145.臭い奴なんて知らないな
ほんのり甘い香りがした。どこかで嗅いだ? 眉を寄せたオレの足元で、ブラウが毛を膨らませる。風を起こしたブラウの周囲が渦を巻き、匂いをかき消した。
『主人、その男の付けてる香り……控え室で嗅いだわ』
コウコが心底嫌そうに唸る。爬虫類の表情はわからないが、その分だけ声に感情を乗せてくるのがコウコとスノーだった。見れば、肩のりスノーも攻撃態勢に入っている。
控え室で嗅いだ、つまり狙撃前に彼らが倒れた時の匂いか。そこで気づいた。口元を緩めて、リーゼンフェルト侯爵を見上げる。警戒する男へ、新たな手札を1枚切った。
「ねえ、あんたが臭いんで聖獣達が嫌がってる。距離を置いて」
「おや? 言いがかりですな。尻尾を巻いてお逃げになるのですか」
なるほど、そう出るか。リーゼンフェルト侯爵の後ろで、なぜか得意げなご令嬢とお取り巻き――その後ろで今にも飛びかかりそうなシンが見えた。
指で左耳のピアスを触る。これが合図だった。シンの表情が強張り、小さく頷く。レイルが何か耳打ちすると、少し離れたテーブルへ移動した。侍従が運ぶ白ワインをひとつ受け取り、口をつけずに手に持つ。準備は完璧だった。
オレが取る手は2つある。このまま尻尾を巻いた風を装って離れるか、徹底的に叩くか。手元の札が少ないので迷う。視線をくれた先でイヤーカフ経由で情報を集めるレイルがウィンクを寄越した。
何か手がかりを掴んだらしい。ならば、リスクを承知で打って出ると決めた。派手な外見に相応しい態度で粉砕してやろう。
「聖獣の前で、態度がでかいんじゃない? それと……さっき教えてやっただろう? オレに口を利くなら名乗れ」
尊大な態度を作りながら、肩の白竜を撫でる。チビドラゴンは見せ付けるように甘えた。すると赤い舌をちろちろと揺らすコウコが首に絡みつく。ひんやりした鱗の感覚もいい加減なれたオレは、顔を引きつらせて後ずさるラカーニャ伯爵令嬢を笑う。
聖獣は人間の誰よりも地位が高い。王族はもちろん、最大の領土を誇る皇帝も凌ぐ権力の頂点だった。トカゲや蛇でも、それは変わらない。
お前の態度はあとで処罰の対象だぞ。
「ご存知でしょう?」
とっくに知っているはずだ。そう口にして反応を見る男へ、オレはこてりと首を傾けた。相手の言葉の意味がわからないフリで、首に絡みつくコウコへ声をかけた。
「コウコ、この男を知ってるか?」
『知らないわ、こんな臭い男』
一刀両断だった。ぴくりと眉を動かしただけで耐えたのは立派だが、オレはこの程度で容赦してやる気はない。
他者の注目を集めるために大きめの声で尋ねた。
「ヒジリ、ブラウ、スノーも……知らない?」
『主殿、名乗らぬ愚者を我が知るはずなかろう』
『僕も知らないな〜、この臭いおじさん』
『このオスは主様より偉いのですか?』
全員が煽る、煽る。悪気のスパイスたっぷりで言い放った。ただの獣や爬虫類じゃないぞ。これは世界を支配する聖獣様だ。宗教がない世界で崇められる最上位者に対し、どう出る?
