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そんな馬鹿なことがあるはずがない。今でも、あの芹沢萌の姿は目に焼きついている。目を恐ろしいまでに見開き、まるで大きな玉でも支えているかのように、両手を広げていて、胸に刺さったナイフ。そこから、赤い血が飛び散るように。ただ一本蝋燭の光に照らされて。
甲斐雪人が動こうとした瞬間を、篠塚桃花の小さな手が抑える。
「抑えろ、甲斐!」
ハスキーな声が、甲斐の脳に届き、甲斐は自らの行動を戒めるように、深呼吸を繰り返す。
「浅葱さんか、鴇さんに、確認を。間違いなく、萌さんはここで、殺されていた」
「可能性は二つだな」
甲斐をなだめるように篠塚が続ける。
「何者かが、萌を運んだケースか。実は、あの時まだ萌は生きていたのか」
「生きていた? あの状態で? それは、ありえない」
「確認したのか?」
していない。確認ができるような状態ではなかったし、確認するまでもないと、思った。あの時、篠塚も確認をしなかった。するまでもないと篠塚も思ったはずだ。
「可能性だけを言わせて貰えば、後者のほうが高いな」
「ありえない」
「運ぶとなると、おそらくは深夜であろう。そのとき犯人には別にやることがあった。雅、分かるか?」
「スージー捜査官を?」
「そうだ。それに、もう一つ理由があるが、まあ、それは今はいいであろう。問題は、目の前の現実をどう受け止めるか、ということだ。生きていたにせよ、死んでいたにせよ、今目の前に萌の姿はない」
もし生きていたとなると、今度は萌が犯人だという可能性が高い。なるほど、丁子の殺害は体格差もあるだろうが、お互いによく知った仲だ。怪しまれることもなく、背後をとることができるだろう。そして、自分はあたかも被害にあった振りをして。
あとの行動は自由だ。
スージー捜査官をあのような状態にする時間的な余裕もあったはずだ。
前者の、もし死んでいて運ばれたのだとしたら?
そんなことをする理由が分からない。
可能性的には、確かに生きているほうが高いように思える。けれど、それはあの状況を見ていないから言えることだ。
「この部屋の電気はつかないのか?」
篠塚が後ろの茜に聞いている。茜は、さあと答えながら、部屋の入り口にあるスイッチを操作する。すると、部屋の電気は音もなく明るく光る。今は太陽の光も窓から入ってきているので、電気がついたからといって、それほど劇的な変化はないのだが。
「問題ないみたい」
茜はもう一度スイッチを押し、部屋の照明を落とした。
「あの時、部屋の照明はついていなかったであろう? 代わりに蝋燭の光が揺れるように灯っていた」
まだ甲斐の手を抑えながら、篠塚が下から不安そうに甲斐を見つめる。
「だから、もしあの時、萌がわずかに動いたとしても、気がつかなかった可能性もある」
確かにあの薄暗い光の中では、萌が少しくらい動いたとしても、蝋燭の揺らめきなのか、すぐに判断できないであろう。だが、あれが、見せかけだったというのだろうか。けれど、篠塚にそう言われると、そのように思えてくる。不思議な説得力が、その言葉にはある。謙遜に可能性とは言っているが、おそらく篠塚は確信しているのだろう。
あの時点で萌は生きていた。
そう頭を切り替えなければならない。
そう思っている甲斐の耳の横を、何かが横切る。
その刹那、軽い音とともに、床に何かが弾む。
赤い、ルビーの宝石だ。まばらな血の色よりも明るく、けれど、明らかに異質な存在。甲斐は落ちてきた上を向くが、ただ天井があるだけだ。おかしなところは何もない。そもそも、上から落ちてくるはずがない。
瞬間部屋が陰る。
甲斐の視線は、窓に。黒い影が、落ちる。
すぐに光は戻る。それとほぼ同時に、鈍い音。何かが落ちた。急いで甲斐は窓に駆け寄る。窓を開けて、ベランダに飛び出る。ベランダの手すりを握り、そこから真下を見ると、そこにスーツを着た人が倒れている。
体の形がおかしい。
顔は下を向き、誰か分からない。
隣で篠塚が、鉄棒のように手すりに体を預け、同じように下を見る。続いて、上。
「まだ間に合うかもしれぬ。急ぐぞ、甲斐」
言うが早いか、篠塚はベランダを戻った。甲斐もその後に続いて走り出した。




