14.愛称は重要でした
「キヨヒト」
名を呼ばれて振り返り、今更ながらに指摘する。
「リアム、どうして“キヨヒト”って呼ぶんだ? 他の奴みたいに“キヨ”って縮めればいいじゃん」
というか、一番最初に拝謁したときは“キヨ”と呼んだよな? 疑問をぶつけて答えを待つと、リアムは唇を尖らせて目を逸らす。怒らせるようなこと、言っただろうか。
近づいて膝をつき、覗き込む。傅いた姿勢に気付かぬまま、まろい頬に手を伸ばして触れた。手に触れる黒髪が柔らかい。
「だって……」
尖った唇の赤が目に飛び込む。どきどきしながら続きを待てば、思ってもみない言葉が返ってきた。
「他の奴らと同じではないか」
え? 同じじゃダメなの?
少し考えてみる。同じ呼び方が嫌なのだとしたら、他の呼び方があればいいってコト? つまり、他の奴と違う呼び方をしたい理由は……特別扱いを望んでると思っていいんだよな。
ぱちくり大きく目を瞬き、頬を緩めた。
「キヨヒトだから、キヨトとか? 漢字だと聖仁だからセイでもいいか」
他の呼び方を提案してやれば、リアムは我が意を得たりと「セイ、キヨト」と呟く。真剣に迷った末、決めたらしい。
「セイにする」
「分かった。じゃあ他の奴に使わせないから、リアムだけ“セイ”って呼べばいいよ」
沢山の名前があるのは面倒だが、構わない。オレがリアムを気に入ったように、彼もオレを気に入ってくれた証拠だから。この世界に受け入れられた気がして、正直嬉しかった。
「ところで、リアムは愛称?」
リアムに対しても特別な呼び方をしたいと訴えれば、蒼い瞳が柔らかく細められる。笑みを浮かべた唇が、思いがけないセリフを吐いた。
「ああ、リアムと呼んだのは父母だけだ」
「………へ?」
「亡き両親以外に呼ばせたことはない」
同じ意味の言葉を繰り返され、噛み砕いて理解する。亡き両親以外呼ばない愛称……つまり、皇帝陛下の親って前の皇帝陛下と皇后様なわけで……えええええ!!
驚きすぎて酸欠金魚みたいにぱくぱくするオレを指差して笑うリアムが、悪戯成功だと喜んでいる。家族以外使わない愛称を許してくれるのは、破格の待遇だった。
「こ……」
「こ?」
「光栄です?」
なぜか疑問形になってしまったが、リアムは気にせず続けた。
「実は本名が長くてな。ウィリアム・ジョゼフ・リセ・エミリアス・ラ・コンセールジェリンという」
本当に長かった。冗談じゃなく長いが、どこまでが名前で、どこからが姓なのかわからない。外国名は両親から姓を受け継いだりするから、余計にわからないが……。
「ごめん、覚えられないから後で紙に書いて」
冗談抜きで両手を合わせて頼めば、リアムは弾かれたように声を上げて笑った。
『陛下っ!!』
いつまで待たせると言わんばかりの低い怒りの声が届き、さすがに笑っている状況じゃないと焦る。扉を開いて顔を見せれば、まだ向こうからは認識できないようで、イライラするシフェルが見えた。
「怒っているか?」
「かなりね」
顔を見合わせ、叱られる覚悟を決める。せいの、でタイミングを合わせて飛び出した。シフェルからどう見えたのか、突然現れただろうオレ達に目を留めると大股に歩いてきた。
薄暗い林の中、大柄な騎士に見下ろされる。腕を組んで怒りを露にした彼に、何も言えずに俯いた。断罪されるのを待つ罪人の気分だ。
ところが隣のリアムはけろりとしていた。もしかして常習犯か?
「陛下、キヨ」
身体を硬くして次の言葉を待つ。風が吹いて解けた髪を揺らした。厳しい顔をしたシフェルはまずリアムの身体に触れて安全を確認し、オレの無事も確かめ、がくりと膝をついて項垂れる。
「ご無事で……」
良かったと最後が溜め息のように吐息に溶ける。声にならない部分が、本当に心配させたのだと気付かせた。悪いことをした気がして、リアムと顔を見合わせる。
狙撃事件の直後にここに来てしまったから、近衛隊長のシフェルはかなり心配しただろう。人払いを命じたリアムの心境を思いやり多少落ち着くまで時間を置いて、それでも顔を見せないので不安になったらしい。
そんなに長い時間籠もっていた気はないが、外は少し日差しが傾いている。行方を晦ましていたのは、短くても1時間以上だった。
「ごめん」
「すまなかった」
それぞれに謝罪を口にすると、はぁ……と大きな溜め息をついたシフェルが身を起こす。眉根を寄せて手を伸ばし、いきなりオレの髪をつかんだ。反射的にその手首を掴んでしまい、互いに硬直する。
「髪が伸びていますね、魔力を使いましたか?」
魔力を使うと伸びるのが早いと聞いたが、やはり他人から見てもわかるほど長いよな。使ったと思うのだが、自覚がないので答えようがなかった。
隅々まで丁寧に庭師が作り上げた人工的な林の中、木漏れ日を浴びながら立ち尽くす。
「戻るぞ」
空気を読まないリアムが先に立って歩き出し、慌てて髪を離したシフェルが斜め後ろにつく。どこを歩いたらいいかわからず慌てて駆け寄ったオレに、リアムが右手を伸ばした。
……繋いでいいんだよな?
そっと左手を乗せて繋ぎ、隣を歩く。シフェルをちらりと振り返れば、かなり驚いた顔でこちらを凝視していた。
いや、手を繋いだのはリアムが望んだからで……繋ぎたくないかと問われたら首を横に振るが、皇帝陛下のご意思だぞ。オレの身勝手な行動じゃないからな。
聞かれてもいないのに、心の中で言い訳を繰り広げてしまう。そのくらい凝視されていた。手を差し出したリアムではなく、オレを凝視するのはやめてくれ。
内心で冷や汗を拭いながら、左手を軽く揺すってみる。注意を引きたいオレの幼い行為に、リアムは笑みを浮かべて小首を傾げた。
「リアム、このあとオレはどうしたら」
まさかオレだけシフェルの説教になるのか? 嫌な予感を滲ませて尋ねるが、「セイは何も心配しなくてよい」とかわされてしまった。
つい数時間前にお茶をした庭まで戻れば、机もイスも片付けられている。芝の庭は綺麗に整えられ、血の跡も銃弾の痕跡もない。あの侍女はどうなったのだろう。やはり殺されてしまったのだろうか。
彼女が倒れていた場所を見ながら、その脇を通り過ぎて宮殿内に足を進めた。建物の中はやはり少し暗くて、石造りの建物は冷たい感じがする。
「陛下、キヨはお預かりしますので」
ああ……やはり説教か。項垂れるオレをよそに、皇帝と騎士の会話は続く。
「いや、セイは余とともに晩餐をとる」
「ですが、まだマナーも教えておりません」
「問題あるまい、どうせ余とセイしかおらぬ」
「……陛下、“セイ”とはキヨヒトのことですか?」
「余が呼ぶ専用の愛称だ」
子供のケンカか? 問いたくなるような低レベルの言い争い、ならぬ会話は皇帝リアムの予想外の発言で途絶えた。
「……かしこまりました」
了承したというより、根負けしたのだろう。シフェルは引きつった顔ながらも足を引いて一礼し、満足げなリアムに引っ張られるオレは宮殿の奥へ足を踏み入れた。




