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図書棟に与えられた小さな自分の部屋のベッドに横たわり、篠塚桃花はめずらしく本を読むでもなく、自らの前髪をもてあそんでいた。ときおり見える枝毛にため息をつく。今までこんな気持ちになったことなどなかったというのに、どういうことだろうか。
恐かったけれど、それ以上に楽しい日々だった。
それが、彼女としてみれば思い切った旅行での率直な感想である。
帰ってきてからの芹沢雅の説教など、楽しかった日々から計算すればとても瑣末なことだ。それに、雅も本気で怒っているわけではない。そもそも、彼女からすれば、このように拘束されなければならない理由などないに等しいのだから。
だけど、それは叶わない願いだ。
それが一種の契約であり、彼女自身もそれを願っている。いや、自ら縛っているのか。
「わたしも、彼女みたいに振舞うことができれば、外にいられるのかしら?」
そこで彼女は首を振る。無理な話である。それができるのなら、最初からそうしている。それに、雅のことをよく思っていない人も、学園の中にいる。それが表面化した事件さえも、先ほどに起きているのだ。その矢面に立っていて、彼女に己の精神を保ち続けることなど、とてもできるとは思えない。
「だけど、もう……」
逡巡することなど、ほんの半年前まではなかったというのに。それに、こんなにも無駄なときを過ごすことも。ただ髪をいじって過ごすなんて、考えられないことだ。これでは、
「普通の女の子と同じじゃない」
声に出してしまい、彼女自身が驚き、狼狽する。
「普通って、それじゃあ、私が普通じゃないみたい」
彼女は、ベッドから手を伸ばすと何度読んだか分からない本を手に取った。本といっても、小さな子どものための絵本といってもいい。けれど、彼女にとって今一番大切な、そして一番好きな物語が載っている本だ。
一瞬で読めてしまう。けれど、その一ページごとをまるで、これを与えてくれた人自身を感じることができるかのように、大切に眺める。
「私は、普通じゃ、ないのかしら」
普通じゃないと、彼女は知っている。そしてそれは、彼女自身が望んでいることでもある。そうしなければならないことも。
不意に、図書棟の彼女の秘密の部屋に、誰かが入って来るのを感じる。と、同時に彼女の心臓が跳ね上がる。慌ててベッドに座り直すと、持っていた本をシーツの内側へと投げ込んだ。
可能性は多くない。
雅か、甲斐雪人か。
甲斐にしては時間が早い。けれど、もしかしたら、今日は早く来てくれるのかもしれない。けれど、そんな約束をしたわけでもない。けれど、もしかしたら、けれど、けれど。ううん、そもそも、来てくれること自体約束したことではない。
一番最初の訪問だけは、彼女の意図したところであったが。
そのときの甲斐の表情を思い出す。おそるおそると入ってきて、私の姿を目に留めると、悲鳴でもあげるのではないか、と思われるほどにびくっと体を震わせて。
思い出して、彼女はくすりと笑う。
「はーい、桃花ちゃん、思い出し笑い?」
予定外の声が聞こえ、驚いて彼女は顔を上げる。
「あ、かね、お姉ちゃん?」
「はい、正解。何よ、予定外って顔してるけど」
「その、可能性もないわけではないと、分かっている」
「はいはい。相変わらず、かったい言葉使ってるのね」
「どのような言葉を選ぼうが、私の勝手であろう」
「ええ、もちろん、あたしも勝手だと思うよ」
「……茜お姉ちゃんは、一層言葉が乱れたわね」
「いいでしょ」
笑いながら、芹沢茜は彼女の隣に座った。茜は雅の姉である。この学園を卒業し、市内の私立大学に通っている。分けた前髪を音符をあしらったピンで留めていて、肩を少し越えるほどの長さの髪が、ベッドの振動に合わせるように、軽く跳ねる。
「珍しいな、ここに来るなんて」
「だってぇ、大学の夏休みって無駄に長いんだもの。やることが全然なくて」
「その時間こそ有意義に使うべきだ」
「まあまあ、いいじゃない。あたしはちょっと桃花に聞きたいことがあって来たのよ」
「大学の課題じゃないだろうな」
「あっはは。それは考えてなかったけど、それもいいかも」
口元に手を当てて笑ってから、茜は彼女の頭をぽんと叩いた。
「それで、何の用なのだ?」
「驚かない?」
「内容にもよるが」
「あたしも雅の誕生日に呼ばれちゃった」
びくっと彼女の肩が震える。
「あ、驚いた」
「か、可能性がないわけではないと、分かっている」
「嘘だぁ。あまりにも低い可能性だったから、想定していなかったでしょ、桃花の言葉をかりるならば。驚いちゃってぇ。もう、素直じゃないなぁ」
「雅が呼んだのか?」
「そうだよ、当たり前じゃない。というか、あたしは呼ばないといけない理由がいくつもあるのよ」
「理由だと?」
「分からない?」
雅が茜を呼ぶ理由など、まるで思い浮かばない。それとも、何かを見落としているだろうか。
「珍しい。やっぱり、桃花も女の子になっちゃったのね」
「な、何を言ってるんだ」
「だって呼ばれるってことは、そこらへんの事情も聞いたってことよ」
それと同時に茜はぎゅーっと彼女を抱きしめる。
「あたしは断然応援するから」
「ま、待ってくれ」
「いいのよ、そんなに照れなくて」
「待ってくれ、違うんだ。そんなんじゃない」
「何が違うの?」
「だから、甲斐はそんなんじゃない」
「だけど好きなんでしょ?」
彼女は言葉に詰まる。
好き?
これが、好き、ということなのか?
「大丈夫よ、桃花、あたしは味方だから」
「分からない」
「ほら、桃花が分からないっていう時点で答えは出てるの」
「分からない。けど、茜お姉ちゃんは、味方になってくれるのだな」
「そうよ。当たり前じゃない」
「……ありがとう」
「ふふふ、どういたしまして」