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決めるべき道

作者: 田村輝

※注意 以前に小説学校の課題で、「忠臣蔵」が出たときに書いたものです。主人公の橋本次郎衛門という人物は架空の存在となり、四十七士にはいません。


 橋本次郎衛門は迷っていた。彼は赤穂藩士だ。いや、だったというべきか。赤穂藩主、浅野長矩は江戸城にて吉良義央に対して刃傷沙汰をおこした。当然、浅野家は改易である。彼は三年ほど前、浅野家に仕官したばかりであり、またもや浪人に戻ってしまった。

次郎衛門は実家に帰るため、赤穂を出発して千種川沿いの街道を歩いていた。

初めて浪々の身の上になった時は、卑俗に屈せず、義を貫いた誇りに意気揚々と歩いた実家への道だった。たった三年で、足取りは変わっていた。

「これからどうするべきか……。道は二つ……。主君の仇討ちをすべきか、親戚の婿養子となるか……」

つい悩みが口から零れてしまう。次郎衛門は正義感の強い人間だ。年も血気盛んな二十代であり、一つ目の道を選んでもおかしくはないのだが、そうもいかない事情があった。俯いて足を引きずるように歩く。

そんな彼が霧に気づいたのは、日の光が遮られ、暗くなり、濃い灰色の着物が湿り気を帯びて重くなった頃だった。

「見通しがきかんな。すぐなのに……。ついてないな」

 彼は大きく息を吐いた。

「どうした若いの。ため息などついて。何か迷いごとでもあるのか。良ければ話を聞いてやっても良いぞ。どうじゃ、酒でも飲みながら。フォフォフォ」

 突然横から老人の笑い声が聞こえた。慌てて振り向くとそこには、小柄な老人がひょうたんを次郎衛門に掲げていた。ひょうたんの中身は酒だろう。

(なんだ、この爺は……)

次郎衛門は身構えた。老人はおかしな格好をしていた。くすんだ灰色の直垂と色あせた茶色の括袴をはいていた。見ない服装だ。この辺りの平民の着物とも違う。ただ、絹もののようである。それなりの身分のあるものか、豪商の隠居か。が、どちらともつかない。何よりも奇妙なのが大きな木製の面で顔がすっぽり覆われている。祭などで使われる鬼神の面のようだ。その面の所為で表情が全く分からず、不気味である。

「さあさあ、遠慮せずに受け取りなさい」

次郎衛門は逡巡したが、ひょうたんを受け取ってしまった。

「ほれぐいっと、行きなされ。一口に飲めばためらいもなくなり、嫌なこともしゃべれるようになる。さあさあ」

 次郎衛門は思い切って一口飲んでみた。とてもうまい。一口だけで気分が高揚してくる。

「いい酒じゃろう。もっと飲んで、気持ち良くなればええ」

 次郎衛門は勧められるままに、酒をのどに流し込んでいた。

 酒がまわり、体がぽかぽかして、次郎衛門は抱えている苦しみから解放されたような気がした。

「で、若いの。話を聞いてやるぞ。何があった」

「実は主家がお取り潰しになって、浪人とあいなった。共に仕えた者たちは主君の仇、仇討ちを実行しようとしている。だが、今は他国の親戚から婿養子の誘いが来ているのだ。それで迷っているのだ」

「なんだ、悩みとはそんなことか! なんと小さい、小さい、小さき男じゃ!」

「何! 俺を愚弄する気か!」

 次郎衛門は不快に思い、

「無礼な! 刀の錆にしてくれるぞ!」

 語気を荒げ、次郎衛門は柄に手を掛ける。

「フォフォフォ、それは、それは勘弁を」

老人はとっさに両手を伸ばして、それを押し留めた。

「この爺、長く生きているうえ今は酒に酔っておる。つい余計なことをしゃべってしまいたがる。許せ。若いの」

老人は懐からひょうたんを取り出し、酒を飲んだ。飲むとき器用に面をずり上げ、口だけをあらわにしていた。整えられた白ひげが生えているのが、次郎衛門には見えた。

「それで若いの。本当はどうした方がよいと思っているのじゃ」

「殿には取り立てていただいた恩義がある。ただ、な……」

 次郎衛門は酒をもう一度口に含む。少し間をおいて、思い切って言い放つ。

「武芸ができれば仇討ちに参加したい」

「ほう、若いの。武芸が不得意と申すか。それでも儂を斬ろうとな? はははっ、それでは仇討ちなどとは無理じゃのう。これはおかしいぞ。ハハハハ」

 しかし、老人の態度は次郎衛門の期待したものとは、まったく異なっていた。

「おのれ爺、話を聞いてくれるというから、思い切って打ち明けてみれば、癪に障ることばかり言いおって! もう我慢ならん!」

 次郎衛門は刀を抜き放ち、老人へ上段から切りかかった。刀は老人の頭を捉えたはずだった。だが、刀はむなしく空気を切り裂いただけだった。老人は消えていた。

「すまない。すまない。これも、酒のせい。年のせい。許せ。カァカァカァ」

老人は刀の間合いよりほんの少し外れた位置に現われ、全く謝罪する気のない声で笑っていた。

次郎衛門は顔を真っ赤にして、もう一歩踏み込み、刀を再び上段に構える。

「くそ爺、動くな!」

 再び、刀を振り下ろすが、さっきと同じように老人は消え、刀の間合いを少し外れた所に現れる。

「無駄じゃ、無駄じゃ若いの。武芸が不得意なのは確かじゃわい。ハハハ。そのヘッピリ腰では酔っている儂でさえ切れん」

「うるさい! うるさい!」

 次郎衛門は頭に血が上り、さらに老人を切ろうとするが、逃げられるばかり。どれくらい続けただろう。いつの間にか、次郎衛門は膝に手を付き、肩で息をしていた。武士として情けない姿だ。

