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図書棟の奥にある個室からスージー・F・パールは本を持ったまま出る。今の専門とはいえ、オリジナルを読むのは楽な作業ではない。もっとも、オリジナル、といってもある程度は読める形に戻したものであるが。
手に持っている本の表紙には「古事記」と書かれている。日本誕生の物語だ。まだこれに取り組み始めたのは最近のこと。神代篇のごく最初の部分しか読んでいない。が、それでもやはり魅力溢れる文学である。これを文学だと解釈する人はどうやらいないようであるが。
八百万の神の中でも、スージーが今興味を持っているのは木花咲耶比売だ。石長比売とあわせて、これはまるで現状を的確に表現した比喩なのではないか、と思う。おそらく何の研究にしてもそうなのだろうが、実際は関係ないのかもしれない事象であれ、関係していると感じてしまう。それがたとえ日常生活であったとしても、だ。スージーは過去の経験から、それは危険ではあるが、興味深い現象だと考えている。
スージーは本を元の場所に戻すと、急いで図書棟から飛び出す。研究資料の量としては、国内、いや世界的な規模で見ても引けをとらない。多くは開かれていないが、地下に収められた論文の量は世界でも五本の指に入るだろう。それにリファレンスのシステムも非常にすぐれている。全世界とのやりとりもできるし、必要な論文の取り寄せも簡単な操作で行える。無論、それは芹沢家として必要なシステムでもあるのだろう。
右手につけた時計を確認し、図書棟から北へ抜ける道を急いでいると、ちょうど正面に涼しげなドレスを揺らしている女性が歩いている。この道を利用して行ける場所は一箇所しかない。服装を見ると、目的は同じなのかもしれない。けれど、スージーは白衣を着ている。その下は至極ラフなスーツだ。とにかくスージーは、前を歩く女性にねえ、と声をかけた。
「はい?」
返事をして、女性が振り返る。ちょこんと飾りの帽子を乗せていて、スージーからすると幼く見える。けれど、日本人の平均から考えると、大学生くらいかもしれない。
「ねえ、あなたも招かれたのかしら?」
「えっと、多分そうだと思います、けど?」
「ああ、ごめんね、私、スージー。以前この学園の教師やってて、それで色々とよくしてもらったから」
「はじめまして、スージーさん。私は日達瑠璃。以前雅ちゃんの家庭教師をしてまして、それで今日は招かれました」
「へぇ、それはすごい肩書きだね。うん、今まで会った中で最上かも」
「形だけですよ。私が教えることなんて、ほとんどなかったんですもの」
瑠璃は口元に手を持っていって笑う。それからスージーは瑠璃と並んで門のところまで行った。時刻は55分。これでバッチリ1時には会場にたどり着くことができる。瑠璃がチャイムを鳴らし、そこについたモニターで会話を少し交わしていると、それに合わせるように門が開く。二人は一緒に門をくぐると、門はわずかな音と共に閉まる。
「何とか無事に間に合ったかな」
舌を出しながら瑠璃が笑う。
「私もぎりぎりになってしまった。のんびりと本を読んでいたからな」
「スージーさんて日本語上手ですね」
「まあ、自分の人生の半分以上はこっちだからな。むしろこちらのが体に馴染んでいる。さっき、教師をしていたって言っただろう? 今、同じ教科を教えるように言われても断らないといけないな」
「専門はなんなんですか?」
「英語教師だよ」
「今の、ですよ。白衣着ているところからすると、女医さんだったり」
「まあ、あたらずとも、遠からずかな」
スージーは嘘をついた。嘘、といってもスージーが女医だというのが本当、という意味ではない。少なくとも、目の前の瑠璃という少女がどちら側の人間なのか分からないのだ。正体を知られるわけにはいかない。それも二重の意味で、だ。
玄関に通じるまでの石畳は、屋敷の大きさに対してひどく平凡なものだ。おそらくは、ちょうど正面に見える玄関の二階に位置する部屋から見るために、すべては設計されているのだろう。あそこに座す、今芹沢家の中でもっとも身分の高い芹沢丁子。あるいは、かつてそこに座していたものたちのための風景なのだ。
「いつ来ても大きいなぁ。私なんか招待しちゃって、浮いてしまわないかしら」
瑠璃が自分のドレスのスカートを少し持ち上げながらため息をつく。確かに、一見は正装のように見えるが、一流でないことはスージーの目からもすぐに分かる。
「あれでも、迎賓用の建物だからな。私もあそこにしか行ったことないが、本館はとんでもないらしいぞ」
「え? あれが本館じゃないの?」
「まさか。そんなはずがないだろう。分かりやすく言えば、使い捨ての別荘のようなものだろう。今言った本館ってのもこの敷地にあるのか、もっと違う場所にあるのか私は知らない。厳重なセキュリティだな」
「はぁ。本当私って場違いな気がする」
肩をすくませてから笑い、スージーは答える。
「まあ、私なんて白衣だし。それに雅はそんなことを気にするお嬢さまではないぞ」
「うーん、それは分かってるんだけどねぇ。でも、ほら、それでも、あるじゃない?」
よく分からない疑問符に対して、スージーは、分からなくもないけど、と答えた。玄関が近くなってくると、そこが開き中から男性が出てくる。しっかりとスーツを着ており、パーティーの出席者なのだろう。少し目を細めて顔を確認する。額に傷があるところを見ると、蘇芳だろう。長男のはずだが、スージーからするとまるで高校生にしか見えない。さすがにそれは言いすぎだが、あれで社会人というのは無理があるだろう。
「やあやあ、待ってたよ」
よく通る声で蘇芳が手を振る。スージーと瑠璃は一緒に会釈をする。
「俺は蘇芳。ささ、雅も待ってるし、どうぞこちらに」
「どうも、よろしくお願いします。私、日達瑠璃です」
「ああ、もちろん知ってるよ。さあ、スージー教授も、どうぞ急いで下さい」
スージーは軽くため息をついてから、分かってるわ、と答える。
「私たちで最後かしら?」
「もうみんな集まってる。二人が会場に入ったら、雅のスピーチで始まりだ」
「そう」
なら、もう後戻りはできないわね、と。誰にも聞こえない声でスージーはつぶやいた。




