」
「……怒ってないってことは」
眉を顰めたサシャへ、ノアが大きく溜め息を吐いた。
「記憶が混乱しているらしい」
首を傾げるオレの前に手鏡が用意される。俯せの背中側でノアが大きな鏡を構えた。
「見てみろ」
手鏡の角度を変えると、傷だらけの背中が映った。誰の背中だ? こんな酷い傷……って、間違いなくオレだよな? オレの背中、酷いことになってるじゃん!!
「え!?」
掠れた声で尋ねるより早く、すごい勢いで扉が開いた。上半身裸で転がるオレとしては、寒いから早く閉めてほしいのだが……青ざめたライアンがそのまま室内に飛び込んでくる。
「……勉強の筈だろう! なんでこんなっ」
青ざめていた顔が赤くなっていく。どうやら怒りが突き抜けたらしい。当事者を置き去りに盛り上がる周囲を見回し、オレは溜め息を吐いた。
「あの……説明してくれる?」
置き去りです――誰か拾ってください。異世界人である不便さが身に沁みた。何しろ彼らは常識で話をする。でもオレにとっては未知の話のわけで、ちゃんと説明されないと状況が理解できない。知らない国で苦労する外国人の気持ちですよ。
「とりあえずこれだ」
再び空中から取り出される本は、見覚えがある外装だった。あれだ、最初に見た『異世界人の心得』だっけ? 古書といった風情で読み古された本は、少し外装が切れている。
「よ、めない」
俯せのオレに本を差し出されても、手を伸ばして受け取るのも無理だ。せめて手が届くところまで、おろしてもらえると有難い。そんなオレの呟きに、まだ眉を寄せたままのノアが本をぱらぱらと捲り、目的の文章を見つけて差し出してくれた。
うつ伏せた姿勢でソファに転がり、文面に目を通す。
『異世界人に不足した知識や常識を教える方法として、術の利用を提案される可能性がある。この術は足元に展開した魔法陣により、無理やり頭の中に知識を詰め込む。記憶と違い知識が薄れる心配がないというメリットがある反面、詰め込む量を間違えると身体に支障が出る』
「読んだか?」
「うん」
わかった。そういえば、勉強に使った机の足元に綺麗な模様のマットが敷いてあったな。あれが魔法陣だった可能性があるのか。オレの了承なしに勝手に術を行使し、背中の傷に繋がった……と。
頭の中を整理するが、考えたそばから思考が溶けていく。ぼんやり見回すオレの様子がおかしいと気付いたノアが手を伸ばし、額の熱に気付いた。こういう所作がすぐできるあたり、本当にオカンだ。
「熱がある」
「これだけの傷では、しょうがない」
サシャが首を横に振る。このメンバーの中で医学的な知識が豊富なのは、サシャらしい。さきほどの治癒魔法みたいな能力からしても、間違いなさそうだった。
「冷やすか」
ジャックが合図するより早く、入り口に立ち尽くしていたライアンが飛び出した。氷とか欲しいです、切実に。言葉にならない願いを念みたく送ったが、届いただろうか。