「どうした。まだやるのか」

(もののけの類か……。よりによって、変な奴に絡まれたな)

「ほれほれ、切ってみよ」

 老人はわざと次郎衛門の間合いに入り、あおる。

「ああ、俺はヘッピリ腰であるのは認めよう。もののけのようだが、所詮は酔った老人。切れぬとは武士としてあるまじきこと」

 次郎衛門は「ぜえぜえ」と苦しそうに息を吐く。

「やはり俺には仇討ちは無理のようだ。婿養子先を当たってみるか」

「フォフォフォ。逃げるのじゃな。よし、逃げよ、逃げよ。仇討ちのできぬお主じゃ。婿養子先でも同じように逃げるぞ。周りの者どもにヘッピリ腰と囁かれる生き方を選ぶといい。ここまで楽しい奴はなかなかおるまい。酒が美味いのう」

老人はまた面を上げてぐびぐびと酒を飲む。それを見て、弱気になっていた次郎衛門の闘志に再び火がついた。

「もののけ爺! 待っていろ! 刺し違えてでも首を刎ねてみせる!」

次郎衛門は顔を真っ赤にして、再び刀を振う。

「ほれほれ、全然当たらんぞ。あきらめたらどうじゃ」

 老人はもちろん避ける。

「いや、まだだ。必ず一太刀当ててみせる!」

「フォフォフォ。頑張るの。だが、無駄じゃ。小さき男よ。小さいながら生きることよ。酔った爺を一人切れぬ身。仇討ちなど返討ちにあうぞ。きっぱり諦めて生きるのも賢いことよ」

(まだだ、何か方法があるはず。そうだこれを使えば……)

 次郎衛門は持っていた酒のひょうたんの口をあけた。

「ほう。飲め、飲め。酔っぱらったら、まぐれで当たるかもしれぬぞ。フォフォフォ」

「ふん。飲むんじゃねーんだよ」

 次郎衛門は老人にひょうたんを投げつけた。

 酒が老人に向かって降りかかる。老人は予想外な事態に、一瞬だが動けなくなる。それが、隙となってしまった。

「今だ!」

 次郎衛門は渾身の一撃を放った。刀は老人の面に当たり、バキッと大きな音がして割れた。面は二つに割れ地面に落ちた。

「やったか!」

 次郎衛門は笑みを浮かべた。だが、そう思えたのは一瞬のことだった。老人は跡形もなく消えていた。老人のいた場所には次郎衛門が投げたひょうたんが落ちて、酒がトクトクとこぼれていた。周りを見回したがどこにもいない。

「おのれ、どこに行った! 出てこい!」

次郎衛門は声を張り上げる。

「ここにおるわい。全く、とても常人には手の出せない上等な酒なのじゃぞ。せっかくの酒を無駄にしよって。もったいない、もったいない」

 声は次郎衛門の遥か上から聞こえてきた。見上げると、老人が宙に浮いていた。しかも、面は何事もなかったかのように元に戻っている。

「まあ、油断したとはいえ、儂の面を割るとは……。若いの。なかなかやるの。見直したぞ。ハハハ」

「爺、俺はわかった」

 次郎衛門は刀を下す。

「ほう、何がじゃ?」

「俺は小さい男だ。もののけとはいえ酔った爺一人切れぬ情けない奴だと。だからこそ、決意した。これから武芸を磨き、強くなる。そして、主君の仇討ちを成功させ一人前になってやる」

 次郎衛門は老人を見る。老人の顔は面に隠れて見えない。

「やれやれ、小さく生きるのも人生だと教えてやったのに。若いの。それが己の偽りのない生き方と申すか」

「もちろん」

 次郎衛門は躊躇なく答える。

「若いの。言っておくが、その生き方がお前の人生を破滅させるかもしれぬのじゃぞ」

「一人前の武士になるのだ。そのようなことは起こらん! 俺の決意は揺らがぬ!」

 しばらく二人は見詰め合った。

「フォフォフォ、そうか。ならばその生き方、この爺に説くと見せてみよ。それがどういう結果になるか楽しみじゃわい。さらばじゃ」

そう言うなり、老人は霧に紛れて見えなくなった。老人が消えるとすぐに、あたりを覆っていた霧も晴れていき、雲一つない青空となった。次郎衛門は周りを見回した。川沿いの街道にいたはずだが、ここは全く別の場所だった。すぐ後ろに寂れた社があり、木々の間から海が見える。どうやらもののけ爺を追い回すうちに、街道をかなり外れたらしい。

「大避神社?」

 次郎衛門が社に近づくと、粗末な拝殿には祭神『大避大明神』と書かれていた。

(あの爺、もしやこの神の化身だったのか……。ということは、俺は神と戦ったのか……。世には不思議な事があるものだ。だが、お蔭で決心がついた。そういう意味ではあのくそ爺、いや、くそ神に感謝せねばならないな)

 次郎衛門は拝殿に向き直った。

「やい爺。俺の武芸の上達と仇討ち成功をお前に祈願してやる。だから、ちゃんと見ていろよ」

もう、迷いはなかった。その胸には輝かしい未来がはっきりと映し出されていた。



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