「というわけで、オレも知らないよ。ご令嬢を自称する女と一緒に礼儀作法を学んで出直せ」
ここで背を向けたらオレが悪者にされる。貴族社会の嫌な部分を叩き込んでくれたシフェルの教えを、しっかり守って相手が下がるのを待った。敵を一方的に罵って去れば、相手に同情が集まるから不在者のオレが悪く言われるのだ。
学校の蔭口と同じ理屈だと思う。その場にいない奴はどんなにいい奴でも重箱の隅をつつかれ、面倒な委員や役割を押し付けられ、気づいたらハブられる。
厳しい現代社会の学校は、動物園だった。肉食獣も草食獣もごちゃまぜで、生き残るのに空気を読み苦労しながら人間関係を構築する。あの殺伐とした動物園を生き抜いたオレは、そのあとの社会という無法地帯を前に挫折したけど。
きっちり相手を言い負かし、去るのを見届けて動くのが正解だった。無言になったリーゼンフェルト侯爵の様子に油断がなかったとは言わない。少しだけ気を緩めてしまった。
『主殿に触れるでないわっ! 痴れ者が!!』
リーゼンフェルト侯爵の後ろから飛び出したお取り巻きの1人が手を伸ばし、オレの手首を握った。すぐに離れるが、ちくりとした感触に肩を震わせる。ぐらりと足元が揺れる気持ち悪さに、膝をつかないよう深呼吸した。
飛び出したヒジリは、貴族らしき男の首を巨大猫パンチで叩き折る。実行犯は悲鳴を上げる間もなく、息絶えた。すぐに戻ったヒジリは興奮にヒゲを震わせ、大急ぎでオレの手を確認する。触れられた左手首は赤黒く腫れていた。
「よほど憎まれておいでのようだ」
リーゼンフェルト侯爵の声に、口角がにやりと持ち上がった。やっと罠にかかったぞ。決定打を得たオレは気持ち悪さを堪えて顔を上げる。周囲の奥様方の悲鳴に、ヴィヴィアン嬢が駆け付けるのが見えた。それを右手を挙げて止める。
声をかけるのは我慢したが、彼女は美しく彩られた唇をきつく噛み締め悔しそうだった。夜会で貴族という熱帯魚の間を泳ぎ回るヴィヴィアンにしたら、テリトリーを荒らされた苛立ちが強い。己が守ろうと決めた相手を、己の手が届く範囲で害された。近くにいればと悔やんでいる姿は、それでも美人さんだ。
「メッツァラ公爵令嬢のスカートに隠れますか?」
くすくす笑う男は勝ちを確信したらしい。確かに普通ならこの毒が回れば、しばらく話せなくなる。呼吸困難になるが、死に至る毒ではなかった。いわゆる嫌がらせのための毒なのだ。こうした口撃中に話せなくなるのは致命的だった。反論できなくては、言い負かされてしまう。
グラスを握り潰したシン、ハンカチで止血しながら厳しい顔のレイル、むっとした顔で玉座から腰を浮かしかけたリアム――逆にシフェルは飄々としていた。子供の外見を利用して同情を集めるオレの手法を、身を持って知る男は意味ありげに頬の傷を撫でる。
あの傷はオレがシフェルに刻んだ。初めて赤瞳になった時に、降参するフリで投げたナイフの痕だった。治癒で消せるくせに、戒めだと残した傷を撫でながら、頷くシフェルの許可に笑いがこみ上げる。この国の貴族のくせに、皇帝や公爵家を敵に回すなんて……愚か過ぎる。
得意げなその顔を派手に潰してやろう。もう隠し事は要らない。リアムの性別を公開するためにも、オレは1日でも早く足場を固めて、彼女の婚約者になる必要があった。高揚する気持ちを抑えずに開放する。ふわふわとして地に足のつかない感覚が身体を満たした。
準備は万全だ。いつでもやれる。
『主殿』
ぱくりと左手首を口に含んだヒジリがもぐもぐと口を動かし、がりっと音を立てて噛んだ。聖獣の行動の意味が分からないリーゼンフェルト侯爵の目には、治療行為は別の意味に映ったらしい。
「聖獣殿にも見限られたようで……っ」
「何の話かわからないけど、あんたはオレが襲われると知って黙ってたわけ? その認識で間違ってないよね」
噛む必要はないと思うが、今回はその方が早かった。毒がまわりかけた筋肉や皮膚、血管ごと砕いて治癒する。おかげで体内に流れた毒のしびれも、ほとんど消えた。
お手柄のヒジリの頭を撫でて喉も擽った。ヒジリの背に飛び乗ったブラウが、さりげなく頭を隙間に入れて自分も撫でてもらおうと試みる。こういうところが、ホントに実家の猫そっくり。
「ブラウ。おいで」
小型化したブラウを抱きしめ、見せつけながら喉を撫でた。気持ちよさそうなブラウをよそに、コウコが侯爵相手にシャーと声をあげる。スノーは大人しく肩に乗り頬ずりしながら、目の前の男を睨みつけた。




