229.なあ、おい、知ってるか?(1)
ぐらりと壺が傾く。オレの袖か裾が引っかかったのだろう。落ちていく壺に手を伸ばしたが、間に合わない。ふかふかの絨毯に壺の運命を託す。割れないことを祈りながら見守るオレの足元から、にょっと猫の手が伸びた。
『てやっ、このやろっ』
なぜか青猫の腹の上で受け止められた。落ちると注意しようとした面々とオレの、ほっとした安堵の息が室内に満ちる。危なかった。
「悪い、助かったブラウ」
『なんだかんだ、主は僕がいないとダメなんだからぁ』
「どこのエロゲのセリフだ」
壺を回収しようとしたが、抱き抱えたブラウが転がって遊び始め、壺を返さない。追いかけ回しているところに、お茶のワゴンを押した侍女が来た。巨大すぎる青猫に目を見開くものの、余計なことを言わずにお茶の準備を続けるあたり、プロだ。
「こら、ブラウ」
返せと言われれば返したくなくなる。天邪鬼な猫の性格を思い出し、追いかけるのをやめてみた。ちらちらとこちらを窺いながら、壺を転がしたり倒す巨猫。知らん顔を決め込むオレ。笑いのツボに入ったベルナルドが肩を震わせ、呆れ顔のジャックが横から回収した。
『あっ、僕の壺』
「お前のじゃない」
「くれてない」
オレとジャックに突っ込まれ、嬉しそうなブラウは腹を見せて「撫でてもいいのよ?」ポーズで誘う。腰をくねらせる所作に誘われ、もふもふの腹を撫でた。
「お待たせしま……した」
我慢できずに顔を腹に埋めたところに、運悪くジャックの祖父が顔を見せた。巨猫に襲われる子供に見えたのか、一瞬動きが止まる。しかし誰も反応していないのをみて、触れない方針にしたらしい。
「聖獣様の主人となられたお方のお越しに、感謝申し上げます。私が館の当主、アーサー・ビル・シェリンガムでございます」
この場で一番威厳があるベルナルドが、挨拶を受けてしまった。困った顔で、名乗るべきか迷うベルナルドが視線を向ける。青猫の毛だらけになったオレは、どこからどう見ても聖獣と戯れるクソガキだった。
こくんと頷くと、ベルナルドは落ち着いた様子で挨拶を受けた。
「丁寧なご挨拶痛み入る。聖獣の主人キヨヒト・リラエル・エミリアス・ラ・シュタインフェルト様の護衛を務める前ラスカートン侯爵家当主ベルナルドである」
場を読まずに拍手しそうになる。よく噛まなかったじゃん、オレでも忘れそうな長い名前なのに。それより自分の名前をえらい端折ったな。
その頃オレの後ろでは、ジャックが壺を元の位置に戻していた。
「祖父様、こちらがキヨヒト様だ」
「ジャック、その呼び方気持ち悪い」
ここは空気を読んで大人しくしていろと目配せするレイルを無視し、オレは雰囲気ぶち壊しで真正面から突破する。貴族然と対応するつもりは元々ないし、オレは生まれも育ちも庶民だからね。
「うっせ、我慢しろ」
「やだ」
ひそひそとやり合うオレとジャックの親しげな様子に、アーサー爺さんの表情が和らいだ。ほらな? 作戦成功じゃん。畏まったって身についた所作は直らんし、誤魔化して後で突かれるのは面倒臭い。
権力はこちらの方が上で、立場も明らかに上。だったら譲歩する部分を残してやらないと追い詰めすぎだ。
「無礼なクソガキどもで悪いな」
苦笑いしたレイルも、王族らしく振る舞うのを諦めた。この場で一番立場が弱いのは東の国で、北や中央に敵わない。助けてもらう立場の人間にふんぞり返ったって、何もメリットないぞ。
「俺もか!?」
その「無礼なクソガキ」にさり気なく混ぜられたジャックが唸るも、全員が頷いた。ベルナルドも緊張や遠慮が抜けていい感じだ。
「じゃあ話し合いしよっか」
その一言で場がぴりっと締まる。こういう切り替えの速さが好きだぞ。ブラウを放置して座ったのは、ベルナルドの隣だ。逆隣にレイルが陣取る。
シフェルがいれば、ベルナルドは後ろに控えただろう。自分でも護衛だって言い切ってたからね。でも最も口の立つ公爵閣下がお留守とあれば、貴族特有の言い回しの罠から守るのは、護衛で元侯爵のベルナルドが適任だった。
言質取られて嵌めたりしたら、容赦なく潰すぞ。圧力を込めたレイルの黒い王族スマイル、怖い。
足元の影から黒豹ヒジリ、白蜥蜴スノーが出てきた。赤龍コウコはいつの間にか部屋を探索中で、子供姿のマロンもぬいぐるみ馬姿だ。空気を読んで聖獣姿のマロンは後で褒めておこう。それぞれにソファの後ろで寛ぎ始めた。
「大変申し訳ございません。皇族の若様が、これほどお若いと思わず……お詫びいたします」
アーサー爺さんの謝罪に、オレはひらりと手を振った。好感度高いよね、こういう真っ直ぐな謝罪。複雑な言い回しもなしで、見た目子供だから見過ごしちゃったと言ってくれた方がいい。
「いいよ。いつものことだもん」
まず安心させるために、この国の崩壊が一時止まっている状況を説明した。マロンとスノーが同意してくれたから、オレの寿命が尽きるまで崩壊しない。竜属性なので、あと数百年は平気だと思うよ、暗殺されなきゃね。その間に新しい誰かがスノーと契約すればいい。
丁寧に礼を言われ、ジャックの祖父の評価が上がった。この人、子供が交渉相手でも舐めた口きかないし、真っ直ぐ目を見て話してくれる。シャイな元日本人としては、照れてしまうけど。
死んだ王族を一度甦らせて殺す案は、意外にも支持された。というのも、あまりに恨みを買いすぎて国内から不満の声が上がっているという。もっと苦しめて死なせるべきだったと。
死んでそこまで言われるって、逆にすごいな。日本人の気質としては、死んだら仏様だから悪口言わないのがマナーで、標準仕様だぞ。まあ、ジャックの弟妹の件だけ聞いても、相当鬼畜だったと思うし……きっと他にもやらかしてたんだろう。
「いいよ、でももう腐ってない?」
「ご安心ください。凍らせておきました」
「お、おう」
なんで即答。アーサー爺さんのイイ笑顔が、逆に怖い。ジャックが種明かしをしてくれた。
「この領地の半分は永久凍土だ。そこへ転がして置いたんだろう」
「転がして……」
洞窟に入れると暖かいから、足元に埋めたのかな? 獣に食われてないといいね。手足欠損まで治す気はないぞ。
「じゃあ……さくっと生き返らせちゃおうか」
「頼むわ」
「よろしくお願いします」
ジャックとアーサーに頷いたところで、ヒジリがのそりと起き上がった。座ったオレの膝に顎を乗せ、立ち上がる邪魔をする。
「ん? ヒジリ、どうした」
『主殿はしばらく動くでない』
突然の発言に首を傾げたところで、くらりと目眩がした。反射的に額を押さえて目元を覆う。視界を塞いでも気持ち悪さが消えず、膝の上のヒジリの上に倒れ込んだ。
「キヨ?!」
「な、どうした!」
「キヨヒト様!!」
ジャック、レイル、最後がベルナルド。頭の片隅でそんなことを認識して、オレは意識を失う。だがその直後、ぬるりと唇を割った生臭い塊を、勢いよく噛んだ。
『ぐぎゃっ、何をなさるか!』
ヒジリの舌だ。くそ……またベロチューされた。涙目で睨みつけるが、目眩は治っていた。わかってる、治癒したんだよな。でもベロチュー以外でも治せるくせに……。
「うっせ、ベロチュー禁止だ」
『横暴だ、我は断固抗議する!』
ぎゃんぎゃん喚いて喧嘩するオレとヒジリの足元で、青猫が毛繕いしながら口を挟んだ。
『ねえ、知ってる? こういうのを犬も食わないっていうんだよぉ』
どっかで聞いたような……?? 動きを止めたオレだが、すぐに思い出して突っ込んだ。
「それは夫婦喧嘩だ!」
オレとヒジリは夫婦じゃない。後ろから肩に飛び乗ったスノーは、くすくす笑いながら首に抱きついた。
『主様はすこし用心を覚えた方がいいと思います』
マロンはいそいそとソファから膝に乗り上げ、ヒジリの頭を足で押し退けていた。オレの味方はお前だけだ、マロン。ぎゅっと抱きしめると、ぐえぇと苦しそうな声が聞こえた。




